栗田昌裕

Profile

1951年生まれ。東京大学理学部卒、同大学院修士課程修了、同医学部卒。医師、医学博士、薬学博士。薬物動態学、肝臓病学、医学統計、システム理論などの研究を進める一方、講演や執筆も行う。日本初の速読1級の検定試験合格後、速読を入り口としたSRS(スーパー・リーディング・システム)能力開発法を提唱。「読む」ことを音韻言語のみの世界から視覚でキャッチするすべての情報に対応・発展させた情報処理を教える。世界伝統医学大会3回連続グランプリ受賞をはじめ、毎日21世紀賞、2001年提言賞等受賞も多数。指回し体操創案者。手相も指導。大学・大学院で医療・医学・薬学・リハビリ等を講義。著書百冊以上。

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情報があふれる時代、今の人には能力開発がもっと必要です



栗田昌裕先生は東京大学医学部卒業後、米国カリフォルニア大学留学。三楽病院健康管理科医長、東京大学医学部附属病院第二内科勤務を経て、平成13年4月、群馬パース大学教授。平成21年4月、群馬パース大学大学院教授となり、平成13年4月からは、SRS(スーパーリーディングシステム)研究所長、東大病院内科医師も兼任、現在に至っています。医学博士、薬学博士でもあります。SRS能力開発法の提唱者であり、指回し体操など独自の栗田式健康法の体系をお持ちであり、渡り蝶「アサギマダラ」の研究家としても有名です。速読術、記憶術や健康法などの著書は100冊を超えます。医学だけでなく広い分野でご活躍の栗田先生に、電子書籍の活用法、記憶術との関連についてお話を伺いました。

速読・健康法・蝶を追うこと「全てはつながっている」


――早速ですが、栗田さんは最近はどのようなことを主にされていますか?


栗田昌裕氏: 速読法のクラスは一年中ほぼコンスタントに指導しています。これまでに570のクラスを教え、すべてで読書速度が、訓練前の速度の10倍を突破を超える成果を出し続けています。
それとは別に、過去17年間、月に一回、私の教室でSRS(スーパーリーディングシステム)という私の提唱する能力開発法を特別に指導する定例会という会合を開いています。毎月異なるテーマで、しかも完結する方式で行っています。
たとえば12月は「足のツボを総括する」というテーマで行います。毎月全く新しい内容を皆さんに指導しているのです。能力開発の広い範囲を全体的にカバーするために、一ヶ月ごとに個別の領域の内容を整理して教えることに時間を割いています。

――足のツボですか。


栗田昌裕氏: いわゆるツボは東洋医学では「経穴」と呼ばれるものですが、教える際には東洋のものだけではなく、西洋のものも総集して教えます。今年の5月には手のツボを総集しました。

――総集するとはどのようにするのでしょうか?


栗田昌裕氏: 一気にまとめてして教えるということです。5月には手に関わるツボを全て受講者に教えました。今度は12月に足に関するツボを一気にまとめて教えます。
定例会とは別に、健康法の講習会も毎月開催しています。今年は1年間にわたって、「東洋医学の12の経絡」を毎月1経絡ずつ時間をかけて教えてきました。そのシリーズはちょうど昨日、完結したところです。
おりおりに依頼される講演会にも出かけています。たとえば、先日は「脳と速読」というテーマで三菱電機の研修所で講演をしました。私は速読を脳に関連付けて説明することは好まないのですが、「脳と速読」というテーマで、というご依頼がありましたので、脳に関する最新の知識や研究成果を、速読の仕組みと明確に関連づけてお話をしました。

以上とは全く別枠で、2003年から10年近くにわたって、自然を調査するという趣旨の一環として、アサギマダラという昆虫を調べています。この蝶は長距離の旅をすることが知られており、日本列島を春には北上し、秋には南下する「渡り」をします。そこで私は、東北地方で多数のアサギマダラの翅にマーキング(標識)をして放した後、その同じ蝶たちと日本の南方の地で順に再会していくことを試みています。具体的には、福島県で8月に蝶を放します。すると、9月中旬には群馬県で出会えます。さらに、9月下旬には長野県で出会え、10月には愛知県で、10月中旬には大分県で出会えます。さらに11月には鹿児島県の奄美大島や喜界島で出会えるのです。そういう調査を何年間も続けてきました。これにはかなりの時間と労力を費やしています。



そのほかにも、思いついたことは何でもやるという主義で動いています。
以上述べたことはいずれも大学での仕事や教育活動とは別枠で行っている活動です。

――今お伺いしただけでも、1つのテーマに縛られるのではなく、自由に活動されるのですね。著書を見てもそう感じました。


栗田昌裕氏: そうですね。広い意味での「自然を探求する」という大きなテーマを持っていますから、かなり広い範囲のことをしているのです。
他には、2005年から短歌を始めて、継続的に短歌を作っています。たとえば、色々なところに旅をしますから、旅先の景観やそこでの思いを短歌にまとめたりしています。短歌に関するかなりの量の雑誌も読んでいます。

多岐にわたる活動には「情報処理の改善」というテーマがある


――われわれからすると、栗田さんの頭の中は一体どんな風になってるんだという風に感じてしまいます。


栗田昌裕氏: 自分の中では全部がひとつながりになっています。樹木にたとえると、中央に「情報処理の改善」という大きなテーマがなす幹があって、そこからすべてが枝分かれして出ているといった様子です。

――情報処理の改善ですか。


栗田昌裕氏: 「情報処理の改善」は「SRS」と私が呼ぶ能力開発法の体系の中軸をなすテーマなのです。
情報処理とはわかりやすく言えば「(情報を)読む」ということです。たとえば、本を読むことは人間の情報処理の分かりやすい一例です。それ以外に、時代を読む、経済を読む、政治を読む、などといったことを考えると、結局「情報を処理する」という頭の働きの本質は「読む」ことにあるとわかります。科学者の例で言えば、地球の自然を読んだり、宇宙を読んだりすることが研究をすることになるのです。
だからその「読む」とはどういうことなのかを、私は様々な分野で自ら探求し、同時に人にも教えているのです。実際には、「読み方」それ自体や、情報処理能力を向上させる方法を細かいテーマに分けて教えています。

