懐疑的だった電子書籍の可能性。ハードの発展で期待急上昇
電子書籍の登場で激変する出版界の展望、本の未来について各界の著名人の方々に語っていただく当インタビューを企画するにあたり、ぜひお話を伺いたいと何度もお名前が挙がっていたのが作家・評論家の唐沢俊一さん。該博な「雑学」の知識で、評論活動やテレビ出演等を幅広く行い、また古本の収集家としても非常に有名です。満を持した今回のインタビューは、やはり本の山の中で行われました。
蔵書は2万冊!少しずつ整理、処分を始めている
――すごい量の本ですね。
唐沢俊一氏: それは触ったら崩れるんです(笑)。
――唐沢さんは、本は古書店などで買われているんですか?
唐沢俊一氏: もちろん古書店、新刊書店、コンビニなど、本を買える場所は全て利用していますが、ネットが段々多くなってますね。やっぱりワンクリックで手に入るというのは快感なんですよ。ちょっと中毒ですよね。一時Amazonで買う書籍が月40万とかになって家人に大目玉を食らったことがあります。
――仕事場の引っ越しを考えられているそうですが、本も一緒となると大変そうですね。
唐沢俊一氏: 渋谷の仕事場が、周りの再開発でどんどん使いにくくなって。行き付けの喫茶店とか、ランチをとるのにお気に入りだった渋谷名物の香港料理店とかが軒並みなくなって、ビジネス街になってしまいまして、引っ越しをしようという風に考えたんですけど、2万冊の蔵書を引っ越しさせる仕事場がまず見つからないんですよね。神楽坂にまあまあ良い所が見つかったんですが、今そこを使ってる方が、やっぱり2万冊位の蔵書がある方で、同じように移る所を探しているところで、その方の引っ越しを待っている間に5年もたってしまってるんですよね。つまりは、都心にそんな場所がどんどん無くなってきている。今、蔵書のほとんどは、お付き合いのあるいくつかの古書店さんに分散して保管してもらって、書庫代わりにちょっと使わせていただいてるんですよね。それで、もうほとんど使わないだろうなっていう分野の本は、その古書店さんにお売りするという形で、今整理を図ってるところなんですけども、整理してるんだか混乱してるんだかよく分からない状況です(笑)。
――ここにある本はごく一部ということですね。全部となるとものすごい量になりますね。
唐沢俊一氏: そうですね。40年間、本が周りに積み重なってるというか、本のほこりと共に育ってきたみたいなものなんですが、集めている時はそんなに増えてるって気がつかなかったんですよ。何社か運送屋さんに来てもらったんですが、どこも目を丸くして「長年運送業をやってますけど、このような総量の本を見たの初めてです」なんて言われるような状況で。
確かにいらないものもあるんです。知り合いの古書店さんで店舗を持たずに行商のように回ってくる方が何人かいて、義理のように買ってたんですよね。そういう読まないであろう本を、捨てるということを7年程前から始めました。自宅は、70戸位入っているちょっと大き目のマンションだったんですが、地下のワンフロアの半分を使ってるような大きなゴミ置き場のほとんどを私の本が埋め尽くして。ゴミ収集の方にも怒られまして、古紙回収にまとめて引き取ってもらってます。
蔵書をネット古書店へ。世界に広がる自分の図書室。
――蔵書を捨てたり、売ったり整理を始めたきっかけを伺えますか?
唐沢俊一氏: 今私が54歳で、本が読める時間というのは多分最長で見積もっても30年あるかないかということだと思うんですけども、その間に読める本の数というのを計算してちょっと減らそうと思ったんですね。本というのは買って読む楽しみのほかに、ためる楽しみ、探す楽しみというのがあります。で、私はどっちかっていうと探す楽しみと蔵書数を増やしていく楽しみに淫してきたという部分があるんですけども、大体普通の人が持っている4倍位の本を1回ごとに買う人間ですので、その蓄積というのは、かなり自分に対して圧迫になっている。もちろん本をたくさん買うというのも自分のアイデンティティーというか、外へのコマーシャルになっていて、「唐沢俊一ってこういう物書きだよ、本をとにかくたくさん持ってるよ」っていうキャラクターを裏切らないために本を買い続けた結果でもありますが、先ほど言った残り時間30年で、とても読み尽くせない本が自分の周りにまつわりついてる。で、あるとき、ふと気がついた。2万冊以上になると本を探して掘り出すまでに半日かかるんですよね。場所が分かっていても半日。ましてや分からないと1日、2日かかってしまう。この検索をすばやくしようと思うと、専任の整理係を雇わないといけない。それがね、Amazonなんかで買うと翌日届くんですよ。古書でも2、3日中には届く。アメリカから注文した時も1週間かからず届いたことがあります。書庫で汗みどろになって探すよりもはるかに早いんですよ。ということは世界中のAmazonを使えば、世界の蔵書が全部自分の図書室になる。読み終わった後また売っちゃえば良いんですからね。もちろんなかなか手に入らない貴重な本はありますから、例えばAmazonのユースドの出品数が3件以下になったものは自分で持っていようとか決めたりしました。自分の蔵書をいったん古書の海の中に戻して、本当に必要性のあるものを探して、ちゃんと最初から読むために買って、面白さというのを確認して死んでいきたいような、そういう心境になってますね。
「覚えとけ。この世の中で一番面白い所は古本屋なんだ」
――唐沢さんはいつも本に囲まれ、本と共に生活されてきたのだと思いますが、本に魅せられたきっかけはあるのでしょうか?
