竹内一正

Profile

1957年岡山県生まれ。徳島大学大学院工学研究科修了、米国ノースウェスタン大学客員研究員。松下電器産業にエンジニアとして入社。VHS、PC用磁気記録メディアの新製品開発、海外ビジネス開拓に従事。その後アップルコンピュータ社にてプロダクトマーケティングに携わる。日本ゲートウェイ、メディアリングTCの代表取締役などを歴任後、コンサルティング事務所「オフィス・ケイ」を設立。新製品開発、ビジネスプロセスの改革など「新たな価値」を生み出すことをテーマとした独自のコンサルティング活動を行っている。近著に『30代の「飛躍力」 成功者たちは逆境でどう行動したか』(PHPビジネス新書)がある。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

成功の秘訣は、失敗を恐れない勇気



1957年岡山県生まれ。徳島大学大学院工学研究科修了。米国ノースウェスタン大学客員研究員。松下電器産業(現パナソニック)入社、プロッピーディスクなど磁気記録媒体の新製品開発に携わり、事業再建という体験を通し、経営の奥深さを痛感する。95年アップルコンピュータ(現アップル インコーポレイテッド)入社。減り続けるOS市場シェア奪回をねらったMacOSのライセンス事業を立ち上げる。その後、日本ゲートウエイ、メディアリングTCを経て独立、2002年ビジネスコンサルティング事業所「オフィス・ケイ」を開設。『松下で呆れアップルで仰天したこと』(日本実業出版)、『スティーブ・ジョブズ神の交渉力』(経済界)、『30代の「飛躍力」 成功者たちは逆境でどう行動したか』(PHPビジネス新書)など著書多数。自身のビジネス体験を通して学んだ成功の秘訣や、ものの見方を、たっぷりと語っていただきました。

事業部再建で知った、経営のすごさ


――独立されて10年ですが、まずは近況を教えてください。


竹内一正氏: 名刺には経営コンサルタントと書いていますが、実際はコンサルタントをやる時間がなく、本を書く方に専念させていただいています。10月4日には『ハングリーであれ、愚かであれ』(2011年発行・朝日市新聞出版)をオーディオブックで出したんです。オーディオブックの市場認知度は、まだまだ低いですが、どのくらい出るのか楽しみです。

――スティーブ・ジョブズの一周忌に合わせて準備をされてきたとか。


竹内一正氏: 出版社から「オーディオでどうですか」という話が来たので、それなら、ジョブズの一周忌が10月だから、それに合わせて出さないともったいないとアドバイスをして。このタイミングで出せるよう、準備をしていただきました。

――もともと、文章を書くのは得意だったんですか?


竹内一正氏: とんでもない。作文を書けなんて言われると「イヤだ」と逃げ出すような小学生でした。読書感想文も大嫌いで、原稿用紙3枚って言われると、句読点を山ほど打って2枚書いて3枚目がマルで終わる(笑)。文章とは無縁のガキンチョでした。大学で工学部を受けた理由も単純で、英語が嫌いだったから。だからね、本当に人生は分からないもので。英語が大嫌いだった私がアップルコンピュータ(現アップル インコーポレイテッド=以下アップル)に勤めて、英語を駆使してビジネスをし、作文が嫌いだった小学生がこうやって執筆業で食べている。

――アップルに入る前は、松下電器産業(現パナソニック)にお勤めでしたね。


竹内一正氏: 新卒で松下電器に入って、VHSのビデオテープを作る磁気記録事業部に配属され新製品開発をすることに。世界を日本の企業が席巻したのがVHSで、技術力こそが企業の競争力だと信じていました。私はVHSテープに代わる第二の事業の柱を生み出そうと新型フロッピーディスクの開発をするんですが。ところが、大黒柱だったVHSテープがダメになって事業部は赤字に転落。松下本社は磁気記録事業からの撤退、事業部閉鎖まで一旦は決定してしまう。ところがその時、最後のチャンスを与えようとある人物を事業部長に任命し、再建を託すことになったんです。この新任の事業部長がすごかった。やったのは、徹底的な経営の透明化。事業部の状況、このまま行くとどうなるか、そうならないためにどうするべきかを、包み隠さず社員全員に言ったんです。事業を再建するには、現場まで危機意識を持たなければならない。この人は、「経営とはどういうものか」を私たち若手社員にハッキリと見せてくれたんですね。いきなり、課長職を半分に減らし、取引先と激しい価格交渉をし、新設途中の工場を止める決断をする。これって、みんなに嫌われるイヤな仕事です。そういう楽しくもない仕事を、自分がトップになってやるんです。当時、私はまだ平社員でしたが、そんな平社員から見ても一生懸命、しかも誰もが一番嫌がる、下手をすれば返り血を浴びるような仕事を先頭に立ってやるのを見せつけられると、現場はね、できない理由なんか言っている場合じゃない。発想もガラッと変わります、いかにしてやるかという風に。で、結果的に、その事業部長は事業部をみごとに黒字にして、松下本社を驚かせた。その時に「経営ってすごい。経営者になりたい」と思ったんです。

