つっぱるな しょせんあんたは 3級品
――尾道の土堂小学校に行く前に、最後に学級通信を生徒に配るわけじゃないですか。ああいったことをされるのは根幹部分で、教師の大切さをお忘れになっていないということですよね。
陰山英男氏: そうですね。僕は教師になろうと思って教師になった人間ではなく、教師をさせてもらっているという感謝の思いがずっとあります。子どもたちがいてくれれば僕は何があろうと大丈夫だと思っています。
――感謝の気持ちというのは、すべてにおいて言えるかもしれませんね。
陰山英男氏: “つっぱるな しょせんあんたは 3級品”が、僕の格言です。自分が立派だと思った瞬間に人間は停滞を始めます。3級品だという自覚があれば1級品を目指して努力しようという気持ちが出てきますから。教育もひっくるめて完成品なんていうものは仕事には存在しません。
原点にあるのは、子どもたちのお陰で食わせてもらっている、子どもたちのお陰でこんないい夢を見させてもらっているということ。特に僕の場合は山口小学校に行って、そこでの子どもたちとの関わりの中で見えてきたものがあるし、土堂もそうですが、その学校でなければ出会えなかった子どもたちだって思えるんですよ。君たちが居てくれたから今日の僕があると。
最近、Facebookで教え子が連絡くれたりとか、「先生今度飲みにおいでや!」みたいなのがあって、すごく嬉しいんですよね。カリスマ教師とか、大阪府教育委員長とか肩書きはいろいろですが、子どもの前に行ったら担任と教え子、ごく普通の人間対人間の関係に戻ります。向こうも大人になっていますから、すごく気が楽なんですよ、お互いに。教え子とはすごく気楽に喋れるんですよね。そういう意味で教師であることの喜びが最近まったく違う形で味わえるようになりました。これは他の職業にはなかなかないですよ。
子どもを追い詰めた瞬間に教師は追い詰められる、しかしそうしないのは教師にあらず
――やっぱり陰山先生だからこそというのがお話を伺っていても感じます。先生はどんな授業を繰り広げられているんですか?
陰山英男氏: とにかく絶えず、怖く楽しく。極端ですね。授業はエンターテイメントだと思ってますけど、言うこと聞かなかったら死ぬほど叱りますから。そういう点で子どもを甘やかすのは許せなかったですね。
「君のままでいいよ」って言ったら楽ですよ。指導しなくていいですから。「てやんでえ! 要するに何もしないだけじゃねーかよ!」って思うんだけど。僕は、実際に手を出さないとしても、「てめーのここが気に入らねーんだ!」とか、それこそ殴りかかるような気持ちで接していくんだけど、子どもがしゅんとしたときにそれで別れてしまったら、ただのいじめです。その子をできるようにして初めて教師じゃないですか。
子どもを追い詰めた瞬間に教師は追い詰められるわけです。子どもを追い詰めない教師は僕から見るとただの怠け者です。あと、子どもに伸びようとか勉強しようとかできるようになりたいとか思わせないと絶対にできるようになるわけないじゃないですか。こういうことを言うと陰山は心の教育をないがしろにしていると言うやつがいるんですよ。あぁこいつは教育やったことがないやつだなと反論するのも馬鹿馬鹿しくなりますね。その間に1人でも2人でも子どもを伸ばしている方がこちらも楽しいし、精神衛生上もいいから相手にしないんですが。そういう点でいうと、やっぱり現場が楽しいです。
電子教科書は教師、子ども、学年などの“レッテル”をなくしていく
――教育における電子書籍の可能性についてもお聞きしたいのですが、電子書籍、もしくは電子媒体は教育にどんな効果、可能性をもたらすと思いますか?