唐沢俊一氏: そうですね。子どものころは父も母も共働きで、夜以外はほとんど子どもの世話はできないという状況でした。私はちょっと足が悪くて、子どもの時は夏休み、冬休みの期間は入院生活ということをしていましたので、どうしても友だちが本ということになった。最初は「だるま」だったんですよ。なぜか知らないけどだるまが欲しいって言っていたんです。みんながだるまを買ってきてくれるんで、病室中がだるまだらけになって。だるまはさすがにちょっと奇妙だから絵本にしようっていうことになりました。でも、桃太郎だとか花咲じじいだとかというのはあっという間に読みつくしてしまって、次に絵があるから図鑑がいいということになった。あのころ小学館の学習図鑑というのがベストセラーになった時代で、動物の図鑑、魚介の図鑑、航空の図鑑、歴史の図鑑など色々ありまして、それにはまりました。またあのころ祖父がリーダーズダイジェストを取っていて、それのからみでビジュアルディクショナリーというものを買って。それがカラーの絵だったんですが、当時昭和37、8年ごろ、オールカラーの本っていうのは図鑑と絵本位しかなかったんですよね。ですからそういうものを集めるようになって、病室いっぱいに広げて退屈を慰めていたという辺りから本を集めるっていうことになっちゃいましたね。
――ご出身は北海道と伺いました。
唐沢俊一氏: はい。うちの実家が札幌の北四条西六丁目という、北海道庁の北門の角にあったんです。昭和30年代末、あの辺りの目抜き通りに古本屋があって、おやじが珍しく、私の手を引いて散歩に連れて行ってくれたときに、そこに一緒に行ったんです。売り場は広くて、色んな本が平積みになっている中で、おやじはそれ程古書に興味のある人間とは思わなかったんだけども、どういうつもりか「覚えとけ。この世の中で一番面白い所っていうのは古本屋なんだ」って言われた記憶がありますね。後にこの店は火事になってね、丸焼けになったのを祖母に手を引かれて呆然と見ましたけども。
古書店巡りに誘った横田順彌さんのエッセイ
――ご自分で書店を巡って、本を集められるようになったきっかけはなんだったのでしょうか?
唐沢俊一氏: 直接には私の高校生当時だから1970年代半ばに、作家の横田順彌さんが「SFマガジン」という雑誌に「日本SF古典」というエッセイを連載してらっしゃいまして、その当時はSFというのはマニア向けじゃなく一般的読み物で、そこに古書集めというまことにマニアックなこと(笑)が載っているというのが特異で。もちろん、そこで紹介される日本の古いSFというのも興味深かったんだけども、エッセイの前半3分の1が、その本をいかにして見つけたかっていう古書店巡りだとかの苦労だったんです。で、それがべらぼうに面白かったんですね。それを読んだ高校生のころ、影響を受けて自分も札幌の古書店をすすきの中心にまわったんです。あのころ札幌にはかなり古書店もあったんですよ。札幌の目抜き通りに四丁目プラザというビルがありまして、そこの中にも古本屋が入っていたんですよね。一誠堂さんという本屋さんでしたけれども、そこでSFマガジンのバックナンバーとかを色々買ったり。本を買いそろえることの麻薬的な魅力にはまっていったのは高校一年位からですね。
――本を集める快感と、買った本をまた読み返すということもあったんでしょうか?
唐沢俊一氏: 本というのはほかの商品と違っていったん手放してしまうと次にまた手に入れにくい。でも、いつまた同じ本というのは読みたくなるか、あるいは必要となるかわからない。特に物書きを商売にするようになってから、例えば10年前20年前に買った本を今原稿に使うっていうようなことなんかもある。「と学会」というものを20年前に始めた時に、今までいつ捨てようかと思ってたノストラダムスであるとかですね、超能力とかであるとかの関係の、読み返しもしない本が一気にその原稿の種になった。そういうこともあるので余計に捨てられなくなるんですね。
幸せな体験。書店の棚に「顔」があった時代。
――長年書店を見続けられていると思いますが、古本屋さんも含めて今と昔で、どのように変わったと思いますか?
