幸せな体験。書店の棚に「顔」があった時代。
――長年書店を見続けられていると思いますが、古本屋さんも含めて今と昔で、どのように変わったと思いますか?
唐沢俊一氏: まず書店さんの個性っていうものがどんどん無くなっている。渇望されながらなくなっていったのではなくて、必要とされなくなっていったっていう部分があると思うんですね。つまり人と同じものを読み、人の話に遅れないために今話題になってる本を読む人が増えた。もちろん昔もベストセラーはあるんだけど、昔はテレビや雑誌、新聞で話題の本ばかり読むやつは見下されていたんですよ。書棚を見ればその人間の人格が分かるみたいな感じで、いかに自分なりの読書地図を作っていくかっていうのがあった。本屋さんでもそうで、札幌の、地下鉄札幌駅の地下にリーブルなにわというなにわ書房系列の書店が当時あって、今でもあると思うんですけども、その当時のここの店長でHさんという方がいらした。この方の趣味がマニアックでものすごいんですよ。なにわ書店系列の中で一番売れてる書店にも関わらず、ベストセラー以外の、本好きの心をくすぐる棚揃えなんです。隅っこの方に幻想文学であるとか、民話であるとか、民俗学であるとかっていうコーナーがあってですね。もちろんSFとか漫画も充実していましたし、われわれにとっては天国みたいな、それこそ日本一面白い所みたいな感じでした。入り口の近くにはもちろん売れ筋の本が並んでいるんだけど、奥に行くに従ってマニアックな本が並んでいる。品ぞろえがすばらしいんですね。そこで本の選び方の勉強をしました。売れる本と、そんなに売れないけれどもマニアが本当に愛する本の差ってなんだろうとか、どうしてこの本に需要があるんだろうとか。で、Hさんに本について質問すると、何でも教えてくれる。本人がものすごい本好きで勉強家だったんでしょうね。
――店主が本が好きだからこそ、人に勧められるんですね。
唐沢俊一氏: そうです。古書店はそこのおやじの好みがありますけど、新刊書店であっても流通のサイクルがある訳ですよね。その中で個性っていうのが一店一店にあって、本好きの書店主がお客さん、特に若いお客さんにこういうのを読ませたい、っていうようなチョイスをしていた。何年か通っていくと、俺のために入れたかのような一冊があったりして。そういうの見つけると、「あっ」てうれしくなる。本当にその店にはお世話になりましたよね。やがて東京に出てきて、個性のある書店にも幾つも幾つも巡り会って、下宿の近くにあるいわゆる街の本屋さんっていうものには、ぬくもりも覚えましたし、古書街みたいなものがあるところでは、棚をひとつずつしらみつぶしに回って、この店はどれ位のサイクルで棚を入れ替えるかということをちゃんとメモしながら渡り歩いていました。今の人たちは皆大型書店でしか本を買わない。大型書店っていうのは何でもそろってるから便利なのかもしれないけども、その代わり自分の棚みたいなものを選ぶ作業というのはなかなかしにくい。そういう意味で書店の棚に顔があった時代を体験出来たっていうことは幸せだったと思いますね。
ひいきの書評家を読み込み、いつしか本を紹介する側に。
――先ほどベストセラーのお話がありましたが、売れる本というか、読者が本を選ぶ基準も変わってしまったと感じられますか?
唐沢俊一氏: そうですね。某新聞の書評欄に載ると増刷がかかるっていいますね。もちろん新聞の書評欄は、やっぱり基準ではありますし、大きな手掛かりにはなる訳ですが、それが自分の肌に合うかどうかは別問題。とはいえ、無差別に本を買いあさっていては金がいくらあっても足りません。私の場合、本を系統的にそろえるにはどうしたらいいか学生時代にやっていたのは、自分の読書のナビゲーターとなる、お気に入りのプロの書評家を見つける、あるいは本のことをよくエッセイに書く作家さんを見つけることでした。その人が書評で取り上げた本を買う。私の場合だと、たとえば向井敏さんであるとか、石川喬司さんがマイ・ナビゲーターで、そういうものを組み合わせて、自分の好みと対照させながら、自分の本の購買系統を作っていく。人気書評家であっても自分の肌に合わないとかっていうのはある訳です。私が大学のころに、椎名誠さんが『本の雑誌』という雑誌を創刊されて、その評自体は読んでむちゃくちゃ面白いんだけども、なぜかそこで紹介された本自体は面白くないんですよ。椎名さんの文章はいいのに、なぜか自分で買うと面白くない。これは系列が違うんだろうなと。自分の本の買う系統、系列とは違う系列で面白がってる人がいる。本が面白くない訳じゃなくて、その人の面白がり方と自分の面白がり方が違う。面白がり方というのは個性というか、面白がり方にも個性と区別があるんだということをそこで覚えましたね。
――書評を読んで、内容をそのまま受け取るのではなく、書評家の好みや個性を読み込んでいくんですね。
唐沢俊一氏: 同じころ、百目鬼恭三郎さんが書かれた週刊朝日の書評をまとめた『風の書評』という単行本(ダイヤモンド社)がありました。これがものすごい辛口書評なんですよ。もうめった切りに、これは読むに価しない、これは間違っている、これは面白くないという。でもたまに褒めるんですよ。例えば泡坂妻夫さんの亜愛一郎シリーズといういわゆる探偵ものに関してなぜかべた褒めしてるんですよ。「ロアルド・ダールの味がある」みたいなね。慌てて書店に飛び込んでいって、泡坂妻夫さんの本を買いあさりましたよね。やっぱり亜愛一郎は、いまだに面白いなと思います。でも百目鬼恭三郎さんの癖というのも読み込むと分かってきて、とにかく大衆文学というのは基本的に嫌い。そして、日本人はもっと教養をつけねばならないと言ってる。でも教養人の言う教養を付けるというのは、大衆にとって面白いことは決してない。じゃあ大衆文学を専門に褒めてくれる良い書評家さんはいないかみたいに探す訳ですよ。先に挙げた向井敏さんとかはそれで見つけました。ひいきの書評家さんを探し、その書評家さんの専門分野みたいなものを区分けして組み合わせてという形で、自分の本棚に顔を作っていく。その作業の繰り返しだったような気がしますね。そうしたら、いつの間にか自分もまた本を紹介する側に回っていたという感じです。今の人たちというのはそういう形で本を読んでいないみたいですね。今の世情のキーワードみたいなのをネットで拾って注文して、自分の読書地図というものを作らない。ネットに流れてるものを、そのまんま借り移すことで、よしとする。そういう本の選び方になってるような気がしますね。
手の届く人間の本しか、求められなくなってきている
――読者の変化に合わせて、書き手側も変わった部分はありますか?
