野口健

Profile

1973年8月21日、アメリカ・ボストン生まれ。高校時代に植村直己氏の著書『青春を山に賭けて』に感銘を受け、登山を始める。 1999年、エベレストの登頂に成功し、7大陸最高峰世界最年少登頂記録を25歳で樹立。 2000年からはエベレストや富士山での清掃登山を開始。以後、全国の小中学生を主な対象とした「野口健・環境学校」を開校するなど積極的に環境問題への取り組みを行っている。現在は、清掃活動に加え地球温暖化による氷河の融解防止にむけた対策に力を入れており、2010年には「センカクモグラを守る会」を立ち上げ、生物多様性の価値と保全の緊急性を訴える活動等もをしている。
【公式HP】http://www.noguchi-ken.com

Book Information

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はじめてメディアで伝えられた「シェルパ」の死


―― 一流の登山家だからこそ伝えられるメッセージがありますよね。


野口健氏: 僕の登山人生なんて、はっきりいって大したことはなくて、重要なテーマはほかにあるんです。みんなが厄介な問題だということで目をそらしちゃうテーマがたっぷりある。シェルパ基金なんかもそうですよね。登山隊が登頂するとき、地元のシェルパのサポートを受けるわけです。でも登頂するとニュースになるけど一緒に登ったシェルパはニュースにならない。登山家が遭難するとニュースになるけど、一緒に遭難したシェルパはニュースにならない。1995年にヒマラヤで大きな遭難があって、日本のトレッキング隊が雪崩で山小屋ごとつぶされて全員亡くなった。そのときにシェルパも十何人死んでいるんですよ。僕はそのときは日本にいましたけど日本隊が全滅っていうのは大きく報道された。日本人が13人いてポーターがいないわけがないと思っていたらファックスが来て、僕の親友のシェルパの弟がそこの隊のポーターをやっていて、連絡が取れないということで、2日後にネパールに飛んで現場に入ったんですね。そうしたら雪の中にシェルパが13人埋まっていたんです。日本のメディアは日本隊の遺族を取材するだけで、サポートしたシェルパたちに対してはカメラが向かない。僕も小さいビデオカメラを持っていて、1週間残って僕の親友の弟の遺体を発見してから村に下ろして、葬式から全部ずっとビデオに記録したんです。それを日本に持って帰ってきてテレビで使ってもらいました。

――テレビでシェルパの遭難について報道されることはほとんどなかったのではないですか?


野口健氏: それがはじめてだったんですよね。山の関係者からすると表に出してほしくないんですよ。登山隊に対するバッシングになるかもしれないし。シェルパの死はB面だったんですよね。

国のために死んだ人を大事にしない国は滅びる


――そのほかに、フィリピンなどで旧日本兵のご遺骨の収集活動もされています。


野口健氏: 遺骨収集というと、何となく過去を振り返ってやっている活動に思われがちなんですけど、本当に重要なのはそこじゃなくて、これから先の日本を思ったときに遺骨収集はすごく必要だなと思っているんです。やはり死ぬというのは大変なことです。僕のじいちゃんみたいな職業軍人ならいいんですけど、ほとんどの兵士は赤紙一枚で戦場に行くわけじゃないですか。それでレイテ島とか、作戦自体が崩壊している戦場に送られる。地元のフィリピン人はどこに洞穴があるかなんて全部わかっているし、靴がなくても走れるんです。日本兵はジャングルの中で生活に慣れていないし、すぐにマラリアにかかったりする。あるいは弱りきった状態でフィリピン人に殺されていく。ですから「戦死」という言葉はいともきれいなんですけれども、実際はジャングルで見捨てられて、食糧も水もなくて餓死して、洞穴の中でウジだらけになる。仲間の兵士も死体を動かすこともできず、自分もじわじわ死んでいく。あるいは殺されるか自決する。生き地獄なんです。

――実際に現地に行かれたことで、様々な実態が見えてくるということですね。


野口健氏: レイテのジャングルは今でも人工物がないので景色は何ひとつ変わっていないんです。ジャングルをずっとさまよっていると、遺骨が発見されるところというのはパターンがある。主に洞穴の中で発見されますけれども、すべての洞穴にあるわけじゃない。遺骨が発見されやすいのは入り口から海が見える洞穴です。方位磁石を持っていくと海の向こうが日本なんです。多くの兵士が自分の死に場所を探して、海の向こうに日本がある場所で日本を思いながら死んでいった。それを理屈抜きに感じるんです。「この死に方で本当にいいのか」っていう葛藤の中での死でしょう。国に親なり子どもなりを残して「天皇陛下万歳」と言いながら、本音では母ちゃんのことを思いながら死んだと思います。国の命令で、国の犠牲になって死んでいった人があれだけいる。国のために死んでいった人を大事にしない国は、滅びると思うんです。この活動はこれからの日本のことを考えてもやらなきゃいけないと思っています。

橋本龍太郎前首相(当時)に手渡した12年前のゴミ


――様々な活動をされる中で、ご苦労もかなりあったのではないですか?


野口健氏: 活動ってほんと、やってみないとわからないことがあるんです。例えばエベレストの清掃を始めたことによって、「お前に自分の国を否定された」と言われる。日本語のゴミも散乱しているから、どうしても公表するしかない。そうすると、その言葉が独り歩きして、攻撃的な言葉に変わっていく。ある週刊誌は「野口健、日本山岳会に挑戦状をたたき付ける」って。日本山岳会という大御所に25歳の若手登山家が挑んでいくみたいな対立軸を作る。読む方もそっちの方が面白いですからね。それで結局、山岳会との関係が完全に崩壊しました。あのころは日本山岳協会というところから推薦状をもらえないとエベレストの入山許可証がネパールで申請できなかったんですが、山岳会からの圧力で出発直前になっても推薦状がもらえないんです。

――登山家としての道を絶たれかねない事態ですね。どのように打開したのでしょうか?


