栗田昌裕

Profile

1951年生まれ。東京大学理学部卒、同大学院修士課程修了、同医学部卒。医師、医学博士、薬学博士。薬物動態学、肝臓病学、医学統計、システム理論などの研究を進める一方、講演や執筆も行う。日本初の速読1級の検定試験合格後、速読を入り口としたSRS(スーパー・リーディング・システム)能力開発法を提唱。「読む」ことを音韻言語のみの世界から視覚でキャッチするすべての情報に対応・発展させた情報処理を教える。世界伝統医学大会3回連続グランプリ受賞をはじめ、毎日21世紀賞、2001年提言賞等受賞も多数。指回し体操創案者。手相も指導。大学・大学院で医療・医学・薬学・リハビリ等を講義。著書百冊以上。

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情報がたくさんある時代、全てに目を通していたら人生が終わる



栗田昌裕氏: 現代は腐るほどのゴミ情報があります。ゴミに関わって一生を終えてしまうのは悲しいことです。昔は質の良い本がありましたから、本屋へ行って、楽しみながら良書を選んで買い、家でじっくりと繰り返し読む。過去にはそういう作業が健全で知性的だと思われる時代がありました。
ところが現在は、1回の検索をしたら、何百冊もの参考書が見つかり、何百万頁という関連情報を記載したホームページが引っ掛かってきます。そのホームページを一々音読していたら人生は終わってしまいます。その内容がゴミ情報かどうかを探っているだけで人生の時間が終わってしまう状況になったのです。

そこで、ゴミは一瞬にしてゴミだと見分ける力が現代には要るのです。それが速読力なのです。ゴミの山から、珠玉の宝石のような情報を見つけ出すには速読が要るのです。
さらに、宝石を見つけたら、それをいかに確実にものにして、人間としての成長に役立てるかという別なレベル技術も必要になります。それが能力開発の先々の段階の出来事なのです。
その中核をなす基本的な技術は、実は一見当たり前に見えるかもしれない「心の使い方」にあります。

速読や能力開発で重要なのは「心を配る」こと



栗田昌裕氏: 私が速読教育や能力開発の指導で最も重視していることは「心を配る」という技術です。これは最大のテクニックとも言えます。
心を配るとは「意識をそこに持っていく」ということです。そことは対象のことです。これが全ての始まりです。
実は速読ができない人はそれができません。能力開発が進まない人もそれができません。というのは、訓練をしているつもり、速読をしているつもりにはなっているのですが、心が対象、ターゲットに届いていないのです。
「ターゲットにきちんと意識を持っていく」ことが全ての始まりです。読むことの始まり、読んで何かをとらえる始まりはそこにあります。

同様に、手相を読もうと思ったら、手相にきちんと意識を持っていけるかどうかが解読の始まりです。
本も同じです。速読をしようと思ったら、まず本のページに「本当に意識を配る」ことができるのかどうかが大事です。一分間意識を配り続けることができるか。
速読できない人は「読んでいるつもり」になってるだけのことが多いのです。そういう人は意識が対象に行かずに。「読んでいる自分」にあります。速読をしようと思っている自分に意識がある。その状態を自意識過剰とも呼びます。自意識過剰の人は能力開発ができないのです。
スポーツの選手でも類似のことが起きます。打つ自分に意識があったらボールは打てません。それはボールがとらえられないからです。ボールに意識が行かないとボールは見えない、とらえられない、だから打つこともできません。能力開発のスタート地点は知りたいと思うターゲットにきちんと意識を持っていくことです。