唐沢俊一氏: まず書店さんの個性っていうものがどんどん無くなっている。渇望されながらなくなっていったのではなくて、必要とされなくなっていったっていう部分があると思うんですね。つまり人と同じものを読み、人の話に遅れないために今話題になってる本を読む人が増えた。もちろん昔もベストセラーはあるんだけど、昔はテレビや雑誌、新聞で話題の本ばかり読むやつは見下されていたんですよ。書棚を見ればその人間の人格が分かるみたいな感じで、いかに自分なりの読書地図を作っていくかっていうのがあった。本屋さんでもそうで、札幌の、地下鉄札幌駅の地下にリーブルなにわというなにわ書房系列の書店が当時あって、今でもあると思うんですけども、その当時のここの店長でHさんという方がいらした。この方の趣味がマニアックでものすごいんですよ。なにわ書店系列の中で一番売れてる書店にも関わらず、ベストセラー以外の、本好きの心をくすぐる棚揃えなんです。隅っこの方に幻想文学であるとか、民話であるとか、民俗学であるとかっていうコーナーがあってですね。もちろんSFとか漫画も充実していましたし、われわれにとっては天国みたいな、それこそ日本一面白い所みたいな感じでした。入り口の近くにはもちろん売れ筋の本が並んでいるんだけど、奥に行くに従ってマニアックな本が並んでいる。品ぞろえがすばらしいんですね。そこで本の選び方の勉強をしました。売れる本と、そんなに売れないけれどもマニアが本当に愛する本の差ってなんだろうとか、どうしてこの本に需要があるんだろうとか。で、Hさんに本について質問すると、何でも教えてくれる。本人がものすごい本好きで勉強家だったんでしょうね。
――店主が本が好きだからこそ、人に勧められるんですね。
唐沢俊一氏: そうです。古書店はそこのおやじの好みがありますけど、新刊書店であっても流通のサイクルがある訳ですよね。その中で個性っていうのが一店一店にあって、本好きの書店主がお客さん、特に若いお客さんにこういうのを読ませたい、っていうようなチョイスをしていた。何年か通っていくと、俺のために入れたかのような一冊があったりして。そういうの見つけると、「あっ」てうれしくなる。本当にその店にはお世話になりましたよね。やがて東京に出てきて、個性のある書店にも幾つも幾つも巡り会って、下宿の近くにあるいわゆる街の本屋さんっていうものには、ぬくもりも覚えましたし、古書街みたいなものがあるところでは、棚をひとつずつしらみつぶしに回って、この店はどれ位のサイクルで棚を入れ替えるかということをちゃんとメモしながら渡り歩いていました。今の人たちは皆大型書店でしか本を買わない。大型書店っていうのは何でもそろってるから便利なのかもしれないけども、その代わり自分の棚みたいなものを選ぶ作業というのはなかなかしにくい。そういう意味で書店の棚に顔があった時代を体験出来たっていうことは幸せだったと思いますね。
ひいきの書評家を読み込み、いつしか本を紹介する側に。
――先ほどベストセラーのお話がありましたが、売れる本というか、読者が本を選ぶ基準も変わってしまったと感じられますか?
唐沢俊一氏: そうですね。某新聞の書評欄に載ると増刷がかかるっていいますね。もちろん新聞の書評欄は、やっぱり基準ではありますし、大きな手掛かりにはなる訳ですが、それが自分の肌に合うかどうかは別問題。とはいえ、無差別に本を買いあさっていては金がいくらあっても足りません。私の場合、本を系統的にそろえるにはどうしたらいいか学生時代にやっていたのは、自分の読書のナビゲーターとなる、お気に入りのプロの書評家を見つける、あるいは本のことをよくエッセイに書く作家さんを見つけることでした。その人が書評で取り上げた本を買う。私の場合だと、たとえば向井敏さんであるとか、石川喬司さんがマイ・ナビゲーターで、そういうものを組み合わせて、自分の好みと対照させながら、自分の本の購買系統を作っていく。人気書評家であっても自分の肌に合わないとかっていうのはある訳です。私が大学のころに、椎名誠さんが『本の雑誌』という雑誌を創刊されて、その評自体は読んでむちゃくちゃ面白いんだけども、なぜかそこで紹介された本自体は面白くないんですよ。椎名さんの文章はいいのに、なぜか自分で買うと面白くない。これは系列が違うんだろうなと。自分の本の買う系統、系列とは違う系列で面白がってる人がいる。本が面白くない訳じゃなくて、その人の面白がり方と自分の面白がり方が違う。面白がり方というのは個性というか、面白がり方にも個性と区別があるんだということをそこで覚えましたね。
――書評を読んで、内容をそのまま受け取るのではなく、書評家の好みや個性を読み込んでいくんですね。
唐沢俊一氏: 同じころ、百目鬼恭三郎さんが書かれた週刊朝日の書評をまとめた『風の書評』という単行本(ダイヤモンド社)がありました。これがものすごい辛口書評なんですよ。もうめった切りに、これは読むに価しない、これは間違っている、これは面白くないという。でもたまに褒めるんですよ。例えば泡坂妻夫さんの亜愛一郎シリーズといういわゆる探偵ものに関してなぜかべた褒めしてるんですよ。「ロアルド・ダールの味がある」みたいなね。慌てて書店に飛び込んでいって、泡坂妻夫さんの本を買いあさりましたよね。やっぱり亜愛一郎は、いまだに面白いなと思います。でも百目鬼恭三郎さんの癖というのも読み込むと分かってきて、とにかく大衆文学というのは基本的に嫌い。そして、日本人はもっと教養をつけねばならないと言ってる。でも教養人の言う教養を付けるというのは、大衆にとって面白いことは決してない。じゃあ大衆文学を専門に褒めてくれる良い書評家さんはいないかみたいに探す訳ですよ。先に挙げた向井敏さんとかはそれで見つけました。ひいきの書評家さんを探し、その書評家さんの専門分野みたいなものを区分けして組み合わせてという形で、自分の本棚に顔を作っていく。その作業の繰り返しだったような気がしますね。そうしたら、いつの間にか自分もまた本を紹介する側に回っていたという感じです。今の人たちというのはそういう形で本を読んでいないみたいですね。今の世情のキーワードみたいなのをネットで拾って注文して、自分の読書地図というものを作らない。ネットに流れてるものを、そのまんま借り移すことで、よしとする。そういう本の選び方になってるような気がしますね。
手の届く人間の本しか、求められなくなってきている
――読者の変化に合わせて、書き手側も変わった部分はありますか?