医者としては、病気を読むことを実践しながら、そこで得た知識や体験を教えます。
健康法では、体の情報をどう読むかを教えながら、どう改善するかも教えます。
また今日はカメラを持参していますが、それは手を撮影して手相を読ませていただくためです。すなわち、手相も読む対象の一つであり、手には一種の言語が書かれていると見なして読むのです。

――手相は言語ですか。


栗田昌裕氏: 手には一種の「形の言語」が書かれています。問題はそれをどう読むかということです。実は今、手相の本も書いていますので、折に触れ、出会った方々の手相を撮影させていただいているのです。手には一種の象形文字のようなものが描かれています。
手相の読み方には、紀元前から歴史の流れの中で伝えられてきたものもあります。たとえば、哲学者アリストテレスは手相に興味を持ち、手相に関する書物を残したことでも知られています。手相を読む技術自体はもっと古い時代に始まりました。多くの人々を経由して連綿とバトンタッチされながら、経験と洞察を重ねて書き換えられてきた歴史があるのです。そういう過去の情報を全部集めて点検した上で、私なりの体系を作り出したいと思っています。

子どものすすめによって、電子化にブックスキャンを利用



栗田昌裕氏: 手相に関しては、日本と外国の関連本を300冊くらい集めて検討をしていますが、それらは全部スキャニングしてパソコンに入れています。

――電子化を先生ご自身でされているんですか?


栗田昌裕氏: 自分やスタッフで行ってきましたが、最近、その一部をブックスキャンに依頼しました。

――そうなんですね。


栗田昌裕氏: 実は私がそれを依頼する前に、今回のインタビューによる取材依頼に来ていたことがあとで分かりました。私は自分への取材依頼が来ていることに気付かないでいたのです。その後で、私の子供が、インターネットでたまたまブックスキャンを探し出して、ここだったら信頼できるんじゃないかというので、子供の名前でスキャニングを依頼していたのです。

――ありがとうございます。


栗田昌裕氏: 子どもは紙に関連する業界にいましたので、ここならばちゃんとしているのでは、と言っていました。今回の取材は偶然の一致ですね。
本は物の一種ですから、買えば買うほど蓄積していきます。本棚はとっくに満杯ですから、買うとそれ以外のところに置くことになります。すると下積みの本が生まれます。
ところが下積みの本は探し出すのが難しいのです。結局、過去の本はなかなか取り出せない。また、本が増えると床が抜けるなどと、家族から文句も言われます(笑)。だから本が増えると物としての不都合な面が出てきます。
電子化はそういうときに役立ちます。手相の約300冊の本も全部電子化しています。そうしないと置く場所がありません。
現代は電子化を必要とする時代です。

――仕事においてもフル活用されているんですね。


栗田昌裕氏: はい。スキャニングを活用しています。そうしないと仕事が出来ません。
明治時代には限られた数の良質な本がありました。いわゆる見識、学識のある方々が非常に長い時間を掛けて良質な本を書いておられた。それを読者が「なるほどいいね」と言いながら読んでいた時代です。

ところが現代では、誰でも本を書くことができるし、実際に、さまざまな電子メディアでたくさんの文章が書かれ、膨大な情報があふれている時代になりました。
その結果、現代では、書かれたものを物として全部保存すること自体に、以前のような意義がなくなってきたと思うのです。

検索技術や保存技術が発達したので、物にこだわる時代ではなくなった



栗田昌裕氏: そんな時代になったからこそ、情報の新たな保存技術や検索技術が発達したのです。そういう方向から考えると、もう物としての本ににこだわる時代ではありません。
特定の分野の本を1冊1冊ゆっくり読んで学ぶのではなく、10冊、20冊をパソコンの中に一気に入れておき、必要に応じて取り出す時代になっていると思うのです。
検索の技術の進歩も大いに有効です。インターネットのつながり全体の中に、いわゆる電脳空間には莫大な量の情報がたくわえられています。しかもそこでは、優れた作家や学者が書いた作品に限らず、一般の人が書いたものの中にも、貴重な情報がたくさん含まれています。

そういう全体の中で検索することで驚くべき情報や貴重な情報を拾い上げることが可能となります。だから古い発想を棄てて事態に対処する必要があります。1冊1冊の本にこだわる時代はもう終わりかけているのです。
特定の分野に関して調べるときも、10冊、20冊と関連する書物を一気に買い込んで、全部パソコンに入れて、その蓄積全体の中でとらえるという風にしていかないと、よい仕事ができない時代になっているのではないかと思います。

――なるほど。大事なのは本ではなく、情報であり中身であると。


栗田昌裕氏: そうです。大量の情報の群れを通してある分野をトータルにしかも速やかに見極めることが大事です。
その際には、良質ではない情報も、全体の見通しを与える上ではそれなりに有用です。たとえば、専門家はこう述べているが、素人はこう述べているといったことが分かると、問題意識の的確、不的確の違いもわかるし、価値判断の善し悪しもわかります。
「この件については専門家が一生懸命書いているが、実は一般の人には全く注目されていない」といった具合で、周囲の反応・リアクションもわかります。
特定の情報に対して、皆がどういう風に反応をするかを知ることは大事です。コマーシャルの場合を考えれば反応の大事さが理解しやすいでしょう。特定の情報が人にどのようなインパクトを与えるかということは大事な側面です。どんな仕事をするときでも、インパクトを生み出したり、増幅するような処理をこころがけないと、一生懸命仕事をした割には成果が乏しいことで終わってしまいます。