野口健氏: やっぱり救ってくれる人も中にはいるんです。その一人が橋本龍太郎さんです。橋本さんは山岳会の幹部で何回かエベレストに行っているんですが、清掃を始めたころに橋本さんから「野口君のエベレスト清掃は素晴らしいけど、僕はエベレストのゴミに助けられました」という意味不明なハガキが来たんです(笑)。要するに「ガタガタ言うな」とくぎを刺してきたんだなと思いました。だからその時、エベレストで絶対に橋本隊のゴミを見つけてやろうと思ったんです。大きい隊でしたから、やっぱり酸素ボンベとかが出てきて、そのボンベをカバンの中に隠して事務所に行きました。「先生のことを尊敬しています。12年前のエベレスト登山隊をテレビで拝見して、感動して登山家になりました」とうそを言ったら喜んじゃって、30分ぐらい自慢話をするんです。喜んでいるときって隙が出るから「実は今日は先生の12年前の忘れ物を届けに参りました」と言ってボンベを出したら、僕の手から奪い取って、じっとにらんで、真っ赤な顔をしている。怒るんだなと思ったらスッと立ち上がって、「確かにこれはわが隊のもので間違いございません。参りました」と言って頭を下げられたんです。それがきっかけで仲良くなったんですけれども。

――橋本さんはもともと野口さんに悪感情を持っていたわけではなかったのでしょうか?


野口健氏: 橋本さんに、あのハガキの意味も聞いたんです。73年に隊員が2人登頂したけど、下山中悪天候になって、降りるのに時間がかかって酸素が空になったそうです。八千メートルで酸素が空になったら体が動かなくなるので相当危ないんですね。事実上遭難しかけたとき、転がっているボンベがあって、ひょっとしたら酸素が入っているかもと思ってひねったらシューッと出てきて、彼らは生還できたんです。だから橋本さんの「ゴミに助けられた」っていうのは本当だったんですよ。僕はいちゃもんかと思ったけど、誤解だったんです。それから、橋本さんが山岳会の幹部を呼び出して、「応援をしろとは言わないが、あいつは俺らの尻ぬぐいをやってくれているんだから邪魔をするな」と言ってくれたんです。またメディアで、「僕の捨てたゴミを野口健という若い登山家が持ってきて恥をかいた」ということをあちこちでしゃべるんです。で、ある女性誌に「エベレストにゴミを置いてきた橋龍、総理の資格なし」とか言ってバッシングの記事になっちゃったんです。それが続いたので橋本さんに、「僕も言いませんから先生もあの件は言わないでください」と言ったら、「いや違う。俺ら政治家はたたかれるためにいるんだ。俺がたたかれれば、これからエベレストに行く山岳会の連中はゴミを捨てられなくなる。それでいいんだ」って言うんですね。今はやっぱり日本隊のゴミはないです。橋本さんはかっこいい大人でしたね。

大学長から200万円のポケットマネー



野口健氏: かっこいい大人といえば、真っ先に思い浮かぶのが衞藤瀋吉先生という方で、僕が入学した亜細亜大学の学長(当時)でした。僕は一芸一能入試でその大学の入学試験に臨んだのですが、勉強なんか何もできず、7大陸を登るんだって宣言して入ったんです。入った直後に「国際関係学部1年の野口健、学長室に来なさい」と学内放送が流れたんです。学長室のドアをノックしたら「入りたまえ」。人生ではじめて「たまえ」って言われたんですよ(笑)。入ったら学長が、ブスッとしながら資料を見ていて、それが僕の高校時代の成績表のコピーだったんです。「お前は本当に成績が悪いな」と言って、「どうせ勉強ができないなら中途半端にできないより、お前みたいに徹底的にできない方が逆にいい」って。ただ衞藤先生は、「お前は世界を相手に挑戦するんだろう、そういう学生が欲しかった。ただ一点、大学は卒業すると約束しろ」と。山に登ったら帰ってこなきゃいけないように、大学は入ったら何年かかってもいいから卒業しろ、単位の協力はしないが冒険には協力すると。18歳のガキを学長が呼んで、男と男の約束をしないかと言われて、やっぱりしびれましたよ。

――衞藤先生が野口さんを気にかけられていた様子がわかりますね。


野口健氏: その2年くらいあとに、僕が南極に行こうというときに、飛行機をチャーターしていくので600万くらいかかるということがわかって、400万ぐらいは必死で集めたんですが、残りの200万が足りないんです。で、学校を歩いていたら学長に会って、「おい、南極に行けそうか」と言うから、「ちょっと今回は厳しいかもしれません」と言って、200万円足りないということを言ったら、「お前は200万で夢を捨てるのか!」って怒鳴られて、学長室に来いと言われて、2、3時間後に行ったら、いきなり200万の封筒をポンと出された。びっくりしていたら、「俺は本を書いたり講演をして、その一部で衞藤基金というのを作っている。その基金からお前に200万を出す」と言うんです。要するにポケットマネーですよね。「これは受け取れません」と言ったら、「ガタガタ言うな、早く持っていけ」と思い切り怒鳴るんですよ。頂いて部室に帰って一人で泣きました。今まで色々なことがありましたけれども、そのときそのときにかっこいい大人との出会いがあって僕は救われているんです。果たして自分がそういう大人になれるのかなと思いますね。

著書一覧『 野口健

この著者のタグ: 『海外』 『日本』 『登山』 『山』 『環境問題』 『ゴミ』 『エベレスト』 『正義』 『A面B面』

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