――ターゲットに意識を向けられるかどうかが重要なんですね。


栗田昌裕氏: それが全ての始まりです。それができると、実はあっという間にあらゆることがつながって見えてきます。
私は東北で放したアサギマダラに遠く離れた南方の島で出会います。距離は千数百キロ離れています。そのときに自分の放したアサギマダラにいかに意識を持っていくかによって、その蝶に再会出来たり、出来なかったりするのです。それが「意識を持っていく技術」なのです。
そのセンスを使うと、半径1キロ以内に自分が放った蝶がいるかどうかがわかります。ただし、わかったからといって、その蝶と今日中に出会えるわけではありません。そこにはまだギャップがあります。そこでターゲットにさらに心を配ることができると、何時何分にどこに私が行けばその蝶に出会えるかがわかります。それは蝶の持つ時間と空間が私の持つ時間と空間と交差するポイントが見えるからです。そこを見ないといけないのです。そこで使う力は「観る力」です。この観る力が、先に述べた「光の回路」で生まれる能力です。この「観る力」を私は「直観力」と呼びます。

「観る力」「直観力」に対して、音の回路を使う働きは「考える力」、すなわち「思考力」です。思考力は、言葉を用いて推測し、論理を操って物事の真偽を見極める力で、主に学校教育を通して得られるものです。それに対して、直観力は「目に宿る力」であり、ぱっと見て全体と本質がともにわかる能力です。しっかりと意識をターゲットに持っていくと、直観力で「見える」のです。能力開発の講習では、思考力は表面意識の力であり、直観力は潜在意識の力であることを順番に学んでいきます。
私たちが時代に関して先々まで意識をきちんと配って直観力でとらえていくと、きっと最短コースで時代に適応する道が見えると思います。そのときに論理的に思考していると、本質を見失ったり、時代に遅れたりしかねません。
光の回路に宿る直観力と音の回路に宿る思考力の違いを色々な機会に説明できたらいいと思っています。

空海の面白さを教えていきたい



栗田昌裕氏: 空海がいかに興味深いことをしたか、彼がいかに飛び抜けていたかということも教える価値がは十分あると思います。彼は能力開発のとても良いお手本(サンプル)ですから。日本の歴史にかつて存在したとてもすごいお手本なのです。
空海が歴史上の他の人たちと全く異質だったことの一例として、体の細部をきちんと動かすことを重視していたことが挙げられます。彼は中国の皇帝の前で、口と手足の5カ所に、それぞれ筆を持って同時に別々の文字を書いてみせました。それによって皇帝から五筆和尚という名前を賜ったのです。このエピソードは、末梢神経をコントロールすることを彼が重視していたことを意味するのです。そういうことが大事だということを身をもって実際に示した人は歴史上にはいません。

空海は書の名人として知られていますが、単に彼が達筆だったというのではなく、能力開発をする上で身体からのアプローチがいかに大事かということをそのエピソードで見事に示しています。これは彼の若いときの事績ですが他にはそういう人は見当たらないのです。
空海は美術や書道のセンスもありましたが、とりわけ言語能力が高い人でした。彼の修行では「身口意」の三文字を重んじます。「身」は一般には身体を意味しますが、ここでは手で印契という特殊な形を取ることです。「口」は特殊な言葉である真言を唱えることです。「意」は一般には思うことですが、ここではイメージを描く作業を含んでいます。この3つの働きが重なった状態を身口意の三密といい、それに意欲・意志や情熱や願望の働きを関わらせることで能力が開けることを彼は示唆しました。
ただ一般には空海の事跡は宗教の分野で受け取られていますから、一種の祈りの技術とのみ受け取られがちです。もちろん、それで悪いわけではありません。私も、僧侶としての仕事は実際にはしていないものの、18歳のときに得度して仏教の枠の中にはいますからその立場はよく理解できます。ただその方式が宗教の枠の中だけに限定して受け取られているとしたら、それはもったいないと思います。

――それを栗田さんの視点から伝えるのですね。


栗田昌裕氏: 宗教や宗派を飛び越えたもっと普遍性のある観点から伝えたいと思います。情報処理の方式という広い観点からとらえると飛び抜けて面白いのです。「空海と速読」という本でそのようなことが少しでも示せたらいいと思います。

(聞き手:沖中幸太郎)

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この著者のタグ: 『考え方』 『速読』 『情報』 『テーマ』 『本質』 『文化』 『記憶』 『音』

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