野口健

Profile

1973年8月21日、アメリカ・ボストン生まれ。高校時代に植村直己氏の著書『青春を山に賭けて』に感銘を受け、登山を始める。 1999年、エベレストの登頂に成功し、7大陸最高峰世界最年少登頂記録を25歳で樹立。 2000年からはエベレストや富士山での清掃登山を開始。以後、全国の小中学生を主な対象とした「野口健・環境学校」を開校するなど積極的に環境問題への取り組みを行っている。現在は、清掃活動に加え地球温暖化による氷河の融解防止にむけた対策に力を入れており、2010年には「センカクモグラを守る会」を立ち上げ、生物多様性の価値と保全の緊急性を訴える活動等もをしている。
【公式HP】http://www.noguchi-ken.com

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多くの人が避けてきた「B面」にこそ本質がある



7大陸最高峰の最年少登頂を成し遂げるなど、日本を代表する登山家の野口健さんは、近年は環境保護活動に熱心に取り組み、エベレストや富士山の清掃登山や地球温暖化対策に関する発言で注目されています。世界の登山家の活動をサポートするネパールの山岳民族であるシェルパへの支援、フィリピンや沖縄での旧日本兵の遺骨収集など、従来光が当たらなかった対象へのまなざしはどのように生まれたのか。活動にかける想いをお聞きしました。

目の当たりにした難民、少年兵の現実


――世界各国で活動されていますが、近況を伺えますか?


野口健氏: 昨年は春にヒマラヤに行って、8、9月にはアフリカに行きましたね。アフリカの「A面B面」をテーマに、3年間回っています。アフリカというとキリンがいてライオンがいて、これも事実ですけれども、もう一方には現在進行形で大変な状況があってそのコントラストが非常に激しいんです。

――アフリカではどのような現状をご覧になったのですか?


野口健氏: 例えばケニアなら観光客はほとんど国立公園に行きます。公園は保護されているし、立派なホテルもあって極めて快適です。でも近くには貧困の象徴であるスラム街があって、また少し離れると難民キャンプがあって、スーダンなりソマリアなり紛争地帯から難民が流れてきている。ケニアには大きな難民キャンプが2ヶ所あって、そのうちの1つのカクマというところに行きましたが、13ヶ国から難民が10万人ぐらい集まっているんです。ウガンダには少年兵の問題があります。ゲリラが夜、農村を襲って子どもを誘拐していくんですけれども、誘拐するときにまず子どもに自分たちの親を殺させるんです。斧か何かで手足や首を落とさせて。自分の親を殺した人間は他人を簡単に殺せる。要は殺人兵器を造っているんです。しかも同じ村人を子どもに殺させて誘拐すると、脱走しても自分の村に帰れない。そこに日本のNGOが入って保護された少年兵の再教育を最前線でやっているんですが、彼らは小さいときに誘拐されて、10年ぐらい少年兵をやっていますので、社会復帰できない。何かあったら殺せばいいと教えられているので、帰って来てもまた何かやってしまうんです。

父の教え「物事にはA面とB面がある」


――A面とB面という考え方を持つようになったきっかけはありますか?


野口健氏: おやじが外交官で、赴任先は中東が多かったんですけど、僕がちっちゃいときに「A面は放っておいても見えてくる。ところがB面っていうやつは自分から行かないと見えてこない」と言っていました。おやじがイエメンに赴任したとき、小さい車を買って、大使館員とバレないようにイエメン中を走るんですが「お前も来い」と言われて一緒に回りました。至る所で紛争をやっていて、特に病院が悲惨でした。首都のサヌアに救急病院が1ヶ所しかなく、救急車がないから大怪我をしても地方から運ばれて来る途中で死ぬ。そして運ばれてきても治療できない人は廊下に放置されていくんです。

――おいくつくらいのときでしょうか?


野口健氏: 高1のときかな。それでおやじに「何で俺を連れて歩くの?」と聞いたんです。おやじが言うには、ODAの援助というのは大きく分けると2つの要素があって、1つは困っている人を助けるということ、もう1つには外交カードです。援助することによって相手の政府の対日感情が良くなって、国連で何か任務をやるときには日本を支持してくれる。相手の政府に感謝された方が外交上は日本が強くなるんですね。税金を使っている時点で国益も当然考えなければならないから、おやじは外交官としての気持ちにウェイト(新聞等ではウエイトか?)がいく。これはこれで1つ正論です。ただ僕みたいな素人が行くと、「おやじ、これ何とかした方がいいんじゃないか」という意見が出るわけじゃないですか。援助のパイが決まっていて、それをどう振っていくかというときに、素人ゆえに見えてくることがあると言っていました。やっぱり専門家だけでは偏っちゃうんですね。

――相手国の政府から求められるものと本当に必要なものが異なることもあるのでは?


