成功の秘訣は、失敗を恐れない勇気
1957年岡山県生まれ。徳島大学大学院工学研究科修了。米国ノースウェスタン大学客員研究員。松下電器産業(現パナソニック)入社、プロッピーディスクなど磁気記録媒体の新製品開発に携わり、事業再建という体験を通し、経営の奥深さを痛感する。95年アップルコンピュータ(現アップル インコーポレイテッド)入社。減り続けるOS市場シェア奪回をねらったMacOSのライセンス事業を立ち上げる。その後、日本ゲートウエイ、メディアリングTCを経て独立、2002年ビジネスコンサルティング事業所「オフィス・ケイ」を開設。『松下で呆れアップルで仰天したこと』(日本実業出版)、『スティーブ・ジョブズ神の交渉力』(経済界)、『30代の「飛躍力」 成功者たちは逆境でどう行動したか』(PHPビジネス新書)など著書多数。自身のビジネス体験を通して学んだ成功の秘訣や、ものの見方を、たっぷりと語っていただきました。
事業部再建で知った、経営のすごさ
――独立されて10年ですが、まずは近況を教えてください。
竹内一正氏: 名刺には経営コンサルタントと書いていますが、実際はコンサルタントをやる時間がなく、本を書く方に専念させていただいています。10月4日には『ハングリーであれ、愚かであれ』(2011年発行・朝日市新聞出版)をオーディオブックで出したんです。オーディオブックの市場認知度は、まだまだ低いですが、どのくらい出るのか楽しみです。
――スティーブ・ジョブズの一周忌に合わせて準備をされてきたとか。
竹内一正氏: 出版社から「オーディオでどうですか」という話が来たので、それなら、ジョブズの一周忌が10月だから、それに合わせて出さないともったいないとアドバイスをして。このタイミングで出せるよう、準備をしていただきました。
――もともと、文章を書くのは得意だったんですか?
竹内一正氏: とんでもない。作文を書けなんて言われると「イヤだ」と逃げ出すような小学生でした。読書感想文も大嫌いで、原稿用紙3枚って言われると、句読点を山ほど打って2枚書いて3枚目がマルで終わる(笑)。文章とは無縁のガキンチョでした。大学で工学部を受けた理由も単純で、英語が嫌いだったから。だからね、本当に人生は分からないもので。英語が大嫌いだった私がアップルコンピュータ(現アップル インコーポレイテッド=以下アップル)に勤めて、英語を駆使してビジネスをし、作文が嫌いだった小学生がこうやって執筆業で食べている。
――アップルに入る前は、松下電器産業(現パナソニック)にお勤めでしたね。
竹内一正氏: 新卒で松下電器に入って、VHSのビデオテープを作る磁気記録事業部に配属され新製品開発をすることに。世界を日本の企業が席巻したのがVHSで、技術力こそが企業の競争力だと信じていました。私はVHSテープに代わる第二の事業の柱を生み出そうと新型フロッピーディスクの開発をするんですが。ところが、大黒柱だったVHSテープがダメになって事業部は赤字に転落。松下本社は磁気記録事業からの撤退、事業部閉鎖まで一旦は決定してしまう。ところがその時、最後のチャンスを与えようとある人物を事業部長に任命し、再建を託すことになったんです。この新任の事業部長がすごかった。やったのは、徹底的な経営の透明化。事業部の状況、このまま行くとどうなるか、そうならないためにどうするべきかを、包み隠さず社員全員に言ったんです。事業を再建するには、現場まで危機意識を持たなければならない。この人は、「経営とはどういうものか」を私たち若手社員にハッキリと見せてくれたんですね。いきなり、課長職を半分に減らし、取引先と激しい価格交渉をし、新設途中の工場を止める決断をする。これって、みんなに嫌われるイヤな仕事です。そういう楽しくもない仕事を、自分がトップになってやるんです。当時、私はまだ平社員でしたが、そんな平社員から見ても一生懸命、しかも誰もが一番嫌がる、下手をすれば返り血を浴びるような仕事を先頭に立ってやるのを見せつけられると、現場はね、できない理由なんか言っている場合じゃない。発想もガラッと変わります、いかにしてやるかという風に。で、結果的に、その事業部長は事業部をみごとに黒字にして、松下本社を驚かせた。その時に「経営ってすごい。経営者になりたい」と思ったんです。
――当時おいくつでしたか?