一生懸命こだわって書いた本ほど、売れにくくなる


――リアクションとインパクトですか。


栗田昌裕氏: 自分が書いた本を見ても、一生懸命書いた本はさほど売れていません。むしろ気楽に書いた本のほうが多くの部数売れています。私の書いた本でベストセラーになったものの多くは短時間に書き上げた本です。一生懸命に内容を練り直して、時間を掛けて書いた本はそんなに売れていません。その理由は多分、純粋に自分自身の価値観に忠実になり過ぎて書くと、書く内容に普遍性がなくなってしまうからだろうと思います。
この日までに必ず出版します、と編集者に宣告されて、その時間的制約の中で一生懸命書く。そんな練り直す時間が取れない場合のほうが内容に幅や普遍性が生まれ、より多くの人が内容に入り込めるのですね。
内容を純化し過ぎてしまうと、読者の範囲が狭くなってしまうのでしょう。そのときどきの流れ、すなわち、時間と空間と人との出会いの中で、ぽっとアイデアや発想が膨らんで書かれたもののほうが新鮮味があったりしていいのかなという気がします。
そのように考えると、洗練された本でなくても、良い本はたくさんあるし、インパクトを受ける情報もまたいたるところにあるはずだと分かるのです。だから「良いもの」も「良くないものも」、それは誰かが評価してそう判断されるわけですが、一々区別しないで、玉石混合のまま全部スキャニングしてパソコンに入れておき、必要なときに必要に応じて、蓄えた情報の群れを縦に横に自由に参照して読んで役立てるのが、今後の望ましい読書の仕方になるのではないかと思うのです。これまでは、きちんとした本を本棚に並べて、順番に繰り返し読んだりしておられた方が多いと思いますが、今後は読み方自体が変わっていくと思います。

版を重ねた本を保存するのにも電子化は便利



栗田昌裕氏: 私自身の著書も重版のたびごとに著書献呈で送られてきますが、そのままではすべてを置く場所がありませんから、各版の内容は全部パソコンに入れます。
パソコンのハードディスクに入れておけば、初版はこういう装丁でこんな帯がついていたなどということも、本を探さなくとも手元でわかります。それらの情報をいつでも持ち歩けるわけです。

――ご自身の本もパソコンに取り込むんですね。


栗田昌裕氏: 再版の際にミスプリントを訂正したり、出版社の方で帯を変えたりといった出来事があります。だから一応残しておきたいのですが、紙という物で残しておくと場所がなくなりますし、探せなくなりますからパソコンに入れるのです。
パソコンのメモリも年々増えてきて、1テラバイト近くの情報が取り込めます。全仕事をパソコンに入れて持ち歩くことができるので、大変に便利な状況です。
画像の保存も問題になります。私は絶えず風景写真を撮っていますから、その量は膨大です。ハードディスクも100個以上あるため、実際には整理すらことすらままならない状態です。
昔だったらフィルムで保存するか、印刷して保存するか、といった状況でした。しかし、現像して保存しておいたら、劣化もするし、場所も取るし、探し出して見るのも大変です。しかし、パソコンを用いてデジタル情報として保存すれば、劣化や場所の問題は解決できます。

――劣化に関しては、カメラの流れと書籍の流れは似ているところがあるかもしれないですね。


あらゆるものを電脳空間に保管する時代にシフトする



栗田昌裕氏: カメラではある時期から紙の使用が年々減ったわけです。世の中が変化して、写真という「物」がデジタルな画像という「情報」に置き換わってきました。
本もよく似た流れを辿ると思うのです。本質はやっぱり情報なんです。紙には愛着がありますし、紙を使う利点もたくさんあるので、印刷された書籍は貴重であり続けるとは思いますが、本は冊数が増えれば増えるほど、「情報を得る」という本質から遠ざかっていく側面があります。
だから今後はますます紙媒体から離れる方向が加速するのではないでしょうか。あらゆる情報が電脳空間に入ってしまいますから。関心のある本は身近な装置のメモリやクラウドに格納することが主流となる時代になっていくのではないでしょうか。

2年前に考えた電子書籍時代



栗田昌裕氏: 実は2年前にここにお見せする企画書を作ったことがあります。当時、電子書籍の速読というテーマで本を書かないかと、某出版社から打診がありました。そのときに目次も作りました。ただ日本では電子書籍にいまいち時代としてのノリが乏しく、私自身のノリも悪かったので、この企画はお蔵になったままになっています。

――「電子書籍時代の新速読法」


栗田昌裕氏: そうです。そういうタイトルで考えてみました。

――電子書籍の速読方法ということでは、まだ1冊も出ていないのではないでしょうか?


栗田昌裕氏: そうかもしれません。2年前は時期が早過ぎたので、講演会でお話をして電子書籍に関するDVD教材は作ってありますが、一般の書籍にはしてないのです。
第1章では、情報をインプットする方法はどう変わったか、またどう変わるべきかということで、いくつかの側面を取り上げて説明します。

①時間的制約、②空間的制約、③道具上の制約、④情報量の制約という観点に注目すると、電子メディア時代の電子書籍は、古典的な書籍での読書に比べると、①はいつでも情報が取り込める。②はどこでも情報が取り込める。環境が整えば空中からワイヤレスに取り込めますね。③はかさばる書物ではなく、コンパクトな複数の種類の機器にダウンロードでき、道具上の制約がなくなります。④はメモリもどんどん増やせるようになっています。しかも複数のコンテンツを1つの機器に取り込むこともできます。
その上さらなる長所として、⑤過去の書籍では文章の表示形式も各書籍ごとに固定されていますが、可変的に対応できるソフトが組み込まれた電子機器では、多様な表示が可能だし、⑥スピーディーな表示も可能です。

――なるほど。電子書籍での速読では、どういった点が問題になりますか?