野口健氏: 相手の政府とか、首長が作ってくれというものは基本的には彼らにとって必要なものなんです。つまり権力者にとっての必要なもの。



イエメンなどは国家の概念がなくて部族社会です。地方に行くと民兵がそれぞれ武装してて、井戸か何かの奪い合いでドンパチやっているんですよね。まるで戦国時代なんです。彼らは国家という概念はないので、国民のためにという概念もない。その部族にとって必要なものとなるんですよね。だからイエメンも、この間追放されましたけども、独裁的な人が力で押さえ付ける。イラクもそうだったし、リビアなんか典型的ですよね。

日本と世界の最高峰で活動する意義


――お父さまの教えは、今でも野口さんの中に息づいているのですね。


野口健氏: 小中高でそんな経験をしたので、考え方が染み付くんですね。山の世界に入って、今やっている活動も全部そうです。例えば遠くから見たらきれいなエベレストも実際に行ったらゴミだらけです。富士山にも樹海にトラックがいっぱい来て不法投棄する。はじめて富士山の樹海に行ったときに、昔、おやじが言った「A面B面」というのがパッと出てきました。新幹線から見る左右対称の富士山はAです。投棄物の墓場は紛れもなくBです。エベレストも登山隊が挑戦する感動的なテレビ番組ではゴミは映っていないでしょう。映っちゃうとテレビを見ている人は登山家に共感できなくなりますから。うそをついているわけじゃないけど、作り手の意図があって、すべてを描いているわけじゃないわけです。

――富士山のゴミ投棄については、野口さんの活動もあってだんだん知られるようになりましたね。


野口健氏: 特に医療廃棄物が多くて、使用済みの注射器とか点滴の管が山になって、異様な光景です。県外からもたくさん来ていて、よく見ると病院の名前が書いてある。別に病院が捨てるわけじゃなくて、病院が産廃業者に出してその下請けの下請けとかが捨てているんです。会社の資料とかも住所が書いてあるので、だいたい、何県のどこから来たかもわかっちゃうんです。静岡、山梨県に限らず、富山とか石川県とか日本海側からもかなり来ていますね。

――エベレストの活動では、「登山家によるゴミ投棄」という問題に光を当てることになりました。


野口健氏: エベレストでゴミを拾っていると、ゴミを捨てる隊、捨てない隊は出身国によってはっきり区別されるんです。今はだいぶ変わりましたけど、当時は、ゴミを持って帰るのはドイツ、デンマーク、ノルウェー、スイス。反面ゴミを置いて帰るのは日中韓、インド、ロシアですね。あの時代は日本隊のも多かったです。エベレストが汚いのも問題だけど、エベレストのゴミから見えてくる話の方に意味があるんです。ゴミを持って帰る登山隊の出身国に行くと、環境問題に積極に取り組んでいる。ゴミを置いて帰る登山隊の国に行くと、環境問題に対する取り組みが教育も含めて、遅れている。最初は日本の登山家はひどいなと思いましたけれども、そんなちっぽけな話じゃなくて、これは日本の社会の縮図かもしれないと思うようになりました。

――ゴミひとつから見えてくるものはもっと大きいのですね。


野口健氏: 富士山の活動をやっていることで、全国の色んな団体から一緒にゴミを拾えないかというラブコールが来るんです。ゴミを拾うのは僕の趣味だと思っている人が多くて(笑)。この13年、北海道から沖縄まで不法投棄の日本のB面を見て歩いてきたんですよ。やはり富士山だけじゃないんです。ただ富士山は樹海が広くて、夜、真っ暗で林道がたくさんあって人の目がない。犯罪者からすると一番気になるのは人の目なんですよね。樹海は不法投棄する連中にとっては最高なんですよ。まず見つからないし捨てる場所はごまんとある。僕らみたいに意図的にゴミを探して入らない限り林道の中より奥に入っていく人っていないですから。僕らが日本の最高峰である富士山を徹底的にやることによって、全国で民間の団体と市町村なり県なり環境省なりが連携して山を守っていくというモデルが広がっていくと考えています。