竹内一正氏: 30歳前です。まあ、30前の技術者がいきなり経営者になりますって言っても、なれるわけないですよね。で、まずアメリカのビジネススクールに行って経営を学ぼうと思ったんです。それで、苦手だった英語の勉強を始めた。会社の連中にはナイショです。仕事は全部やって、それ以外の時間で勉強をしました。そして、ビジネススクールに行くために必要なTOEFLとGMATの試験を受けたんですが、点数が全然足りない。仕事をしながら休日に英語の勉強をするんじゃ到底無理かなって思い悩みました。ところで、松下電器には社内公募制というシステムがあって、社内で人材を募集している事業部に本人が行きたいと言えば在籍事業部の都合と関係なく移籍できたんです。それで、海外のPCメーカーとビジネス交渉ができる人材、技術が分かって英語ができる人材を募集している事業部があって。これは面白いと、その事業部を受けたんです。技術開発をしていたのと、英語は勉強の甲斐あって、当時、国連英検A級を取っていましたので。面接を受けるとこの事業部から「すぐ来てください」と言われて、移籍しました。海外ビジネスをする部署に行けば、相手とのやりとりも英語ですから、常に英語を使う。それで英語のスキルアップができると思いました。でもね、人生はままならないもので。それでビジネススクールに受かるかというと、残念ながら私の行きたかったスクールには合格しなかった。がっくりしていたその時に、思いもしないアップル社から転職の話が来たんですよ(笑)。
――すごいタイミングですね。
竹内一正氏: 当時アップルのCEOだったマイケル・スピンドラーが、低迷するOSのシェアを挽回しようと、Mac OSのライセンス化を打ち出したところでした。ついては、技術が分かって、コンピュータが分かって、英語ができて、ライセンスを受ける企業側とビジネス交渉ができる人間がいないかというので、ヘッドハントされたんです。本来、目的としていたビジネススクールへの夢は叶わなかったんですが、そのために勉強してきたことが全部役に立ってアップルで働くことになったんです。もし、ビジネススクールに受かっていたら、アップルで働くなんてすごいチャンスは巡ってこなかったでしょうね。
――松下電器とアップル、企業体質は違う部分が多くあるかと思います。
竹内一正氏: 企業風土は全く違います。松下電器では、嫌な仕事もあるし嫌いな上司もいるけど、辛抱して定年まで働こうとする。日本の大企業では99.9パーセントがそうだと思います。ところがアップルでは…。当時のアップルは動乱期でした。マイケル・スピンドラーが辞めて、ギル・アメリオが来て、スティーブ・ジョブズが特別顧問で返り咲く。それでも社員たちは至って前向き。というより、社長が誰だろうが関係ない。アップルでは、社長をはじめ誰一人、「ずっとアップルにいよう」なんて思っていない。自分が今ここでやりたいことをやるだけだと。上司の命令でも気に入らなければやらない、それが成り立つ世界だったんです。
時代の変化を肌で感じる、それが本当の経営者
――松下電器とアップルで管理職の違いは?
竹内一正氏: 松下電器で私はずっと新製品開発をしてきましたが、痛感するのは松下の経営幹部や中間管理職は全然勉強しないんです。例えば、私がハイビジョンビデオカセットの開発していた時、開発目論見書を書く。それがどんな製品で未来にどんな可能性があるかを部長に説明するわけ。でも、「これはこういう技術で、こんな原理を使い」と基本的な説明からはじめないといけない。しかも、何回説明してもすぐ忘れちゃう。もっと言えば、自分の事業部がどんな製品を作っていて、なぜそれをお客さまが買うのかすら分かっていない。一方で、アップルをはじめ外資系企業の社長や管理職は、すごく勉強し製品を自分で使ってみますよ。この差は大きい。
――スティーブ・ジョブズは自分で製品を触って考える?