栗田昌裕氏: 速読とは一体何をすることかというと、基本的には内面の問題なんです。
機器はどんどん進化する時代が来ているけれども、では人間の内部ではそれにどう対応できるか、というところに速読の意義や価値があるのです。

第一はスピードの問題で、第二は心の中のスペースの問題です。どこにどうやってメモリをたくわえるかという問題も含めて、内面世界のあり方や扱い方を変えていかないと加速という側面で進歩が生まれません。そこが速読の大事な問題意識なのです。
外界の電子機器は年々の試行錯誤を通してよりよいものが出来つつある。
それに対して速読は人間の内面を新しい仕方で速く動かす技術なので、そこに革新的で、しかも普遍的な方式が必要なのです。
私はこれまでは紙媒体の書籍を用いた速読の技術を受講生に教えてきましたが、新たな電子機器時代に、改めて、何をどういう風に速読して、内面をどのように扱ったらよいのかということを書きたいと思ったのが2年前のアイデアの中身です。

――今見てもとても新鮮です。


栗田昌裕氏: はい。Kindleが日本版でも使えるようになりましたし、そろそろニーヅが高まる頃かなと思っています。

新しい時代に、どうやって知的生産性を上げるのか、新しい文化が必要


――電子書籍が普及していった場合の可能性についてもお伺いしたいと思います。


栗田昌裕氏: 私は色々な問題点があると思うんです。
著者からするとどう感じられるか、という観点もあります。著作者の権利の問題もあるし、安易に見える面もあります。また、出版社がどういう風に変わっていくかという問題もあります。
しかし、時代は止めようがありません。デジカメの場合と似ています。もうフィルム時代には戻りようがないでしょう。紙媒体もそうだと思います。
クラウドに関しても、色々なクラウドが比較的安価に利用できる時代になっていますから、そういう仕組みを上手に使いながら、その中でいかに知的生産性を上げていくのか。そこでどういう読書が新たになされるべきなのかを、改めて文化として作り上げていく必要があります。

――これまでとは違う文化を作るんですね。


栗田昌裕氏: 子どもたちと、おじいさんおばあさんとには、世代ギャップがあるでしょう。道具に対するセンスも違いますよね。今の子どもたちはITの環境に慣れてきてますから、彼らにとったらクリックしたり検索したりすることはもう当たり前のことです。
読書の歴史に関しても、私たちが小さいころ本を読んで学んだときのセンスと、今の子どもたちが何か知りたいと思ったらすぐインターネットで検索するセンスとでは、もう時代が違っているではないですか。
知識の量も違うし、勉強の仕方も違うし、知的な成長の仕方も違うわけですから、昔の体験しかない頭で、このように勉強しなさいとか、このように読書をしなさいと子供に言うのは意味がなくなると思うんです。そこから変えていく必要があります。

好きな本は『少年少女世界文学全集』、自宅に本がたくさんあった


――栗田さんの先端を行く考え方はどのようにして培われたのかを伺いたいと思います。栗田さんの子どものころから本をたくさん読まれていらっしゃいましたか?


栗田昌裕氏: 私は愛知県にある自然の多い田舎町の出身ですが、うちにはたまたま本がたくさんあったんです。母が本を買ってくれたのでしょうね。
小学校のときによく読んだ本は、少年少女世界文学全集50巻で、どれも3回は繰り返して読みました。そこには民話やおとぎ話的なものも多く含まれていました。
大人向けの本も本棚にごっそりとあったのでそういうものも読みました。叔父の買った本や、文学好きの姉が買った本もあり、父の買ったかび臭い日本文学全集もありましたので、小学校のときにはそういう本も読んでいました。

それ以外は、学校の図書館で本を借りて読んでいました。だからかなりたくさんの本を読んだと思います。中学になってからは都市部の中学高校一貫校に通いましたの。毎朝6時に起きて満員電車で通学するのですが、車内では立ったまま文庫本ばかり読んでいました。その頃は何でもかんでも読みました。
実は小学校のときに1番好きだったのは図鑑でした。

図鑑を暗記することから記憶術は始まった



栗田昌裕氏: 昆虫少年でしたので、昆虫図鑑、幼虫図鑑をよく読んでいました。その内容の詳細を「暗記する」ことが好きで、そのときに実は後に記憶術として教えることになるようなことを始めていました。
中学になってからは、自分なりに確実に記憶術を行っていました。学校の黒板はノートに取りませんでした。先生が黒板に何行書いたかというその行数だけノートに書きとめておいて、スペースを確保しておいて、帰りの電車の中で内容を思い出して書き出してそのスペースを埋めるといったことをしました。

――今すごいことをさらっとおっしゃいましたけれども。


栗田昌裕氏: たとえば、社会の先生はほぼ完璧な内容を黒板に書いていきます。きれいな板書です。そこで私は「何行あった」かを数えてその行数を覚えておきます。
帰りの電車の中で、書かれていた内容を全部思い出してノートに書き出し、行数が一致すれば、「もれなく覚えていた」と確認できるのです。そんなことをしていました。
これは記憶という知的機能に関する過去の努力の一例ですが、それと今教えている速読とは別な内容なのです。
当時私がそういうことをしていたことは誰も知りません。先生も「どうしてお前はノートを取らないんだ」って怒るくらいでしたから。

――でもノートは出来上がってるわけですよね、いつの間にか。


栗田昌裕氏: ええ。過去のノートはきちんと出来上がっているし、その場でも頭の中でノートは取っているのですが、先生から見れば授業中はノートを書いていないのですから、面白くはなかったことでしょう。

大学に入ってからは1日1冊を読んでいた



栗田昌裕氏: 中学のときには創造性ということに興味があって、創造性の開発に関連した本を読んでいました。
しかし、ファーブル昆虫記のような自然関連の本が相変わらず一番好きなジャンルでした。好きでない本も読みましたが、何となく心の空白を埋めるために読んでいたものです。
高校になってからは、数学者になりたいと思っていたので、文学に関連するジャンルには一般的には興味がありませんでした。ただ、今から思えば、詩集などは読みましたし、唐詩選などの漢詩の類も読みました。
大学に入ってからは、1日1冊読むと決めていました。