はじめてメディアで伝えられた「シェルパ」の死


―― 一流の登山家だからこそ伝えられるメッセージがありますよね。


野口健氏: 僕の登山人生なんて、はっきりいって大したことはなくて、重要なテーマはほかにあるんです。みんなが厄介な問題だということで目をそらしちゃうテーマがたっぷりある。シェルパ基金なんかもそうですよね。登山隊が登頂するとき、地元のシェルパのサポートを受けるわけです。でも登頂するとニュースになるけど一緒に登ったシェルパはニュースにならない。登山家が遭難するとニュースになるけど、一緒に遭難したシェルパはニュースにならない。1995年にヒマラヤで大きな遭難があって、日本のトレッキング隊が雪崩で山小屋ごとつぶされて全員亡くなった。そのときにシェルパも十何人死んでいるんですよ。僕はそのときは日本にいましたけど日本隊が全滅っていうのは大きく報道された。日本人が13人いてポーターがいないわけがないと思っていたらファックスが来て、僕の親友のシェルパの弟がそこの隊のポーターをやっていて、連絡が取れないということで、2日後にネパールに飛んで現場に入ったんですね。そうしたら雪の中にシェルパが13人埋まっていたんです。日本のメディアは日本隊の遺族を取材するだけで、サポートしたシェルパたちに対してはカメラが向かない。僕も小さいビデオカメラを持っていて、1週間残って僕の親友の弟の遺体を発見してから村に下ろして、葬式から全部ずっとビデオに記録したんです。それを日本に持って帰ってきてテレビで使ってもらいました。

――テレビでシェルパの遭難について報道されることはほとんどなかったのではないですか?


野口健氏: それがはじめてだったんですよね。山の関係者からすると表に出してほしくないんですよ。登山隊に対するバッシングになるかもしれないし。シェルパの死はB面だったんですよね。

国のために死んだ人を大事にしない国は滅びる


――そのほかに、フィリピンなどで旧日本兵のご遺骨の収集活動もされています。


野口健氏: 遺骨収集というと、何となく過去を振り返ってやっている活動に思われがちなんですけど、本当に重要なのはそこじゃなくて、これから先の日本を思ったときに遺骨収集はすごく必要だなと思っているんです。やはり死ぬというのは大変なことです。僕のじいちゃんみたいな職業軍人ならいいんですけど、ほとんどの兵士は赤紙一枚で戦場に行くわけじゃないですか。それでレイテ島とか、作戦自体が崩壊している戦場に送られる。地元のフィリピン人はどこに洞穴があるかなんて全部わかっているし、靴がなくても走れるんです。日本兵はジャングルの中で生活に慣れていないし、すぐにマラリアにかかったりする。あるいは弱りきった状態でフィリピン人に殺されていく。ですから「戦死」という言葉はいともきれいなんですけれども、実際はジャングルで見捨てられて、食糧も水もなくて餓死して、洞穴の中でウジだらけになる。仲間の兵士も死体を動かすこともできず、自分もじわじわ死んでいく。あるいは殺されるか自決する。生き地獄なんです。

――実際に現地に行かれたことで、様々な実態が見えてくるということですね。


野口健氏: レイテのジャングルは今でも人工物がないので景色は何ひとつ変わっていないんです。ジャングルをずっとさまよっていると、遺骨が発見されるところというのはパターンがある。主に洞穴の中で発見されますけれども、すべての洞穴にあるわけじゃない。遺骨が発見されやすいのは入り口から海が見える洞穴です。方位磁石を持っていくと海の向こうが日本なんです。多くの兵士が自分の死に場所を探して、海の向こうに日本がある場所で日本を思いながら死んでいった。それを理屈抜きに感じるんです。「この死に方で本当にいいのか」っていう葛藤の中での死でしょう。国に親なり子どもなりを残して「天皇陛下万歳」と言いながら、本音では母ちゃんのことを思いながら死んだと思います。国の命令で、国の犠牲になって死んでいった人があれだけいる。国のために死んでいった人を大事にしない国は、滅びると思うんです。この活動はこれからの日本のことを考えてもやらなきゃいけないと思っています。

橋本龍太郎前首相(当時)に手渡した12年前のゴミ


――様々な活動をされる中で、ご苦労もかなりあったのではないですか?