竹内一正氏: そのとおりですね。ジョブズは、自分のアイデアと発想が正しいことを証明するためにアップルを経営していたと言っていいでしょう。トップになれば自分の思う通りの製品が作れますから。ところが、松下電器では、新開発をするのに、まず上司の決裁を取って、経理部長に説明して、さらに製造部に説明して・・・。で、みんなが前向きに理解するかといえば、至って保守的なわけですよ。今の製造ラインも仕事の仕組みも変えたくない。ところが私のやる新製品開発というのは、今とは全く違う技術を使って、今とは違う作り方、売り方をしなければならない。それを受け入れられる人は、なかなかいなかったですね。できない理由ばかり並べ、その後ろに隠れたがる。新しいことをやって失敗したら、「失敗した」ことがマイナス査定となりますしね。あるとき、新製品の説明を会議でしたら、会議の席で面と向かって反対の声は出ないんですが、終了後にある課長が近づいて来て「竹内君、そんな海の物とも山の物とも分からないものを作っても、どうせうまくいかないからやめとけ」って。そんな人たちを押しのけて新製品を生み出さなきゃいけない。生産技術課長を口説き落とし、経理課長にウソをつき、営業課長を半分だまさないと、前に進まない。大企業病に松下は陥ってましたね。だから、自分がもっと権限を持ってディシジョン・メイキング(意思決定)できるポジションに就きたいと、すごく思っていたんです。アップルへ転職を決めた理由はこれでした。そして、松下電器にいると、10年後の自分が分かるわけですよ。
――10年後の自分ですか。どうしてわかるのでしょう?
竹内一正氏: 10年先に入った先輩を見れば分かる。出張に一緒に行けば、愚痴ばっかり。「事業部長が認めてくれない」、「営業がダメだ」。じゃあ、会議の席でそれを言うのかといえば、何も言わない。で、10年居てもこんなもんかと先が見えてしまい、人生がもったいないと思って。それに比べて、アップルの取り組むMac OSのライセンス化は全く新しい事業で、「竹内さんがリーダーになって全部やってほしい」みたいな話でしたので、それはもう願ってもないと。今でこそアップルは時価総額世界一ですが、当時は潰れそうな会社だったわけです。新聞紙面でもアップルは潰れるって目にすることが多かった。でも、誰がやっても成功しそうなことに手を伸ばすより、こりゃあダメだろうって事業を成功させることの方がカッコイイってマインドが私の中に育ってたんですね。新製品を開発し、赤字事業を立て直した体験がもたらしたんでしょうね。で、アップルへ行こうと決めた。
――実際にアップルへ転職して、いかがでしたか?
竹内一正氏: アップルでは、一人ひとりがそれぞれの仕事を全部任されている。自分が正しいと思うことをやればいいし、周りがとやかく嘴を突っ込むこともない。何かをやるためにアップルに入ったのだから、失敗したらどうしようと身を竦めたりしない。安全運転をしてアップルで出世、栄達を遂げたいなんて思っている社員は一人もいなかったですよ。アップルにいる間に人脈を作り、スキルアップし、いずれは自分で会社を興すか別の会社でさらに高いポジションに就く。アップルに人生と将来を委ねますなんて羊のような社員はいなかったですね。でもこれって、健全だと思います。年功序列も無論なく、男女差別も全くない。松下電器にいたころ、中央研究所で働いていた若い女性研究者がベンチャー企業に引き抜かれたことが話題になりました。ベンチャー企業は開発部長というポジションをオファーしてきた。でも、松下電器にいたら係長にもなれない。で、優秀な女子社員がどんどん外に引き抜かれていくと。でも、アップルをみると会社の経営中枢に女性がいくらでもいる。それが会社の活力であるし、フェアな状態を作っている。会社は赤字で混乱はしていましたが、うつうつとした状態でため息をつくような社員はアップルに一人もいなかった(笑)。
――アップルは見事に立ち直りましたからね。
竹内一正氏: スティーブ・ジョブズが成功したのは時代の変化にうまく乗れたからです。本当の経営者は、肌感覚でそういうことが分かる。松下幸之助もそうでした。世の中が変化する時代。大正から昭和初期の頃、着物だった人たちが洋服になり、サラリーマンがワイシャツで生活するようになる。あのころ、アイロンは輸入品しかなく、富裕層しか買えなかったんです。でも庶民がどんどんサラリーマンになってワイシャツを着る。松下幸之助は、「輸入品よりも安く高信頼性のあるアイロンを作れば飛ぶように売れる」と言って、日本が1年間で作る数のアイロンを月産で作れるような設備投資をしろと言った。「そんなの作っても売れない」って幹部はみんな反対しましたが、「絶対売れる」と。常識で考えれば売れないよね、12倍作っちゃうわけだから。でも、売れるどころか、足りなくなったんですよ。 経営者に必要なのは、変わっていく時代をどう見極めるか。ジョブズがiPodを出した時でも、まさか2億台も売れるなんて誰も思わなかった。iPhoneを出した時なんて、「パソコンメーカーが携帯電話!?」ってNTTdocomoの社長がせせら笑ったのを覚えています。でも結果的に言えば、ジョブズの方が先が見えていた。経営者に求められるのは、そういうこと。未来が見えている経営者は、少ないと思います。欧米でも日本でも、若者の失業率は致命的。しかも、日本は企業の絶対数が減ってるんです。つまり、新しい産業を興さない限り、若者を受け入れるイスはないんです。それなのに、経産省も厚労省企業も、数少なくなったイス取りゲームのイスを、どう取るかばかりに熱中している。