――1日1冊ですか。


栗田昌裕氏: はい。愛知県の学生寮にいたのですが、図書室がありましたので、そこの本を端から1冊ずつ読んでいくことをしていました。端から読むというのは、えり好みせずに全部読むことを意味します。大学時代はとにかく目の前にあるものを一通りを読むことを目指していました。
ただし読んでどうこうするという別の目的があるわけではないのです。ただ読むという、それだけのことをしていたのです。
そういった乱読体験の中で印象に強く残っているのは古典です。

――古典ですか。


栗田昌裕氏: 私の実家は禅宗の寺院でした。私は長男ですから父の跡を継ぐ気持ちがありました。だから精神世界の本を多く読み、そこから大きなインパクトを受けていました。
自宅には仏教関係の本が多くありましたが、ランダムに読む中で印象に残ったのは仏教関係の古典でした。大学では座禅のクラブにも属していましたので、「臨済録」とか「碧巌録」といった禅の本も読みました。また、空海には特に興味を持ち「三教指帰」や「性霊集」を読みました。そういう古典の影響は今にいたるまで続いています。空海の詩人としての特質にも興味を持ちました。

――そうなんですか。


栗田昌裕氏: 空海は漢詩を多く残しており、和歌も作りました。漢詩は文章も巧みで内容もとても良いと思います。
能力開発という観点で見ると、空海は日本の歴史の中でとても貴重な存在です。彼の精神を能力開発という側面からきちんと多くの人に教えたいと思っています。ですから「速読と空海」という本をいつか書きたいと思っています。
実際に空海の本を書く企画が以前ありました。「空海の伝説」について書く企画でしたので、空海に関する本を数多く集めました。伝説も面白いのですが、今は気持ちが少し変わって、「空海と速読」というタイトルで、空海のどこが時代を超えていたかということを「情報処理」の方法という観点から示したいと思っています。

記憶に関心を持っていたので、南方熊楠という人物にも興味を持ち、熊楠全集を読みました。その1番最初は「十二支考」(平凡社)でした。文章は上手とは言えませんが、その博識と不思議な書きぶりにとても興味を持ちました。後には和歌山の熊楠記念館なども訪れて、問題意識を深めました。熊楠にはてんかんの発作があり、脳神経系の特殊な状態と連動して記憶力が亢進していた可能性があります。私の書いた記憶術の本には空海や熊楠を扱った部分がありますが、空海や熊楠のやっていたことを記憶という側面から比較してさらに詳しく書いてみたいとも思います。

役に立たない学問を目指して数学科へ、その後医学部へ


――その後、1回数学科を卒業されて大学院に行かれましたね。


栗田昌裕氏: そうですね。数学科の大学院を卒業して、同時に医学部に入り直しました。世の中に少し役立つことをしなければいけないなと思って。
実は数学は「最も役に立たないことをしよう」という考えで行ったのです。そういう人生もあっていいかなと。人間には色々な生きざまがあるわけだから、私は最も役に立たない分野に行こうと思ったのです。そういうことで理論数学をずっとやっていたのですが、「このままでは本当に私は役に立たない」ことがよくわかったので、その揺り返しで、役に立つ分野に進もうと思い直したのが東大の数学科の大学院の2年目のときです。



数学より泥臭い分野を、ということで色々検討しましたが、結局、修士課程の2年の秋に医学部へ行くことにしました。修士課程を修了すると同時に受験をして東大の医学部に行ったのです。医学部に行ってからはより一層何でも読むという姿勢になりました。
医者になって3年目に交通事故に遭いました。82年に卒業して85年に交通事故に遭ったのです。そのときに病棟で、以前と同じように1日1冊を読みましたが、その速度を次第に加速していきました。「新潮文庫の百冊」を順番に読破していったのですが、その過程で速読に目覚めたのです。そして、そこで得た速読のスキルを、それまでに私が能力開発を目指して追求しながら会得した体系的な内容の「玄関」に配置すると良いと思ったのです。

――玄関ですか。


栗田昌裕氏: それまでに私が追求して作り上げていて内面の世界があるのですが、そこには多くの分野が含まれています。寺を継ぐことも考えていましたので、精神世界に関わることは一通り全部、東洋医学も含めて勉強して身に付けていたのですが、そういうものを人に教える際に、その入り口で速読を指導しておけば、学ぶ人の修得が加速できるし、そのこと自体が能力の基礎作りとして役立つのです。

――入り口としての速読だったんですね。


栗田昌裕氏: はい。能力開発法の全体を学ぶスタート地点として、知性自体を加速する速読を教えることが重要であると気づき、自分の作った体系の玄関に速読を据えたのです。それが1985年のことでした。

日本人で初めて「速読一級」の試験に合格する


――栗田さんは日本人で初めて「速読一級」の試験に合格されましたね。


栗田昌裕氏: 87年に速読一級の試験に合格し、1分に1冊本を読み、30分に30冊の速読をテレビで実演したりしました。医師としての仕事とは別に、講演や速読の指導をする日々が始まりました。その後2年ほどの間に、出版社から本を書く依頼が来るようになりました。最初は文藝春秋社や角川書店からの依頼でした。それが執筆をする日々の始まりでした。
私の体系の基本は「情報処理」が入り口で、その中身は「能力開発」なのです。
「能力開発」とは何かというと、実は「よく適応すること」です。いわゆる「知能」も、その定義は実は、社会の変化や自然の変化に対して、いろいろな問題を解決して人生や環境によりよく適用する能力に他なりません。だから、簡単に言えば、よく適応する力がその人の「能力」なのです。「有能な人」とは、計算が速くできるとか、記憶力が良いといった断片的なことではなく、世の中でよく生き延びていく力が強い人のことをいうのです。