陰山英男氏: 一番象徴的に言うと、電子教科書なら小学校1年生から高校3年生ぐらいまでの教科書を全部1台の端末に入れることもできますよね。ということは、小学校3年生が中学校の勉強をしていいんですよ。中学生が小学生の勉強のやり直しをしてもいいんですよ。できるんです。
つまり、伸びようと思ったらどこまでも伸びることを保証できるシステムを生み出してくれるわけです。教科書だけでなく、問題集や授業動画だって提供できますよね。そうすると、そうしたデバイスが学校や教育システムそのものになります。その子にやる気があれば、それだけで勉強ができてしまうわけですから。可能性が劇的に広がります。
%結局のところ、ITは境界とかレッテルといったものを取り去ってしまうんですよね。教師、子ども、学年などのレッテルが外されて、インテリジェンスに対して、素のままそこに入っていける可能性を持っている、ということなんです。そうしたときにじゃあ教師の存在って何だろうっていう問題が改めて問われますよね。やはり人間でなければ導くことのできない教育的営みを専門的に高めていかなければ、存在意義が失われますから。
例えば子どもたちにPCで小説を書かせると、漢字なども普通に変換されて画面に出てきますよね。子どもの文字で書かれていたものなら「読みにくいな」とか感じるかもしれませんが、そういうものがなくなって、どっちが面白いかだけが残りますよね。子どもたちの持っている可能性が大人と対等の土俵の上に立ってしまうわけで。そういう点でもデジタル化は、ありとあらゆる垣根、レッテルを壊してくと思います。
――例えば視覚に障害がある方で、字へのアクセスが困難な方とか、そういった方にも電子書籍は有用ですよね。
陰山英男氏: 音声とかね。いろいろな方法ができると思います。特に音声とか映像、さまざまな情報を表現できますから、点字だってできるかもしれませんよね。
――“ブックスキャン”というのが個人の蔵書を電子化するという業種になっていまして、今回のインタビューの経緯も、先生の著作物の依頼が沢山来ているんですね。捨てたくない、ずっと持っておきたいという方がいらっしゃるんです。
陰山英男氏: 僕の本を? ああいいね。それは結構多いのですか?
――多い方にお声がけをしています。
陰山英男氏: じゃあ要するに、蔵書として持っていたい本なんだね。光栄ですよ。
――いろいろなお考えの方がいらっしゃるので、例えば“俺の本を切るとはけしからん”と言う方もいらっしゃったりするわけですが、先生ご自身はどんなお考えですか?
陰山英男氏: 多くの人に読んでもらえるんだったらそれでいいかな。僕の場合は物書きで生計を立てているわけではなくて、あくまで副次的にできたものですから。僕の事業に対してお金が全然回ってこないなら、それはちょっと待てという話になるけど、本についてはそうじゃないですね。
――考えが広まるという意味ではその方がいいということですか?
陰山英男氏: その方が僕にとっては大事です。陰山という時代の流れとはまったく関係なく子どものためだけに生きようとしていた教師がいることをより多くの方に知っていただけるなら、僕はそれが一番ありがたい。
教育のデジタル化は僕の最終チャレンジ
――なるほど。では最後に今後の展望といいますか、どういったことに取り組んでいかれるつもりなのかをお聞かせいただけますか。
陰山英男氏: やはり教育のデジタル化です。僕の最終チャレンジ。今までやってきたことはすべてアナログの世界ですが、それをデジタル化することで教育の未来を提案していきたい。
僕は学級担任を離れていますし、もう自分自身の中でやれることはそう多くはない。そうした中でやってきたものをきちんとまとめて、デジタル化するのが、僕がやってきたことを次の世代に引き継いでいくための責務だと思っています。
それからいろいろ抜きにして、やっぱり好きなんですよITが。コンピューターを作っちゃ潰し、CPUをクロックアップして煙を出すとかね。ああいう世界が大好きですから。自分のアナログでまっとうな仕事人としての側面と、極めてパーソナルでオタクな部分とかの融合している部分が教育のデジタル化なんですよね。
(聞き手:沖中幸太郎)
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