――イスを増やすことを考えずに、少ないイスを取り合っているんですね。
竹内一正氏: そう、イスの絶対数を増やさなければいけない。昭和初期に松下幸之助が時代の流れをとらえて新しい製品を作ったように、ジョブズがiPodやiPhoneを作ったように。そのために、社会に必要なのは、多様性を認める寛容力。「わけの分からん若造なんか」と言わずにね。ジョブズなんてKYの典型ですよね。人が何を言ったって知ったこっちゃない。でも、突き進むバイタリティーがある。だから、ジョブズと働きたいって優秀な連中が集まってくる。ジョブズに金を出したマイク・マークラという個人投資家がいますが、ああいう、「わけは分からないけど面白いかも」というものにお金を出す大人が必要なんです、日本にも。お金を貯めることは、それはそれで重要ですが、一番重要なのはお金をどう使うか。スティーブ・ジョブズや、かつての松下幸之助が生まれて創業した時のように、わけの分からない奴らを、社会が受け入れバックアップする風潮が生まれないと、日本は1400兆円の個人資産を持ったまま沈没してしまう。
晴れた日に、力のある人材は生まれない
――偉大な経営者には、何か共通するスピリット、マインドがあるように感じます。
竹内一正氏: 私が本を書く理由の一つは、読者に勇気と元気を与えたいから。まじめにコツコツ働いているけど報われない、失敗して挫折している、そんな人たちに「いやいや、スティーブ・ジョブズなんてこんな失敗したのに、乗り越えてこんなすごいことをやったのよ」って。松下幸之助もね、すごく失敗しているんですよ。失敗して恥をかくなんて当たり前ですよね。失敗したり恥をかいたりすることの方が身に付きます。楽天の野村元監督もね、「負けに不思議な負けなし」って言うんですよね。成功は、なんで成功したのか分からないけれど、失敗からはいくらでも学べるんです。失敗した時には、明らかに理由があるから。ところが、日本は学校で、「失敗するな」としか教えない。これが日本をダメにしている。エジソンだって松下幸之助だってジョブズだって、山ほど失敗してきたんです。学校で教えるべきことは、失敗の仕方ですよ。1の失敗をして1しか学べないような失敗はダメなんです。1の失敗をして10を学び取る。そして、失敗した時にどうやって立ち直るかを、日本の学校は教えなきゃいけない。
――人は失敗して育っていくのですね。
竹内一正氏: そうです。松下幸之助が、昭和初期に社内にいち早く社員研修所を作った理由はなぜか。社員を育てるには、会社を危機に陥れるのが一番いい。会社が危ない時にこそ社員は育つと悟ったからですよ。でも、社員を育てるために毎回毎回、会社を危機に陥れるわけにはいかないでしょう。だから、社員研修所を作ってそういう勉強させていきたいという発想で作ったんです。晴れた日には、力のある社員は生まれない。ジョブズもアップルを追われて、失意の30代と言う屈辱の体験があったからアップルに戻って成功した。土砂降りで北風が吹いてがけ崩れになって足首まで水に埋まるような状況になって初めて、底力って養われるんですよ。それは、私も松下で赤字事業部を経験して実感しました。
――そういった体験が、本の中でもストレートに表現されていて心に響きます。
竹内一正氏: 松下幸之助が松下電器を作り、30代で飛躍的に大きくしていった時の社員は、松下幸之助を喜ばせようと、褒めてもらいたいと思って必死になって働いたんだと思います。創業当時の松下電器なんてね、小学校の臨時職員をしてたけどケンカして辞めて、知り合いに紹介されて来たとかね。そういうあぶれ者ばっかりだった。松下幸之助に出会わなかったら、そこら辺の町工場のオヤジで終わっているような人たちが、一部上場企業の社長にまで成長した。何万人という社員のトップとして色んな経済誌にも取材されるような経営者になる。これが、経営の面白さ。お金は、一万円は一万円の価値しかない。でも人間は一人を10倍にも100倍にもできちゃう。結局、松下幸之助もジョブズも、家柄やお金があるわけじゃない、大学を出ているわけでもない。それでいて、周りにいる人を、その気にさせ、能力を本人が想像もしなかったほど大きく開花させた。
追いかけて、「ありがとう」と言おうかと・・・
――最初に本を出されたきっかけは何ですか?