色々なものを読まなければいけない



栗田昌裕氏: ただし、あらゆる環境変化に対してよく適応するためには、多くのものを「読む」必要があるのです。自分を読まないといけないし、他人を読まないといけないし、社会を読まないといけません。自然の動きも読まないといけません。結局「読む」ということが大事になるのです。しかも、それに速やかさと的確さが必要です。
ではそのように「速やかによく読む」ためには何をしたらいいかということで、「分散入力、並列処理、統合出力」という、3つの基本概念を目的地とします。こうして、読むことを加速して、しかもその働きを強力にすることを教えるのが栗田式能力開発法、スーパーリーディングシステム(略してSRS)なのです。

能力開発をして適応力を高める過程では、自分自身を総合的に高めないといけませんから、紙の本も読むのですが、人も社会も読むし、環境を司る自然も読む必要があります。
だから私自身も、自然をよりよく読むためにアサギマダラの研究をしているわけです。
それにともなって多くの旅行もします。これまでに風景、動物、植物などの3D写真の本を7冊出版しましたが、それらは自然を探求する道筋の副産物として出しているのです。いつもカメラを持ち歩いているのもそのためです。

たとえばどこにいても雲を撮影します。雲は、時々刻々と変化するところが素晴らしい。その変化には地球上のあらゆる現象が反映されています。たとえば、雲が西から東に移動することには地球の自転が反映しています。雲の形や動きに陽射しの影響も現れていますし、大地や海洋の状態や、熱の移動や海温も反映されています。だから雲を見てそれを「読む」ことには大きな意義があります。気象のとらえ方も人に教えています。
そういう作業を通して、自然と人間の情報処理と生活と、最終的には人間の運命というレベルまで、自分なりに読み、解明し、とらえ方を体系化したいと思っています。手相を会う人ごとに撮らせていただいているのもそういった作業の一環です。

執筆する上で大切にしていることは、従来とは違う方法論


――執筆では、どういったことにこだわっていらっしゃいますか?


栗田昌裕氏: 単なるコマーシャリズムには陥りたくないという気はしています。どこか従来とは異なるインパクトがあるようにしたいし、従来とは違う方法論や体系を示したいとも思っています。SRS、スーパーリーディングシステムという能力開発の体系は、今は十分には理解されなくても、将来は必ず必要になる技術だと私は思っています。これは知性の新しい技術なのです。その本質がどこかで伝わってくれるといいと思います。
しかし、薄めて受け取られたり、誤解される可能性もあると思います。例えば速読にしても、本を速く読めさえすればいいなどと言ってるのではなくて、情報処理の質の変革をしなければ意味がないと述べているのですが、接する人によっては、安易な側面から受け取るだけで終わってしまうこともあるのです。それはその人の受けとる姿勢にも依存します。

――速読っていうその2文字だけを取って従来のイメージで見てしまうんでしょうか?


栗田昌裕氏: 速読はスピードの変革ではないんです。クオリティー・質の変革なんです。
情報処理のクオリティーを変革するためには、使っている頭の場所を変えなければいけない。場所を変えるためには、新たな方法論、新たな訓練が必要なのです。
だから単に目を速く動かせば速読になるわけではないし、紙を速くめくれば速読になるわけではないんだけれども、そういう風に受け取られがちな世の中の常識がないわけではないので、それと戦わないといけません。すでに教え始めて25年以上経過していますが、私の提案していることがしっかりと理解されるにはさらに20年30年とかかると思うのです。
いかに他の速読法とは違うか、ということを主張し、説得するチャンスを少しずつつかんでいきたいと思います。

知的情報処理と、情緒的なハピネスを高めたい


――栗田さんの今後の展望をお伺いできますでしょうか?


栗田昌裕氏: 私のできる範囲のことを、1つずつきちんと教えていくという、それだけのことを願っています。時代が変わっていきますから、価値観もニーズも変わっていきます。
だから私も時代の変化に適応しながら、何がそのときどきの時代に必要なのかと新たに考え工夫しながら、出すべきものをタイムリーに世の中に出していけたらいいなと思います。
しかし、「知的情報処理を高めたい」というのは普遍的なテーマです。
身体の健康さ、生活の健全さも普遍的なテーマです。
あとは情緒的なハピネスも重要なテーマです。

――情緒的なハピネスとはどういったことでしょうか?


栗田昌裕氏: 幸せに過ごしたい、ということです。これを追求することにも普遍性があります。
通常私は、心身の仕組みをわかりやすくとらえてもらうために、受講生には以下のように左手に結びつけて説明しています。
親指から小指までをまず1から5の番号で呼ぶことにしましょう。

このとき、1、2指は「知性」を表します。3指は「感情、情緒」を表します。4、5指は「身体」を示します。これはものごとをわかりやすくとらえるための約束だと思ってください。
もう少し細かくそれを分類すると、親指は「言語系」と呼び、言語的な知性を表します。人さし指は「心象系」と呼び、感覚とイメージ機能を表します。これら言語系と心象系の2つを合わせて知性の軸と考えます。薬指は「自律系」と呼び、自律神経の司る内臓の働きを表します。小指は「運動系」と呼び、運動を司る筋肉や関節の働きを表します。薬指と小指を合わせたものが身体の働きです。
これら5本の指の表すものの中で1番重要なものが実は「感情、情緒」です。というのは私たちがよいと思ったり悪いと思ったりする元になる価値観は感情、情緒に根ざしているからです。
「人生で何がしたいですか、何がうれしいですか、何が美しいですか、何が幸せですか、何が生きがいですか」などと考えてみてください。いずれの根底にも、感情、情緒があることがわかるでしょうか。だから最終的にはこの中指の表す感情、情緒の働きが人で生1番大事なことだと分かってくると思います。



すなわち、感情・情緒を強力にかつ有意義な仕方で動かせるかどうかが、人生でよく適応できるかどうかの大事なところなのです。たとえば、感情が枯れてしまうと世の中に出て行く意志も消えてしまいます。するとニートになって、引きこもったりすることになります。
感情・情緒を輝かせて、身体を活発に重かし、活発な知性の働きを上乗せすることを目指すのです。身体を動かす力は活力、感情の働きは気力と言い換えてみましょう。
すると、人生で重要な働きは、「知力と気力と活力」となります。
この3つを高めることが私のテーマです。それが総合的に最も容易に最速で実現できるような技術をより多くの人に紹介していきたいと思っているのです。

音の時代から目の時代へ、日本人を転換させる



栗田昌裕氏: あともう1つ、音の時代から目の時代に行くことが大事です。

――音から目ですか?