野口健氏: 活動ってほんと、やってみないとわからないことがあるんです。例えばエベレストの清掃を始めたことによって、「お前に自分の国を否定された」と言われる。日本語のゴミも散乱しているから、どうしても公表するしかない。そうすると、その言葉が独り歩きして、攻撃的な言葉に変わっていく。ある週刊誌は「野口健、日本山岳会に挑戦状をたたき付ける」って。日本山岳会という大御所に25歳の若手登山家が挑んでいくみたいな対立軸を作る。読む方もそっちの方が面白いですからね。それで結局、山岳会との関係が完全に崩壊しました。あのころは日本山岳協会というところから推薦状をもらえないとエベレストの入山許可証がネパールで申請できなかったんですが、山岳会からの圧力で出発直前になっても推薦状がもらえないんです。

――登山家としての道を絶たれかねない事態ですね。どのように打開したのでしょうか?


野口健氏: やっぱり救ってくれる人も中にはいるんです。その一人が橋本龍太郎さんです。橋本さんは山岳会の幹部で何回かエベレストに行っているんですが、清掃を始めたころに橋本さんから「野口君のエベレスト清掃は素晴らしいけど、僕はエベレストのゴミに助けられました」という意味不明なハガキが来たんです(笑)。要するに「ガタガタ言うな」とくぎを刺してきたんだなと思いました。だからその時、エベレストで絶対に橋本隊のゴミを見つけてやろうと思ったんです。大きい隊でしたから、やっぱり酸素ボンベとかが出てきて、そのボンベをカバンの中に隠して事務所に行きました。「先生のことを尊敬しています。12年前のエベレスト登山隊をテレビで拝見して、感動して登山家になりました」とうそを言ったら喜んじゃって、30分ぐらい自慢話をするんです。喜んでいるときって隙が出るから「実は今日は先生の12年前の忘れ物を届けに参りました」と言ってボンベを出したら、僕の手から奪い取って、じっとにらんで、真っ赤な顔をしている。怒るんだなと思ったらスッと立ち上がって、「確かにこれはわが隊のもので間違いございません。参りました」と言って頭を下げられたんです。それがきっかけで仲良くなったんですけれども。

――橋本さんはもともと野口さんに悪感情を持っていたわけではなかったのでしょうか?


野口健氏: 橋本さんに、あのハガキの意味も聞いたんです。73年に隊員が2人登頂したけど、下山中悪天候になって、降りるのに時間がかかって酸素が空になったそうです。八千メートルで酸素が空になったら体が動かなくなるので相当危ないんですね。事実上遭難しかけたとき、転がっているボンベがあって、ひょっとしたら酸素が入っているかもと思ってひねったらシューッと出てきて、彼らは生還できたんです。だから橋本さんの「ゴミに助けられた」っていうのは本当だったんですよ。僕はいちゃもんかと思ったけど、誤解だったんです。それから、橋本さんが山岳会の幹部を呼び出して、「応援をしろとは言わないが、あいつは俺らの尻ぬぐいをやってくれているんだから邪魔をするな」と言ってくれたんです。またメディアで、「僕の捨てたゴミを野口健という若い登山家が持ってきて恥をかいた」ということをあちこちでしゃべるんです。で、ある女性誌に「エベレストにゴミを置いてきた橋龍、総理の資格なし」とか言ってバッシングの記事になっちゃったんです。それが続いたので橋本さんに、「僕も言いませんから先生もあの件は言わないでください」と言ったら、「いや違う。俺ら政治家はたたかれるためにいるんだ。俺がたたかれれば、これからエベレストに行く山岳会の連中はゴミを捨てられなくなる。それでいいんだ」って言うんですね。今はやっぱり日本隊のゴミはないです。橋本さんはかっこいい大人でしたね。

大学長から200万円のポケットマネー



野口健氏: かっこいい大人といえば、真っ先に思い浮かぶのが衞藤瀋吉先生という方で、僕が入学した亜細亜大学の学長(当時)でした。僕は一芸一能入試でその大学の入学試験に臨んだのですが、勉強なんか何もできず、7大陸を登るんだって宣言して入ったんです。入った直後に「国際関係学部1年の野口健、学長室に来なさい」と学内放送が流れたんです。学長室のドアをノックしたら「入りたまえ」。人生ではじめて「たまえ」って言われたんですよ(笑)。入ったら学長が、ブスッとしながら資料を見ていて、それが僕の高校時代の成績表のコピーだったんです。「お前は本当に成績が悪いな」と言って、「どうせ勉強ができないなら中途半端にできないより、お前みたいに徹底的にできない方が逆にいい」って。ただ衞藤先生は、「お前は世界を相手に挑戦するんだろう、そういう学生が欲しかった。ただ一点、大学は卒業すると約束しろ」と。山に登ったら帰ってこなきゃいけないように、大学は入ったら何年かかってもいいから卒業しろ、単位の協力はしないが冒険には協力すると。18歳のガキを学長が呼んで、男と男の約束をしないかと言われて、やっぱりしびれましたよ。