唐沢俊一氏: 純文学という世界は特殊なんで別として、エンターテインメント的な読み物などにおいてですが、私の子どものころは、本の作者がどういう人なのかとか、作者の声というのは、作品で読んでくれっていう人が多かったように思うんです。ところが今やそうではなくて、Twitterであるとかブログのコメント欄で、友だち付き合い的に色んな話をしている。つまり昔は作家の先生って、われわれにとってものすごく偉かったんですよ。私なんか星新一みたいになりたいとか、筒井康隆みたいになりたいとかっていうのを小学生からずっと持ってましたよね。そのあこがれる人のようなものを書きたいというのがあった。今は、ネットというメディアを通してかもしれませんけれども、自分目線で普通に話ができるようにということで、作家が個性、人間性、付き合ってる時の楽しさなどフレンドリーな部分を随分とアピールしている。読者との間との垣根を取ることで、読者たちが「自分たちが親しくしている○○さん」という感覚、つまり親せきや、友だちが本書いたというような感覚で、本を選ぶんですよね。
――作家のミステリアスな部分が無くなったということでしょうか?
唐沢俊一氏: アイドルとかと似てるんですよね。昔はアイドルというのは手の届かない、とてもわれわれとは生活も考えも違う様な、雲の上の神様みたいな存在だった。私たちの母親とかの世代では、もう美人はトイレいかないみたいなとかね。今はAKB48なんかは握手会をして、ブログでその人の私生活までを知って、そこで初めてファンになる訳ですよね。プライバシーも何も、もう全部さらけ出すような感じで、これだけ私のことをみなさんに教えてあげるから、その代わりCDを買ってくださいっていう。そういう風になってる。作家に限らず、物書きというのもね、段々そういう風な感じになってくるような気がしますよね。
――作家が素顔も商品としていかなければならなくなったんですね。
唐沢俊一氏: 私たちの世代だと、昔かたぎで名前を出したくないっていうライターがまだ、いたんです。今は必ず、「文責何とか」って後ろの方にライターでも書きますけど。昔はそういうことはなかった。基本的に文責は編集部みたいな形でライターの名前っていうのは出ないことが多かった。私と同い年のあるライターは、インタビューする相手と雑談して、「おたくのところの雑誌に以前載った○○という文章はよかった」という話が出て、「あれ私が書いたんですよ」って名乗るのが誇りだったらしいんですよね。自分の名前や顔で売るんじゃない。あくまでも文章力で売るんだと。無名だけど「あの何月号の原稿を書いたの誰ですか、お願いしたいんですが」っていう感じで仕事が広がっていくのが古いかたぎのライターだった。確かにそいつの文章ってプロの文章っていう感じがしました。ただ私は今から20年位前ですけども、悪いけどその時代はもう終わりを告げてるって言った記憶があります。これから(当時からしてのこれからですが)は例えば唐沢俊一なら唐沢俊一、岡田斗司夫なら岡田斗司夫といった人間の名前で文章が読まれる時代になってきて、変な話だけど唐沢のファンだったら唐沢の書いたものだったらば全て読んでくれる。原稿なんかでも自分の中で面白い原稿と面白くない原稿ってありますよね。すべてがそんなに面白いという訳ではない。中にはこんなくだらない原稿を書いてしまったようなじくじたるものもある。だけどもファンだから読んでくれるっていうような。唐沢の考え方、誰それの考え方っていうものを知りたいっていう。それこそAKB48が今朝どこでご飯食べたか知りたいみたいなのと同じようなこと。つまり手の届く人間の書いたもの、手の届く人間の考えたこと以外をあまり求めなくなってきているっていうのは25年ものを書いてきての結論みたいな感じなんですね。
スマートフォン登場で、ベッドで読むのはほとんど電子書籍に。
――電子書籍の出現で、出版することが非常に容易になってくる中で、ますます読者と書き手との垣根が低くなってくると思いますが、電子書籍の特質や、将来性をどのように考えていらっしゃいますか?
唐沢俊一氏: 今から20年位前に、電子書籍ではなくて、ネット専用に本を書くとか読むとかっていう話があって、私はそれはまだ早い、ソフトが整っていない、業界が整っていないということで反対してました。その時に電子化の先頭を切っていた作家の先生は、「これからは紙で読むのはばかだ。紙の本で出すほとんどの費用は紙代、印刷代、製本代、それから運搬代で消えちゃうけど、ネットはそれがいらないから印税取り放題なんだ」とかって言っていた。でも、私は出版社はそう言ってないし、今変にそういう流れを作って、業界でインフラが整備される前に私道を作っちゃうと、逆に邪魔になるという意味で反対していたんですね。インフラの整備が完了したな、と感じたのは古書店さんたちが、これまでの手作り目録の魅力というものを諦めてネット販売が主になって、ある意味全国の古書店の目録が一挙に見られるようになった。これができて初めて、「よし、他の分野もこれだったら大丈夫」と思った。電子書籍もあと一歩ハードの分野で踏み出せば、「よし」と言うと思います。電子書籍の未来については、ソフトそのものっていうのは今までの蓄積がいくらでもあるんだけども、ハードはほとんどものがいまだし、ですね。そもそも重過ぎる、大き過ぎるんです。私も、蔵書の半分近くは寝転んで読んでいるんですよね。そのときに、紙の本なら、寝ちゃって顔の上にばさって落としてもあ、寝ちゃったかですむんですけども、iPadを顔に落とすとかなり痛い。しかもそのまま床に落ちれば壊れたり、床に傷がつく。電子書籍のハードの分野の人たちには、とにかくベッドで寝転がりながら読めるものを作ってくれっていうのを常に言ってるんですよね。軽く、壊れにくいものができれば、あっという間に広がると。