栗田昌裕氏: 音の時代から目の時代への移行。それが私が速読を教える際の目標です。
「音の時代」というのは、しゃべる、聞くという「音韻に基いた言語回路」を主として用いて生活している状態を言います。この回路を「音の回路」と呼びましょう。
私たちの読書の出発点はそこにあります。小学校に入ると、「さいた、さいた、さくらがさいた」などと音読して、つぶやきながら一文字一文字本を読むことを覚えます。これは読書の始まりが音の回路に根ざしていることを示します。

そもそも、子供は読書を始める以前には、両親や兄弟と会話をすることを学んでいます。こうして、聞いてしゃべるという大本の「音の回路」がまず出来上がります。
その後で、目で見た文字をつぶやくという作業を接ぎ木するのが一般的な読書です。これは視覚を接ぎ木した「音の回路」です。日本人も世界中の人も皆、この音の回路に読書の基礎があり、それを操って思考をしています。この段階を「音の時代」と言うのです。
しかし、この「音の回路」は遅いのです。どうしようもなく遅いコンピューターに似ています。日常会話をしたり、スピーチをしたりするときはそれでいいのですが、大量の情報をすばやく受け取るには遅すぎるのです。
ところが目の働きは音の回路のはるか先を行く性能を秘めています。音をとらえる聴覚の神経細胞はせいぜい2、3万本です。それに対して目の神経細胞は1億2千万本もあります。そこには5千倍の違いがあるのです。

例えばスカイツリーの上から東京を見下ろすと、一気に何十万軒という建物が見えます。しかし、その建物を、電話の向こうにいる人に1軒1軒説明してみてください。一体どのくらい時間がかかることでしょう、おそらく目で見て分かる時間の何百倍もの時間がかかるのではないでしょうか。言い換えると、視覚の秘めた能力を上手に使うと、何百倍も加速できるということです。そのような目の力を高めた知性の領域を私は「光の回路」と呼びます。速読は「光の回路」で行うものなのです。「光の回路」を活かす生活を「光の時代」と呼びます。
音の時代から目の時代への移行は、音の回路から光の回路への移行を促すことにほかなりません。
つぶやきながら音の回路で情報を伝えることは、糸電話で伝えることに似ています。私たちの音の回路を用いた読書の方式も、糸電話のように1次元的に伝わる方式で情報のやり取りしています。そのことは耳の奥の仕組みが、鼓膜から槌骨、砧骨、鐙骨と順番に骨伝導で伝わって聴神経に続いていることでも分かります。会話はまさしく糸電話の方式で情報を得ているのです。音読も同じです。
ところが目はカメラと同様に何万画素もの情報を一瞬でつかまえることができます。効率が全く違うことに注目してください。

――全然違いますね。


栗田昌裕氏: 世の中では、効率の良い情報伝達をするために通信機器がどんどん進歩しています。それが可能な時代なのです。カメラはフィルム方式からデジカメに変わりました。さらに携帯のような通信にもどんどん画像や映像が乗るようになってきました。
しかし、人間だけがまだ糸電話の方式になっているのです。そのギャップをおかしいことと感じてください。だからこそ速読への変革が必要なのです。これは時代の必然なのです。

しかし、情報処理の方式の変化、すなわちクオリティーの変革が伴わなければそれは実現しません。私が伝えたいのはそこなのですが、その問題意識がまだ十分伝わってるとは言えないのです。
多くの人が誤解をしています。インターネットで見ると、速読に関して誤解をしている人が極めて多いように見えます。そこにはビジネス上、商品として安易なものを売りたいと思う人もいるし、実際、安易なものが売れる時代でもあります。しかし、安易な方向に進むと大事な本質が失われてしまうことになりがちです。だから、そのような傾向とは戦わないといけないのが私の立場です。そこを克服しないと、時代を超えて新しい流れを作り出すことはできないと思います。

技術が進歩して、良いものほど安く売れるのでよく広がるという傾向のおかげで、短期間でインターネットの仕組みの活用が世界に広がり、クラウドも日常的に使用される時代になりました。だから頭の中でもそういう変化が起きてくるといいのです。子どもたちはすでにそういう時代に適応し始めています。大人のほうが取り残されてしまうかもしれません。
100年もたったら「昔はゆっくりと音読をしていたんだって。すごいね」と笑い話が交わされる時代が間違いなく来ると思います。

情報がたくさんある時代、全てに目を通していたら人生が終わる



栗田昌裕氏: 現代は腐るほどのゴミ情報があります。ゴミに関わって一生を終えてしまうのは悲しいことです。昔は質の良い本がありましたから、本屋へ行って、楽しみながら良書を選んで買い、家でじっくりと繰り返し読む。過去にはそういう作業が健全で知性的だと思われる時代がありました。
ところが現在は、1回の検索をしたら、何百冊もの参考書が見つかり、何百万頁という関連情報を記載したホームページが引っ掛かってきます。そのホームページを一々音読していたら人生は終わってしまいます。その内容がゴミ情報かどうかを探っているだけで人生の時間が終わってしまう状況になったのです。

そこで、ゴミは一瞬にしてゴミだと見分ける力が現代には要るのです。それが速読力なのです。ゴミの山から、珠玉の宝石のような情報を見つけ出すには速読が要るのです。
さらに、宝石を見つけたら、それをいかに確実にものにして、人間としての成長に役立てるかという別なレベル技術も必要になります。それが能力開発の先々の段階の出来事なのです。
その中核をなす基本的な技術は、実は一見当たり前に見えるかもしれない「心の使い方」にあります。