竹内一正氏: 私は 2002年にビジネスコンサルティング事務所を立ち上げました。ある時、新聞の広告欄に、「あなたの原稿を本にします」っていう公募記事を見つけたんです。自分のこれまでのキャリアを本にできたらいいなと思って。で、原稿を書き始めた。でも実は、私はブラインドタッチでキーボードが打てないんです。打つのに時間がかかって「面倒臭い」と挫折しそうになった。その時に思い出したのが、音声入力のソフトウェア。アップルにいたころ、音声認識の開発に本気で打ち込んでいたのは、アップルとIBMだけだった。で、IBMがViaVoiceっていうのを出していたんです。それを思い出して秋葉原に行ってみたら、6千円くらいで売っている。使ってみると、意外に使えるんですよ。で、音声入力を使って書いたのが、最初に出した『松下で呆れ、アップルで仰天したこと』(2003年発行・日本実業出版社)なんです(笑)。
――音声入力で本を書いた方は初めてではないですか?
竹内一正氏: 希少価値かもしれないですね。もちろん、音声入力で全部仕上げるわけではないですよ。全体を書くには、私の下手くそなキー入力より音声入力の方が早い。あとの文章の入れ替え作業なんかは、パソコンで簡単にできるじゃないですか。で、原稿を新聞広告が出ていた会社に持って行ったんですが、私は当時、「自費出版」っていうビジネスがあることすら知らなかった。よくよく聞くとタダで本が出るわけじゃなく、お金がかかる。それも、車が買えるくらいの金額。そんなにかかるならやめとこうと思っていたんですが、だんだんもったいない気がしてきて。原稿はできているんだし、一般の商業出版社に売り込んだらどうかなと。松下電器にいたおかげで、厚かましく相手に売り込むことをためらいなくできるような性格とスキルを身につけていたので。後で知ったんですが、出版業界ではやっちゃいけない方法でしたが、出来上がった原稿を出版社にドンと送り付けちゃった。何社か送って電話をかけて、「あの、送ったんですけどいかがでしょうか」って訊くと「うちは持ち込みは断っています」、「こんなことをされたら迷惑だ」でガチャッと切られた。「そうなんだ」と、挫折しそうになりましたが、ある人が、「日本には出版社が何千社あって、その中で一社でもOKって言えば本は出る」と言っていたのを聞いて、ならもう少し頑張ってみようかと。結局ね、厚かましくも三十数社に送ったんですよ。それで、返事が来たのが日本実業出版社だった。電話がかかってきて、「読ませてもらったらすごく面白いので。編集会議で決裁を取りますので一週間待ってもらえますか?」って。その時は本当にびっくりしましたね。
―― 大きなターニングポイントでしたね。
竹内一正氏: あの時、自費出版だけであきらめていたら本になることもなかった。やっぱりね、人生を切り拓くには失敗を恥と思わないことです。原稿のタイトルは『松下で学びアップルで体験したこと』って書いて出したんですよ。でも、編集者が「平凡すぎる」って。で、結局『松下で呆れアップルで仰天したこと』に決まりました。最初に聞いた時は、“あきれ”って痴呆の呆でしょう。少し抵抗がありましたが、プロが付けた名前なので、「分かりました、どうぞ」って。ところが出版社の中でももめたみたいで。日本実業出版社は松下電器関連の本も出していましたので、「松下で呆れ」ってのはまずいだろうと上からクレームがついた。でも、最後は編集者が言ったこのタイトルで押し通していただいた。題名がとっても大事だっていうことは、その後わかったんです。出版してすぐ、週刊文春だったかな、著者インタビューをしたいって来たんですよ。折角なんで、記者の方に「世の中に山ほど本が出ているのに、何でこの本を選んだんですか」と聞いてみたら、「題名です」って。この題名に惹かれたんですと。それで本を読んだらすごく面白くて、すぐに取材を申し込んだって。「題名って大事なんだな」と実感しました。
――もちろん、内容の面白さもありましたよね。
竹内一正氏: でも本って、いくら面白くても、読んでもらうまでにハードルがあるじゃないですか。まず本屋でどこに置かれるか。タイトルやデザインが目を引くか。で、最後に行き着くのがコンテンツで、そこに行き着かない本が圧倒的でしょ。私は、現場現物主義を、松下電器でいい意味でたたき込まれたので、本を書いた後、どう売れているかを任せっ放しにする気はなかったんです。現場、つまり書店を巡って、どんなところにどう並んでいるかを見て回った。出版と同時に丸善本店に行ったらドサッと平積みしてあった。うれしい反面、場所が悪かった。私の本を挟んで両隣にIBMのルイス・ガースナーと日産のカルロス・ゴーン。「何でそんな本の間に挟んで無名の竹内の本を置くんだ」とガックリ。気を取り直して、店内をぐるっと回って戻ってくると、そこに立ち読みしている中年のサラリーマンの男性を発見。で、柱の陰からこっそり見てると、IBMを手に取って、次にカルロス・ゴーンを取って、これで終わると思ったら、最後に私のを手に取ったんです。「おー、すごいゾ!」と胸が躍った。で、どうするか観察していたら、結局、私の本を持ってね、レジに向かったんですよ。これはものすごい感動です。追いかけて「ありがとうございます」って言おうかと思いましたが、変に思われるからやめました(笑)。
見方を変えれば、人生はいくらでも面白くなる
――今後の出版社・編集者の役割はどんなところにあると思いますか?