――私も顔に落としたことがあります。あれは痛いですね(笑)。
唐沢俊一氏: そうでしょう(笑)。だからスマートフォンが出来てきてから「これはいいかもしれない」と、ようやく明るい日差しが見えた。本当にスマートフォンの形、大きさっていうのはベッドで読むのに最適ですね。寝っ転がって横にしようが縦にしようがちゃんと読めるし、ページをめくるのも簡単。バックライトがあるから明かりつける必要がない。それから飽きたらすぐ次の本に飛べるってこととかがあるので、今はベットの中で本はほとんどスマートフォンで読むような感じになってますね。あれがもうちょっと読書に特化したという形になればいいですね。別に色んな機能は必要なくて、本を読むだけで良いんだから。ほかのものはお試し期間で使ってくれって言われて貸与していただいたこともありますけど、やっぱり重かったんで、あんまり使わなかった。スマートフォンの大きさ、重さが限度ですね。
――まだまだ伸びしろはあるということですね。
唐沢俊一氏: 伸びしろはありますね。ニーズにもうちょっと応えるようにしないと電子書籍は今後の伸びの角度が緩やかになってしまうという感じはあると思いますね。
劇場で、電車で。広がる電子書籍の可能性
――街中でも電子書籍を読んでいる人を見かけるようになりました。
唐沢俊一氏: 昨日ちょっとお芝居を見に行ったんですけども、開演を待ってる間、前の席の人間がコミックをずっとスマートフォンで読んでたんですよね。
電車の中なんかでも段々電子書籍を読むっていうのがでてきた。私、電車のイスで本を読んでる人の隣に座って、何を読んでるかって見る悪癖があるんですよね。かわいい女子高校生が一生懸命文庫に見入っていて、何を読んでるのかなと思ったら文鮮明自叙伝だったりして、がくぜんとするというような経験もしてるんですけどね(笑)。何年前だったかな。暮れに小田急線に乗ってた時に、キンドルで何かを熱心に読んでるOLがいたんですよね。イヤホンをつけて。それでほうほうと思って見ると、何かぶつぶつ言ってる訳ですよ。朗読してるのかなと思ったら「そうじゃねえよ熊さん、何を言ってるんだ」って落語を演っている。手書きの原稿みたいなものを取り込んで、それを読んで口でぶつぶつ。多分寄席番組かなんかを自分で筆写して、それを見ながらけいこをしてるんでしょうね。多分忘年会のけいこかなんかでしょう。こういうやり方もできるのかと思って。段々電子書籍的な読み方が出て来ているということでしょうね。
コレクターの大問題。蔵書は誰が相続する?
――自分の蔵書を電子データに変えて保存する人も増えていますが、唐沢さんは電子化を検討されたことはありますか?
唐沢俊一氏: 私も本が2万冊ではなくて、2千冊だったら「自炊」と称して全部コンピュータの中に取り込もうかなっていう気がしますけど。「と学会」の人間で自炊マニアになっちゃったやつもいますよ。電子化する業者もいますからね。お気に入りの業者のデータとか、ここ良いよみたいな感じの情報も、例会で飛び交ったりしますが。でも、私は古本人間なんで、いまいち裁断するのが抵抗がある。裁断しないで取り込めるものがあればなあというのがあるんですけれども。本を傷めずにということであれば、電子書籍として取り込んで、本は古書の市場に戻していくってことになるかもしれません。ただ気になるのが、自炊というか取り込んだ蔵書、その電子書籍の中のメモリに入っている蔵書というのは、死んだ後誰のものになるのかなっていう問題がありますよね。われわれの世代はそういうことも考えますよね。
――電子データの相続問題ですか。
唐沢俊一氏: 昔は奇書とか古書、貴重な本はそれなりに古本屋さんというプロが分類して、買い取るなり何なりというのがありました。
私なんか2万冊程度でヒーヒー言ってるけども、志水一夫というと学会の友だちがいて、浦和の三階建ての一軒家に4万冊持ってた。志水一夫の蔵書というのは、かなり大きい、前は三世代で住んでいたっていう三階建ての家を、ほとんど埋め尽くして廊下なんかまっすぐ歩ける所がないんですよね。で、ベッドの上まで本が積み重なって本人が寝室を追い出されてソファで寝ていて。背中が痛いのをソファで寝てるからだっていうので、長らく放っといたらすい臓がんだったんですね。早期に病院に行けば助かったかもしれないんだけども、これ、言ってしまえば本に殺されたみたいなもんです。それで遺族から蔵書の整理分類をしてくれと言われて、友だち何人かで行ったんですけど、とてもこれは個人で整理分類出来る状況じゃないということになり、古書店に引き取ってもらおうかと思ったんだけど、トラックを積んでも4万冊ということになると、100万円以上かかるんですよね。そんなお金は後に残ったご両親に負担させる訳にはいかない。どうしようかって考えた挙げ句に明治大学に相談したら、じゃあ引き取って志水一夫文庫みたいなものを作ろうかということになって、学生たちがやってくれたのでほっとしたんですけど。本のコレクターたちがどこに安心感を持っているかっていうと、自分は古本屋で本を買ったんだから自分が死んだ後も古本屋さんがこれをまた色んな人に回してくれるっていうのがあると思うんですよね。中には俺のコレクションだから絶対ばらけさせないで「何とか文庫」という形で保管してくれっていう人もいましたね。それだって個人のそんなところというのは、めったに利用できないですよ。結局全部死蔵になっちゃいますからね。色々考えた末にやっぱり古本屋さんに任せるのが一番なんです。
――それが電子データになるとどうなるのでしょうか?