唐沢俊一氏: 純文学という世界は特殊なんで別として、エンターテインメント的な読み物などにおいてですが、私の子どものころは、本の作者がどういう人なのかとか、作者の声というのは、作品で読んでくれっていう人が多かったように思うんです。ところが今やそうではなくて、Twitterであるとかブログのコメント欄で、友だち付き合い的に色んな話をしている。つまり昔は作家の先生って、われわれにとってものすごく偉かったんですよ。私なんか星新一みたいになりたいとか、筒井康隆みたいになりたいとかっていうのを小学生からずっと持ってましたよね。そのあこがれる人のようなものを書きたいというのがあった。今は、ネットというメディアを通してかもしれませんけれども、自分目線で普通に話ができるようにということで、作家が個性、人間性、付き合ってる時の楽しさなどフレンドリーな部分を随分とアピールしている。読者との間との垣根を取ることで、読者たちが「自分たちが親しくしている○○さん」という感覚、つまり親せきや、友だちが本書いたというような感覚で、本を選ぶんですよね。
――作家のミステリアスな部分が無くなったということでしょうか?
唐沢俊一氏: アイドルとかと似てるんですよね。昔はアイドルというのは手の届かない、とてもわれわれとは生活も考えも違う様な、雲の上の神様みたいな存在だった。私たちの母親とかの世代では、もう美人はトイレいかないみたいなとかね。今はAKB48なんかは握手会をして、ブログでその人の私生活までを知って、そこで初めてファンになる訳ですよね。プライバシーも何も、もう全部さらけ出すような感じで、これだけ私のことをみなさんに教えてあげるから、その代わりCDを買ってくださいっていう。そういう風になってる。作家に限らず、物書きというのもね、段々そういう風な感じになってくるような気がしますよね。
――作家が素顔も商品としていかなければならなくなったんですね。
唐沢俊一氏: 私たちの世代だと、昔かたぎで名前を出したくないっていうライターがまだ、いたんです。今は必ず、「文責何とか」って後ろの方にライターでも書きますけど。昔はそういうことはなかった。基本的に文責は編集部みたいな形でライターの名前っていうのは出ないことが多かった。私と同い年のあるライターは、インタビューする相手と雑談して、「おたくのところの雑誌に以前載った○○という文章はよかった」という話が出て、「あれ私が書いたんですよ」って名乗るのが誇りだったらしいんですよね。自分の名前や顔で売るんじゃない。あくまでも文章力で売るんだと。無名だけど「あの何月号の原稿を書いたの誰ですか、お願いしたいんですが」っていう感じで仕事が広がっていくのが古いかたぎのライターだった。確かにそいつの文章ってプロの文章っていう感じがしました。ただ私は今から20年位前ですけども、悪いけどその時代はもう終わりを告げてるって言った記憶があります。これから(当時からしてのこれからですが)は例えば唐沢俊一なら唐沢俊一、岡田斗司夫なら岡田斗司夫といった人間の名前で文章が読まれる時代になってきて、変な話だけど唐沢のファンだったら唐沢の書いたものだったらば全て読んでくれる。原稿なんかでも自分の中で面白い原稿と面白くない原稿ってありますよね。すべてがそんなに面白いという訳ではない。中にはこんなくだらない原稿を書いてしまったようなじくじたるものもある。だけどもファンだから読んでくれるっていうような。唐沢の考え方、誰それの考え方っていうものを知りたいっていう。それこそAKB48が今朝どこでご飯食べたか知りたいみたいなのと同じようなこと。つまり手の届く人間の書いたもの、手の届く人間の考えたこと以外をあまり求めなくなってきているっていうのは25年ものを書いてきての結論みたいな感じなんですね。
著書一覧『 唐沢俊一 』