――当時おいくつでしたか?


竹内一正氏: 30歳前です。まあ、30前の技術者がいきなり経営者になりますって言っても、なれるわけないですよね。で、まずアメリカのビジネススクールに行って経営を学ぼうと思ったんです。それで、苦手だった英語の勉強を始めた。会社の連中にはナイショです。仕事は全部やって、それ以外の時間で勉強をしました。そして、ビジネススクールに行くために必要なTOEFLとGMATの試験を受けたんですが、点数が全然足りない。仕事をしながら休日に英語の勉強をするんじゃ到底無理かなって思い悩みました。ところで、松下電器には社内公募制というシステムがあって、社内で人材を募集している事業部に本人が行きたいと言えば在籍事業部の都合と関係なく移籍できたんです。それで、海外のPCメーカーとビジネス交渉ができる人材、技術が分かって英語ができる人材を募集している事業部があって。これは面白いと、その事業部を受けたんです。技術開発をしていたのと、英語は勉強の甲斐あって、当時、国連英検A級を取っていましたので。面接を受けるとこの事業部から「すぐ来てください」と言われて、移籍しました。海外ビジネスをする部署に行けば、相手とのやりとりも英語ですから、常に英語を使う。それで英語のスキルアップができると思いました。でもね、人生はままならないもので。それでビジネススクールに受かるかというと、残念ながら私の行きたかったスクールには合格しなかった。がっくりしていたその時に、思いもしないアップル社から転職の話が来たんですよ(笑)。

――すごいタイミングですね。


竹内一正氏: 当時アップルのCEOだったマイケル・スピンドラーが、低迷するOSのシェアを挽回しようと、Mac OSのライセンス化を打ち出したところでした。ついては、技術が分かって、コンピュータが分かって、英語ができて、ライセンスを受ける企業側とビジネス交渉ができる人間がいないかというので、ヘッドハントされたんです。本来、目的としていたビジネススクールへの夢は叶わなかったんですが、そのために勉強してきたことが全部役に立ってアップルで働くことになったんです。もし、ビジネススクールに受かっていたら、アップルで働くなんてすごいチャンスは巡ってこなかったでしょうね。

――松下電器とアップル、企業体質は違う部分が多くあるかと思います。


竹内一正氏: 企業風土は全く違います。松下電器では、嫌な仕事もあるし嫌いな上司もいるけど、辛抱して定年まで働こうとする。日本の大企業では99.9パーセントがそうだと思います。ところがアップルでは…。当時のアップルは動乱期でした。マイケル・スピンドラーが辞めて、ギル・アメリオが来て、スティーブ・ジョブズが特別顧問で返り咲く。それでも社員たちは至って前向き。というより、社長が誰だろうが関係ない。アップルでは、社長をはじめ誰一人、「ずっとアップルにいよう」なんて思っていない。自分が今ここでやりたいことをやるだけだと。上司の命令でも気に入らなければやらない、それが成り立つ世界だったんです。

著書一覧『 竹内一正

この著者のタグ: 『コンサルタント』 『チャレンジ』 『考え方』 『独立』 『技術』 『転職』 『成功』 『挑戦』 『ビジネススクール』 『発送』 『失敗』 『勇気』 『保守的』 『元気』

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
著者インタビュー一覧へ戻る 著者インタビューのリクエストはこちらから
Prev Next
利用する(会員登録) すべての本・検索
ページトップに戻る