唐沢俊一氏: 例えば私の本を欲しがってる親せきがいるとして、電子データをその親せきに与えた場合その権利っていうのはどういうになるのかなと。本だと物っていうような形としてちゃんとありますから、これも財産になります。ただ電子書籍の電子データとして入ってるものの相続権であるとかですね、そういうのってのはどうなるんだろうと。また、電子データは自分で読む目的で、商売に使わない、他人に譲渡しないから著作権に関してはフリーになってるかもしれないけども、人にこれを譲るというとなった時に、どうなるのかっていう問題ももうそろそろ生じてくる。電子書籍で本を中に取り込むというのが始まって数年ですけども、10年たつとそういう問題が生じてくる。そういうことも含めた上で法律ってどうなのかっていうことは、まずリサーチしていただきたい。そういうところで、何か法律的とか財産的な問題っていうのは起こり得ないのかは気になります。
――電子データを売り買いする市場も出てくるかもしれませんね。
唐沢俊一氏: 電子書籍に含まれたデータというのを一冊一冊に分類して、これは価値あるデータ、これは価値がない、と言う風に価値をABCDってつけてこれは何ランクのどこのランクっていう風に見極めるプロがまずは必要になってきますよね。その上で、「何バイトいくら」というような形のセコハン商品として何度も何度も商品にする、というのも必要になってくるんじゃないかと言うようなことも今考えてますね。
――データだけがあって、元の本がない場合も出てきますね。
唐沢俊一氏: 世界で一冊しかない本をデータで取り込んで元を処分しちゃうっていうのだってあり得る訳ですよ。ましてや今の古書価値っていうのは、昔みたいに古典だとかあるいは文学賞を取った作品ではなくて、今から20年位前からの古書価っていうのは、私なんかがワーワー言ったせいもあるんだけども、いわゆる大衆娯楽的な雑誌。私らはB級と言ってますが、B級雑誌、B級本が今最も古書価が高い。なぜかというと残そうと誰も思ってなかったんで、きちんと美本の形で残ってるものっていうのは極めて少ないんです。もともとその週刊誌なんかの特に丸綴じなんかの週刊誌は、保管しにくいっていう部分もありますので、これをきちんと美しい形で保存しているっていうのは極めて値段が高くなる。映画のポスターとかもそういうのもそうですよね。こういう大衆文化的なものは個人所有がほとんどで、図書館とか公共物にはまず、いい形では保存されてません。昔、新聞社の仕事でサブカル業界ではかなり有名な雑誌のバックナンバーを調べに国会図書館に行ったんですが、もう、保存されてない号の方が多いような状態で往生しました。で、個人のコレクションというのは、その人間が死ねば家族がすぐ燃しちゃったり、捨てちゃったりするんですよ。大体家族というのは、自分に本来注がれるべき愛とお金がそっちに行っちゃったっていうことで、そのコレクターの所蔵している本を憎んでますから(笑)。でも、データになると、さすがに憎らしいから消去しちまえっていうやつはいないと思うんです。これをどうするかっていう基本の形を早く決めておかないと、個人ではどうしていいか分かんなくなって、結局パソコンの中にデータとして置かれたままパソコンごと処分されてしまう。あるいはハードの中のデータとしてもそのハードごと処分されて消去されてしまうということがあり得ます。
――相続に限らず、スキャンされた作品の権利関係は非常に難しいですね。スキャンされて譲渡された場合に、書き手が印税なりを得るシステムも必要になってくるのでしょうか?
唐沢俊一氏: そうですね。特にネットのヘビーユーザーたちっていうのは、この世の中のものはただで読めるっていう思っているところもあるようです。ですからどうやってその代価を得るかですよね。その告知というものを、徹底しなきゃいけないということになりますよね。
ディスプレイの文字は表面しか受け取らない
――作家として、本を作る際に、電子書籍にすることを意識して内容を変えるなどの工夫をすることはありますか?
唐沢俊一氏: 私が聞いてる分には、昭和とか10年位前に書いたものを今電子書籍にどんどんと落としてる作家さんが、かなりの売り上げで案外潤ってるっていう話を某出版社の社長さんから聞きました。それでじゃあ電子書籍においては書き分ける必要はそんなにないのかな、という意味では安心してますね。ただ、私はネットで、ブログに日記なんかかなり上げてるんですけれども、例えばある人物のことについて、「あいつはこういうだめなことがあって、でもそこが良いんだよね」っていう風に書くと、ネットの人たちって「そこが良いんだよね」まで読んでくれないんですよ。悪口があったら、この唐沢という人間はこの人間が嫌いなんだろうと次の項目に移っちゃうんですよね。やっぱりネットで本を読むとかネットの文章を読む人間というのは、情報の速さとかを尊びますし、溢れんまでの情報量があるので、行間を読む作業をしない。表面に出ている意味しか取らない、とも感じています。古い作家さんたちが旧作を電子化してかなり潤ってるっていうのは、多分家にもう本を置けなくなってるおじさんたちが紙の本の代わりとして読んでるからではないでしょうか。最初から電子書籍を求めて読む人間が出てくると、そういった表層的な読み方っていうものが主になると思うんですよね。なので、この文章は非常に裏があるんですよっていう言い回しをする時には、電子書籍の利点というか例えば色を変えるとか、字組みをそこだけ変えるとかということにして、「ここは俺は含みを持たせているんだぞ」というような注意を喚起しないと、その通り読まれてしまうかもしれません。
――紙に印刷された字とディスプレイ上に表示される字では受け取り方がなぜ異なってしまうのでしょうか?