速読や能力開発で重要なのは「心を配る」こと



栗田昌裕氏: 私が速読教育や能力開発の指導で最も重視していることは「心を配る」という技術です。これは最大のテクニックとも言えます。
心を配るとは「意識をそこに持っていく」ということです。そことは対象のことです。これが全ての始まりです。
実は速読ができない人はそれができません。能力開発が進まない人もそれができません。というのは、訓練をしているつもり、速読をしているつもりにはなっているのですが、心が対象、ターゲットに届いていないのです。
「ターゲットにきちんと意識を持っていく」ことが全ての始まりです。読むことの始まり、読んで何かをとらえる始まりはそこにあります。

同様に、手相を読もうと思ったら、手相にきちんと意識を持っていけるかどうかが解読の始まりです。
本も同じです。速読をしようと思ったら、まず本のページに「本当に意識を配る」ことができるのかどうかが大事です。一分間意識を配り続けることができるか。
速読できない人は「読んでいるつもり」になってるだけのことが多いのです。そういう人は意識が対象に行かずに。「読んでいる自分」にあります。速読をしようと思っている自分に意識がある。その状態を自意識過剰とも呼びます。自意識過剰の人は能力開発ができないのです。
スポーツの選手でも類似のことが起きます。打つ自分に意識があったらボールは打てません。それはボールがとらえられないからです。ボールに意識が行かないとボールは見えない、とらえられない、だから打つこともできません。能力開発のスタート地点は知りたいと思うターゲットにきちんと意識を持っていくことです。

――ターゲットに意識を向けられるかどうかが重要なんですね。


栗田昌裕氏: それが全ての始まりです。それができると、実はあっという間にあらゆることがつながって見えてきます。
私は東北で放したアサギマダラに遠く離れた南方の島で出会います。距離は千数百キロ離れています。そのときに自分の放したアサギマダラにいかに意識を持っていくかによって、その蝶に再会出来たり、出来なかったりするのです。それが「意識を持っていく技術」なのです。
そのセンスを使うと、半径1キロ以内に自分が放った蝶がいるかどうかがわかります。ただし、わかったからといって、その蝶と今日中に出会えるわけではありません。そこにはまだギャップがあります。そこでターゲットにさらに心を配ることができると、何時何分にどこに私が行けばその蝶に出会えるかがわかります。それは蝶の持つ時間と空間が私の持つ時間と空間と交差するポイントが見えるからです。そこを見ないといけないのです。そこで使う力は「観る力」です。この観る力が、先に述べた「光の回路」で生まれる能力です。この「観る力」を私は「直観力」と呼びます。

「観る力」「直観力」に対して、音の回路を使う働きは「考える力」、すなわち「思考力」です。思考力は、言葉を用いて推測し、論理を操って物事の真偽を見極める力で、主に学校教育を通して得られるものです。それに対して、直観力は「目に宿る力」であり、ぱっと見て全体と本質がともにわかる能力です。しっかりと意識をターゲットに持っていくと、直観力で「見える」のです。能力開発の講習では、思考力は表面意識の力であり、直観力は潜在意識の力であることを順番に学んでいきます。
私たちが時代に関して先々まで意識をきちんと配って直観力でとらえていくと、きっと最短コースで時代に適応する道が見えると思います。そのときに論理的に思考していると、本質を見失ったり、時代に遅れたりしかねません。
光の回路に宿る直観力と音の回路に宿る思考力の違いを色々な機会に説明できたらいいと思っています。

空海の面白さを教えていきたい



栗田昌裕氏: 空海がいかに興味深いことをしたか、彼がいかに飛び抜けていたかということも教える価値がは十分あると思います。彼は能力開発のとても良いお手本(サンプル)ですから。日本の歴史にかつて存在したとてもすごいお手本なのです。
空海が歴史上の他の人たちと全く異質だったことの一例として、体の細部をきちんと動かすことを重視していたことが挙げられます。彼は中国の皇帝の前で、口と手足の5カ所に、それぞれ筆を持って同時に別々の文字を書いてみせました。それによって皇帝から五筆和尚という名前を賜ったのです。このエピソードは、末梢神経をコントロールすることを彼が重視していたことを意味するのです。そういうことが大事だということを身をもって実際に示した人は歴史上にはいません。

空海は書の名人として知られていますが、単に彼が達筆だったというのではなく、能力開発をする上で身体からのアプローチがいかに大事かということをそのエピソードで見事に示しています。これは彼の若いときの事績ですが他にはそういう人は見当たらないのです。
空海は美術や書道のセンスもありましたが、とりわけ言語能力が高い人でした。彼の修行では「身口意」の三文字を重んじます。「身」は一般には身体を意味しますが、ここでは手で印契という特殊な形を取ることです。「口」は特殊な言葉である真言を唱えることです。「意」は一般には思うことですが、ここではイメージを描く作業を含んでいます。この3つの働きが重なった状態を身口意の三密といい、それに意欲・意志や情熱や願望の働きを関わらせることで能力が開けることを彼は示唆しました。
ただ一般には空海の事跡は宗教の分野で受け取られていますから、一種の祈りの技術とのみ受け取られがちです。もちろん、それで悪いわけではありません。私も、僧侶としての仕事は実際にはしていないものの、18歳のときに得度して仏教の枠の中にはいますからその立場はよく理解できます。ただその方式が宗教の枠の中だけに限定して受け取られているとしたら、それはもったいないと思います。

――それを栗田さんの視点から伝えるのですね。


栗田昌裕氏: 宗教や宗派を飛び越えたもっと普遍性のある観点から伝えたいと思います。情報処理の方式という広い観点からとらえると飛び抜けて面白いのです。「空海と速読」という本でそのようなことが少しでも示せたらいいと思います。

(聞き手:沖中幸太郎)

著書一覧『 栗田昌裕

この著者のタグ: 『考え方』 『速読』 『情報』 『テーマ』 『本質』 『文化』 『記憶』 『音』

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