竹内一正氏: 目利きと発掘でしょう。柳の下のドジョウのようなのを持って来て編集会議にかけるのではなく、この著者は無名だけど面白い、この本は訴えるものがあるっていう、これまでと全く毛色の違うものを発掘して、世の読者に知らしめる、それしかないですよ。柳の下のドジョウをやっていると、松下電器の大企業病と一緒で、出版社が大企業病に陥っちゃう。読者が求めているのは、編集会議に通りやすいものではなく、新しいものなんです。そういうものを出すにはリスクテイクしなくちゃ。それには勇気がいる。事業経営もそう、1にも2にも勇気。学生の就職活動もそうだし、新入社員になった時もそう、いるのは勇気なんですよ。生きていく上で、出すべきタイミングでうまく勇気を出せる人は、結果的に成功に近づいていくんだと思いますよ。今の若い子に聞くとランキングを見て本を買いますっていうでしょう。それ自体が思考停止ですよね。僕らが学生のころは、人が読んでいない本を探して読む方が自慢だった。今の若い人は本当に保守的になっている。少子高齢化なんて言ってるじゃないですか。でも、少子化は問題じゃない。人数で経済を引っ張っていく時代なんて終わってますよ。若い世代の人数が減っても、バイタリティーにあふれ、新しいことをどんどんやっていく連中が、1人でも2人でもいればいいんですよ。松下幸之助は22、23歳で松下電器を作り、ジョブズは21歳でウォズと一緒にアップルを作った。若いころこそ無鉄砲にならなければ、人生いつ無鉄砲になるんだと。50、60代になって無鉄砲になったら世間が迷惑するだけ。20代なら、無鉄砲が許されるんだから。
――このインタビューを見るであろう読者に向けてのメッセージと、今後の展望をお聞かせください。
竹内一正氏: 世の中にね、良いことと悪いことは同じだけしか起きていないんです。運のいい人は、物事を明るい方向から見る。運の悪い人は、物事を暗い方向からしか見ないわけです。ペットボトルに半分水が入っていたとして、「半分しか入っていない大変だ」と思うのか、「半分もある、ラッキー」と思うのか、その違いだけ。心の持ちようってどうにでもなる。苦手なことや失敗が、実は大きなターニングポイントになって成功に導いてくれることも多い。失敗をしっかりと見つめ直していくと成功への糸口があるんです。ジョブズが成功したのはNeXTとPixarを作った30代に暗黒の10年があったから。僕は運が悪い、私は運が悪いっていう人は、実はその横にある運の良いところが見えてないんです。私は、米国のビジネススクールに行きたいと勉強したが、その目的は達成できなかった。だけども、その横にあったアップルで働くっていうもっとすごいチャンスを手にしたんです。一生懸命やれば、たとえ夢がかなわなくても、また別の夢と出会える。自分が思いもしなかったね。悪いことに目が奪われて臆病になるのではなく、見方を変えて良い方向から見られるような習慣をつけていけば、人生はいくらでも面白く光り輝くものになっていくと思います。今後、私が何を書いていくにしても、読者に勇気と元気を与えていきたい。読者がまだまだ知らないことを見つけ出して、皆さんを勇気付けることができる。そういう本を出せればいいなと思います。
(聞き手:沖中幸太郎)
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