読書は、考えを整理すること
――先生は講演旅行などで出張されるとき本はお持ちになられますか?
陰山英男氏: はい。世の中をどう見るのかみたいな本を持っていくことが多いですね。哲学書だといつかみたいに自殺したくなるんで。そういうときの読み方は“一人企画会議”みたいな感じですね。
例えば海外旅行で12時間ぐらい飛行機に乗ってたりするじゃないですか。そこでスケジュール表とか、データを入れた手帳1冊と、その時々の時代を象徴するような本を1冊持って、この旅行の後どうするのかをずっと考えるんです。“今から会議を始めます、テーマはこれですアジェンダは”みたいなことを考えながら、日常の雑然としたことを1つの方向に収束させていくにはどうすればよいかを考えるんです。12時間電話がかかってきませんから、これほど作業が順調に進むところはないですよね。
――先生にとっての読書は、考えを整理することだと。
陰山英男氏: そうですね。会議というか対話といえるかもしれませんが、自分自身の考えを整理してくれたりとか、新しいインスピレーションを与えてくれたりとかそういう感じですよね。
――本屋に足を運ぶこともあるかと思いますが、今と昔で本屋がこんな風に変わったなと思ったりすることはありますか?
陰山英男氏: とにかく大きくなりましたね。本屋さんが大きくなって、何か自分なりの目的を持っていないと本当に居づらくなってきた。行き場がないからね。ただインターネットなどで情報が得られるようにもなりましたので、あらかじめ読みたい本の目星もある程度付けられますから、いい傾向じゃないですか。
本について言えば、最近は娯楽として本を読むことが少し減ったのが自分の中で少し残念に感じています。昔はラブロマンスや推理小説を読むのが好きでしたが、それが皆目なくなりました。またそういう本が減った。非日常的過ぎたり、シチュエーションが非常にマニアックだったりで、最近の小説は読みづらいなという感じがします。ありふれていながら面白い作品というのはしばらく出会っていませんね。
僕の中では、本って読むものっていうよりは書くもの、情報発信を念頭に置いているところが絶えずあります。ネタに使えるものとか、あるいは他の人がガンガン言っていることは書けませんから、書くとしたらどういうことをテーマにしなきゃいけないのかみたいな、物書きとしての悲しい性みたいなものもあったりして(笑)。
絶望と揺るがぬ決意から生まれた『本当の学力をつける本』
――書くというお話も出ていたので、執筆活動についてもお聞きしたいのですが、最初の本を出すきっかけはどんなことだったんですか?
陰山英男氏: 1996~97年くらいの段階で、日本の教育状況は僕から見てほぼ最悪になりかけていたんですよね。親が子どもを甘やかすのがいいことだという風潮になっていて、子どもをしかる親は悪い親みたいな。これはマズイと思って、きちんと基本的なことをやる勉強をさせないといけないだろうということで、そのためには僕らがやってきたことを本にまとめて世に問おうと。
たまたま同時期に学校の同僚の先生が亡くなったこともあったんですが、2週間で原稿用紙200枚分くらいの原稿を書き上げたんです。それを当時私の師匠だった岸本先生のところに持っていって、書籍化できないかみたいな話をして、出版社を数社紹介していただいたんですが、「こんなレベルの低いものは出せない」とすべて断られまして。
30代の間に本を1冊書くことが自分が成功する人生の基準だと勝手に決めていたのですが、自分の30代最後の日である1998年3月6日は目標を達成することなく挫折の日として過ぎていきました。だから「人生にまたしても失敗してしまった」と思い込んでしまって、地元の和田山町(現在の兵庫県朝来市)から1時間半車で北へ向かいました。そして城崎という海辺の温泉町で原稿を握りしめて大声で泣いたんですよ。バカでしょう? でも人間っていうのは面白いもので、泣いてエネルギーを放出してしまうと冷静になるじゃないですか。冷静になったら馬鹿かお前はって思えてきて、早く帰ろうと思ったんですが、このままだと面白くないじゃないですか。第一悔しいし。