――衞藤先生が野口さんを気にかけられていた様子がわかりますね。


野口健氏: その2年くらいあとに、僕が南極に行こうというときに、飛行機をチャーターしていくので600万くらいかかるということがわかって、400万ぐらいは必死で集めたんですが、残りの200万が足りないんです。で、学校を歩いていたら学長に会って、「おい、南極に行けそうか」と言うから、「ちょっと今回は厳しいかもしれません」と言って、200万円足りないということを言ったら、「お前は200万で夢を捨てるのか!」って怒鳴られて、学長室に来いと言われて、2、3時間後に行ったら、いきなり200万の封筒をポンと出された。びっくりしていたら、「俺は本を書いたり講演をして、その一部で衞藤基金というのを作っている。その基金からお前に200万を出す」と言うんです。要するにポケットマネーですよね。「これは受け取れません」と言ったら、「ガタガタ言うな、早く持っていけ」と思い切り怒鳴るんですよ。頂いて部室に帰って一人で泣きました。今まで色々なことがありましたけれども、そのときそのときにかっこいい大人との出会いがあって僕は救われているんです。果たして自分がそういう大人になれるのかなと思いますね。

人間の思想は、「右、左」で色分けできない



野口健氏: 色々活動をしていて思うのは、先ほども少し言いましたが、自分の正義が必ずしもみんなの正義じゃないということです。富士山は世界遺産を目指していますが、指定されると入山規制しなきゃいけないから、公共事業ができなくて困る人もいる。遺骨収集も、あの戦争は絶対悪というところから始まるので、「お前は戦争を美化して、右翼じゃないか」と言われる。色んな立場の人に彼らにとっての正義があって、彼らの都合もあるわけですよね。ただ、コツコツと現場で10年続けると冷ややかに見てたりボロクソ言っていた連中が、横で一緒にゴミを拾っていたりするわけです。中にはどんなに一生懸命伝えても伝わらない人がいるけど、それはもうしょうがない。すべての人に好かれようと思ったら活動は何ひとつできない。でも、自分が良いと思っていることを叫ぶだけだと、街宣車で騒いでる右翼団体の連中と変わらない。バランスは難しいんですけれども、活動を通して伝え続けるとだんだんわかってもらえるということはありますね。遺骨収集も本当に色々言われました。僕の落ち度もあったんですけれども、フィリピンに日本人が骨を探しに行くと、旧日本兵の骨を見つけたら金になるということで墓を荒らして洞穴の中に骨を投げちゃうんですよ。それが混じったものを持って帰ってきたということをある週刊誌で報道されました。ただ僕からすると、60数年間ほったらかしにしていたツケなんですよ。そういうことも起こり得るけれども、続けていくしかない。

不毛な議論「原発推進、それとも反原発」


――レッテルを貼って区別するのはわかりやすくて、楽でもありますね。


野口健氏: 今だったら、脱原発か原発推進派かっていう話ですね。僕みたいに環境の活動をしていると脱原発の連中が来るんです。「野口健は環境問題をやっているから当然、脱原発だろうと。お前も官邸の前に行って山本太郎と一緒に旗を振れ」と。僕は必ずしも脱原発という考えは持っていない。今、再稼働反対とだけ言うのは無責任だし、もし本当に原発をなくしていくなら、そこから先の絵を描かなきゃいけない。原発に頼ってきたのも事実だし、経済発展してきたのは原発のおかげもあったわけですしね。本当に色んな国に行くと、四六時中停電です。電気がないことを日本人は想像できないじゃないですか。でも今の話をすると、原発推進と言われる。ネットで「野口健・原子力」で検索するとたくさん出ますよ。僕は何年か前に富士山の清掃のときに、東京電力っていうワッペンをつけていたことがあるんです。その写真がネットで出回って、「野口健は東電におかされている」とか。見方がすごく短絡的ですよね。