唐沢俊一氏: 今、次に出る本の赤入れ校正っていうのをやっていて、ゲラが紙で来る場合もデータで来る場合もあるんですが、データで見ると不思議に赤を入れるべき箇所というのを見落とす確率が高くなるんですよね。データで読むというのと活字として読むっていうのは、どうやら脳の中の受容する箇所が違うらしいんですよ。ネットでは本当に文法の基本的な間違いみたいなものとか、あからさまな打ち間違いを見逃してしまう。おそらく、パソコンの画面上では、意味だけを読み取っているんだと思います。本は意味のほかに、活字の並びをひとつの形、字の組み合わせとして認識して、あれ、おかしいなっていう所がどこかで働くんでしょうね。物質のないデータでは、読者にしてもすっ飛ばしたりとか、ものすごい勘違いしたまま読み終わってしまう。ネットでよく炎上とか、バトルが起きるっていうのも、そのネットの文章というのはすぐ脳の奥の所に行っちゃうらしいんですよね。読み違いだとか意味の取り違いも含めて、そのまま反射的に次に自分がレスポンスを返すということになってしまう。紙で文字になったものはアナログなんですよ、やっぱり。アナログを脳の中で一度変換するという作業がある中で、冷静になれるっていう部分がありますよね。
陰影のある文章が消え、読みのプロが絶滅する!?
――文章を書いてあるままに、しかも反射的、直情的に読む読者が増えてくる。
唐沢俊一氏: 私は自分の劇団をもってるけど、例えば、ばかという言葉には100通りの飛ばすやり方、受け取り方がある訳ですよね。泣きながら女の子が「バカバカバカ」って言うのと、私が「ばかっ」という風に言うのとでは全く意味が違う。でも字でばかって書くと同じ。小説では、どっちのばかなのかなと思わせる。「このばかは愛情を込めたばかだった」と書いたら、それは文学にならないのであって、直接説明しないで暗喩、隠喩、比喩で、どういう意味のばかかというものを説明しなきゃいけない。そこを読んでくれない人たちっていうのは、これから読者にどんどん増えてくるでしょうね。ある意味そういう読者に特化した文章を書く小説家、ライトノベルなんかはそういう人が多いですね。今ライトノベルがどんどんと売れている。売れてる小説ってライトノベル位しかないとまで言われている時代です。なぜかと思って読んでみると、なるほど、裏も表も全くない。ざあっと流して読んでいって、本当に電子データと同じようなスピードで読める様な文章を書いてる作家さんが売れてるんですよ。昔は読みのうまいやつとかプロになる程の評論、小説読みのプロというのがいた訳ですよね。それはいかに文章の裏を読めるかという能力があるかということでもあったと思うんですけども、多分そう言う意味で書評家みたいなのも絶滅するんじゃないのかな。最低レベルの人が読んで理解出来る分かりやすさっていうのが今の小説家、作家さんに求められちゃうので。
――なんとなく寂しい感じもしますね。
唐沢俊一氏: ただ先ほど言ったように、私が本を読める期間があと30年ということになると、新しいものを全く読まなくても私が生まれる以前とか、幼かったころの時代の本で、未読のものが山ほどある訳ですよ。それをあさるだけでも良いでしょうし、またそういうのが電子データで出ればこれで間に合うってこともあると思いますよね。良い時代なのか何なのかわかりませんが。この前、芥川龍之介に関する原稿を書いていて、芥川の最後の小説である「人を殺したかしら」っていうのが未読だったんですよね。これは本当に芥川の作品かどうかということも色々と論議されてるっていうので、何とか読まなきゃと思って、ネットで検索したら、版権切れのものなので、ネットで全部読めるんですよね。これだったら、変な話だけど、読みたいものにある程度制限かければ、もう私残りの一生本買わなくても読めるかもしれないんですよ。そういう時代になっちゃったんだなというように思いますよね。例えば海野十三という日本SFの父みたいな人が、作品が全部版権切れになってほぼネットで読めるんですよね。ネットで検索できる利便性はもちろんありますが、捜し求めて捜し求めて、10年目でようやく本の棚に見つけて、「あったー」っていう声を上げるあの楽しみがなくなってしまうと思うと、それは寂しいことでもありますけど、10年目にはもう自分がいなくなってしまうと考えると、そうも言ってられない。
電子書籍で古い本を復刻できる。ハードルは「ルビ」。
――ところで、唐沢さんは、よく昔の本の復刻を出版社にかけあっている、と言うお話をされていますが、古い本を電子書籍で復刻するという可能性はありませんか。
唐沢俊一氏: その可能性が今一番大きいし、やりやすくなったと感じます。復刻でも商業出版の本ってなると、やはりそれは売れ行きっていうか部数っていうことにものすごく左右されるんですけども、電子出版で、その敷居がすごく下がったということがありますよね。
かつ、注釈などが紙の本に比べてはるかに入れやすくなっているので、電子書籍なりに読みやすくすることをどんどんやって行くべきではないでしょうかね。
――昔の本を電子書籍で復刻する際の課題はありますか。
唐沢俊一氏: 電子書籍の最大のネックだと一時言われていたのが、ルビが打てないのでカッコのなかに入れていることなんですね。そうすると大正、昭和初期なんかの小説、特に泉鏡花の本なんてのはカッコ、カッコばかりで読めたもんではないんですよね。ルビにはルビの日本独特のすごい文学性というものがある。それが電子書籍で早く読みやすくなってほしいですよね。一時スキャナーを買ってカストリ雑誌とかを全部取り込んでおこうと思ったんだけども、活字が特殊であるということと、昔の本は、文章が途切れてきてと、中に挿絵があったりして非常にユニークな形になっている。そうなると文章スキャナーというのはお手上げなんですよね。取り込むにしろ電子書籍として書くにしろ、まだハードルというのはいくつか残ってるっていうことですよね。