それで帰りに車を運転しながら決めたんですよ。「この本は、今出ないということは将来ベストセラーになるために今本にしてはいけないということなんだ」と。この本はどこかの大手出版社から出版されて、ベストセラーになって日本の教育を変えるように神様が運命をお作りになったんだと考えたんです。
だからその時に重大な決定もしたんです。「世の中を変える本だから、そうなると出版社が重要」と。ただの大手出版社じゃだめで、世の中を変える出版社じゃないといけないということで、文藝春秋から出そうと決めたんです。だって文藝春秋って、そうやってときどき時代を変えていましたから。それでその後小学館やPHPから出版の打診があったんですが、じっと文藝春秋が来るのを待ってたんですよ。
でも来るわけないじゃないですか。来るわけないから、ある日の放課後、PHPに電話して、本当はいますぐ本にできる原稿があるから見てくださいって連絡しようと思ってたんです。そうしたらその日の昼に「陰山先生電話です」って職員室に呼び出されて、電話に出たら文藝春秋からで「キター!」ってなりましたよ(笑)。
それで数日後に原稿を見せて、じゃあちょっと考えましょうかって話になったんですが、このときもう2001年の暮れだったんですよね。原稿は1996年に書いたもの。相当時間が経っていたんです。携帯電話の普及などで生活環境も原稿執筆時からかなり変化していたので、全体の3分の1を書き直しさせられたんです。ところが時間もないし忙しいですし、そんなことできませんって押し問答していたら最後にはただ一言、“うちは文藝春秋ですから”って。もう一言で終わり、聞き入れてもらえない。とにかく仕方がないので、言われるがまま全部受け入れてようやく出したのが『本当の学力をつける本』です。
この話には続きがあって、当時インターネットの掲示板で僕のファンの人との繋がりができかけていたんですよ。自分にとって一番重要な原稿を本にしたので、楽しみにしていてくださいと、お願いをしたんです。それで当日を迎えたら、どこの書店にもないと。「街中の書店を回りましたけどありません」ってメールが全国から寄せられて、慌てて文藝春秋に電話して、「おい! ないって言ってるぞちゃんと出してんのかよ」って言ったら、「出してます、間違いありません」って。おかしいなと思っていたら、置いた瞬間に売れているらしいという知らせが文藝春秋からきたのです。
だから翌日に緊急増刷してもらったんですね。それでも行き渡ってなかったので第3刷で一気に5万部増刷してようやく行き渡っていったんです。当時文藝春秋では毎週火曜日が増刷会議の日だったんですが、火曜日の夜になると、増刷が決まりましたって毎週電話が掛かってきましたね。5月いっぱいまで毎週火曜日は増刷していたので毎週火曜日は増刷の日だと勝手に思い込んでました。
結局その年の年末までに50万部出て、100マス計算のニーズも高まったんですが、100マス計算のいわゆる問題集が売っていなかった。ちょうどそのころ、僕の家に参考書の行商がたまたま来たんです。それで70万円くらいの教材セットを買えと。バカかと。書店に行って俺の本を見ろと言いたかったんだけど、70万円の教材に騙される人がいる以上は、それは由々しき問題だと思って、超格安で学力が伸びることを証明したいと。当時ワンコインという言葉が流行っていたので、「よし、500円だ。ワンコインで学力を伸ばそう」と考え、100マス計算ドリルを500円で出すことを決めたんです。
――それでワンコインだったんですね。
陰山英男氏: 小学館から出してもらったんです。必ず5万部は売れる自信があるって説明して。結局これが300万部以上売れてるんですよね。それが2002年の12月だったかな。
そして2003年の4月に広島・尾道の土堂小学校に行くわけです。折りしもそのとき、民間校長自殺事件があったので、メディアが尾道なり陰山なりに注目するわけですよ。100マスドリルのヒット、本当の学力のヒットも重なっていたんですが、僕には喜んでいる余裕がないわけ。民間校長自殺事件があって学校の中がぐちゃぐちゃになっていたから、もう朝も昼も夜もないし、金はどうでもいいからこれを鎮めてくれみたいな気持ちでしたね。