――原発の問題は確かにそういう傾向がありますね。


野口健氏: 原発はゼロにできるとは思わないんですけれども、半分ぐらいにできるのかなと思っているんです。火力って、石油を買わなきゃいけないという弱点がある。日本はソーラーと風力はまだあんまり計算できない。期待できるのは地熱なんです。日本はこれだけ火山があるのに、地熱発電所はほとんどない。でも調べたら世界中の地熱発電プラントの心臓部ともいえるタービンの7割を富士電機、東芝、三菱重工が作っているんです。日本は世界でトップレベルの地熱発電の技術を持っているんですね。地熱のタービンは故障が多くてほかの国がどんどん撤退する中、日本のメーカーがほぼ独占状態です。そして地熱資源は、日本は世界で3番目。1位がアメリカ、2位がインドネシアですね。日本では国立公園、自然公園をある程度いじらないとダメなんですけれども、フルに地熱発電所を作ったら計算上では原発だいたい20基分なんです。そうすると他国に頼らなくてもいいし、原発の半分は地熱でいける。地熱は天気に左右されず安定的ですしね。今、地熱発電について色々調べていて、今年はそれをテーマにまとめてみたいですね。

自分のB面を出せば、もう何も怖くない


――野口さんは本も多数執筆されていますが、執筆はどういったスタイルでされていますか?


野口健氏: ヒマラヤで書いていることが多いんですよ。例えば『自然と国家と人間と』っていう本は日経で2、3年間連載していたのですが、新聞は毎週、締め切りがあるのでヒマラヤからでも毎週送る。衛星機材とパソコンを持ち込んで現場で書いているんです。



最近出した『それでも僕は現場に行く』の後半はヒマラヤで書きました。僕はテントで書いているときの方が燃えるんですよ。環境は厳しいんですけど、ガッと気持ちが入る。悪天候のときは3日間ぐらいテントの中に閉じ込められますからね。逆に、『100万回のコンチクショー』は集英社が気を使って旅館のデカい部屋を用意してくれたんですけれども、酒飲んで終わっちゃって全然ダメでした(笑)。

――野口さんの本では、『落ちこぼれてエベレスト』などでも、かなり私生活に関する赤裸々な描写がありますね。


野口健氏: あの本は正直に色々書きすぎました(笑)。母ちゃんの不倫の話とか、僕自身もシェルパの女の子と結婚した話とか。色々書いたら親戚会議みたいなのが開かれて、机に『落ちこぼれてエベレスト』が置いてあった(笑)。「家族の事をそこまで書くか」とすごく言われたんです。でも、人間の中でもA面B面があるじゃないですか。その両方を出さないと、自伝なんて書く意味がないんですよ。一志治夫さんというライターが僕を3年ぐらい取材して『僕の名前は。』っていう、私に関する本を出版するときもそれを大事にしました。私が本来出したくない部分を一生懸命彼にしゃべって、それをもとに編集するのですが、あがってきた原稿を読んで私は「オブラートに包みすぎ。もっとはっきり書いて欲しい」と言いました。彼は色んな人の本を書いたけど、そこまで言われたのははじめてだとあとがきに書いています。でも自分のB面を出しちゃうと、もう何も怖くないんですよ。登山家ごときには週刊誌も来ないと思うんですけれども、仮に僕が女性とホテルから出てくる写真を撮られたら、うちの事務所の対応はもう決まっていて、「仕方がありません、好きですから」だそうです(笑)。日本の社会は表面的なモラルを美化しすぎなんですよね。

――主張を人に伝えるためにも「A面B面」両方を表現することが重要ということですね。


野口健氏: どう書けば伝わるかなというのが最大のポイントで、過去の自分が決して模範的じゃないという情報も出すことによって伝わりやすくなることもあるんです。やっぱり環境問題って、どこか上から目線になりやすいんです。自分も昔ゴミを捨てた時期があるのに、それを隠して「お前ら、きれいにしろ」と言ったところで人には伝わらない。世の中に絶対に正しいことなんてないと思います。だから自分の考えがすべてに当てはまるとは思っていないけど、こういう考えもあるんだな、と知るきっかけになればいいなと思うんですよね。特に、僕の活動は多くの人が避けてきたテーマが多いので、伝えがいがありますね。

(聞き手:沖中幸太郎)

著書一覧『 野口健

この著者のタグ: 『海外』 『日本』 『登山』 『山』 『環境問題』 『ゴミ』 『エベレスト』 『正義』 『A面B面』

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