――今後の本や読書の世界は、電子書籍と紙の本が共存していくのか、それとも紙の本が淘汰されるような劇的な変化があるのでしょうか。
唐沢俊一氏: 私がプロデュースした『立川流騒動記』と言う本を文学社メディアパルっていう所から出したんですけども、まず紙の本で出して、その後電子出版で出すって出版社で言ってる。「紙の本と同時に電子書籍を出すと読者を食い合いませんか」と出版社の人に聞いたら、読者層が全く違うから大丈夫です、と断言されました。紙の本を大事にする人というのは、ずっと紙の本ばっかり読む。で、電子書籍で読む人間は、電子書籍以外の紙の本には見向きもしない、というんですね。完全に二極化していると。紙の本を捨てて電子書籍に移った人間と、紙の本にずっとこだわってる人間と、世の中には二種類の読書人が今いて。そしてその中間にいる人間、通勤とかそういう中では電子書籍で読んで、家だと紙の本を読むのかという風に使い分けてる人間はほぼいないらしいです。でもなぜ二極化してしまうんだろうと思うんですね。両方それぞれに良い所はあるんだから、共存すればいいのに。電子書籍が出てきたことで二極に分かれてしまうのではなくて、最初は二極に分かれて、それから両方の良い所を取って、両方を使い分けるという人間が後から進化して出てくるんじゃないかなっていう風に思いますね。どっちかの良い所にばかり目がいって、電車の中で置き忘れたり、読み終わって捨ててきたりしても大丈夫っていう文庫本や新書本の良さと、図書館ひとつ分が一つの媒体に入るという電子書籍の良さ、皆さんどっちかに飛びついてますよね。それぞれ使い分けるっていう方がいいのではないかと思いますけどね。紙のにおい、インクのにおい、印刷された字の読みやすさ、目への優しさというものは電子書籍にはないものなので、物としての本、電子書籍としての本。読むための本、保存する本。この住み分けがどうなるのかというのが、端境期にたまたま生を受けてしまった本好きとしては、一番気になる所ですね。
電子化は既存のジャンルを再活性化するツールになる。
――最後に、電子化など新しい技術を使って、これから唐沢さんが取り組まれようとしていることがあれば、お聞かせください。
唐沢俊一氏: 私は、電子書籍に最も似合わないジャンルって何かと考えると、さっき言ったルビがやたらに振られた小説だと思うんですが、たとえばそのルビつきのところをタッチするとその言葉に関する知識が得られるエッセイが読めるとか、そういう教養小説的なものがあれば面白いと思うんです。映画のDVDに副音声というのがあるけど、あれを書籍で出来ないか、と思ってます。文体にそうなると、癖も持たせたいし。
――あえて行間を読ませるような文体で勝負すると言うことですね。
唐沢俊一氏: あともう一つは、今、わたし劇団を持って芝居をやってるんですよ。劇団といっても役者なんかを抱えているんではなくて、その度ごとに色んな所から集めるユニットなんですけども。実は演劇の世界でも電子化っていうことが大きくて、小劇場っていうのは満杯に客を入れても一公演100席~150席なんですよね。これを例えば7とか8ステージやって700人~1200人、それ掛ける3千円とかっていう入場料でやったりする。本だったら増刷とかできるけども、舞台では簡単に上演を延期っていう訳にはいかない。「CATS」じゃないんだから。その場合どうするかっていうと、やっぱり電子化なんですよね。つまりDVDか何かにする。それを昔みたいDVDを売るっていう話ではなくて、舞台で今やってるものを配信する。舞台の魅力っていうのは一期一会というかリアルタイムですから、リアルタイムで配信したものを電子書籍用のハードで見られないかということ。小劇場の舞台なんていうものは長くても一週間から十日ですよ。見たいんだけどもその時仕事があるとかあるいは地方の友だちとかっていうのは絶対見ることができない。そういった人たちに向けて配信していくということができないかなっていうのを考えています。そして電子書籍の中でそれの原作とか脚本とかを買えて読めるっていう形にすればまた広がってくると思うんですよね。いわゆる小説と演劇のリンクですよね。
――電子の利便性を利用して、もともとあるジャンルにまた新しい魅力が付け加えるということですね。
唐沢俊一氏: そうですね。その意味で言うと、私は紙芝居の梅田佳声先生っていう今88歳の先生について紙芝居をデータ化しようということで、「猫三味線」という3時間半の大作をDVD化して後世に残そうってやったんだけども、紙芝居はスマホ位の大きさの所で一番ぴったりしてるんですよ。漫画だとコマっていうのがものすごくちっちゃくなっちゃいますよね。スマホから名人の紙芝居の名調子も聞こえてきて、自分でも語ることができるっていうようなことができないかなと思っています。特に紙芝居は、変な話だけど、佳声先生がお元気なうちに、完全に電子化はしたいんですよね。できればその名調子と共に残しておきたい。前に一回そういう企画を出したことがあるんですけどもね。まだ色んな出版社とか個人に、紙芝居、あるいは電子化に対する知識、理解が無かった。電子書籍というのができたので、昔の活字の本であるとか、あるいは紙芝居であるとかライブ演劇というものが駆逐されるものではなくて、新しいジャンルの媒体を使って新しい形でもって広がっていくということができないかを、常に模索はしてるつもりです。
(聞き手:沖中幸太郎)
著書一覧『 唐沢俊一 』