飯尾潤

Profile

1962年神戸市生まれ。東京大学法学部卒業、同大学院法学政治学研究科博士課程修了、博士(法学)。埼玉大学大学院政策科学研究科助教授等を経て現職。この間に、ハーバード大学客員研究員や、政策研究大学院大学副学長なども経験した。政治学・現代日本政治論を専門分野とし、日本政治を対象にその具体的な現れ方の分析、政治制度の運用や政治主体に関する考察をすすめている。雑誌・新聞に政治状況についての寄稿・コメントを行い、時にテレビの報道番組にも出演している。著書『日本の統治構造』(中公新書)でサントリー学芸賞、読売・吉野作造賞を受賞。

Book Information

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あふれる情報を「知識」にするために



飯尾潤さんは、現代の日本政治の政策決定過程を、選挙制度や投票行動、国会運営、政党、官僚などの相互の関係から分析。学術の分野だけではなく、新聞や雑誌、テレビなどでの発言も多く、最も注目される政治学者の一人です。最近新著を書き上げた飯尾さんに、ご自身の著作や読書体験など本とのかかわり、また研究スタイルやメディア観についても伺いました。

5年ぶりの単著が完成


――早速ですが、近況を伺えますか?


飯尾潤氏: 久しぶりに本を出しました。『現代日本の政策体系』という本です。私は遅筆でして、あれこれ迷いながら去年の暮れに書き上げて、校正を一生懸命して、やっと終わってやれやれという感じです。単著は5年ぶりです。ただ、仕事は重なることが多くて、編著に論文を書く約束や、教科書を書く約束もあって、今は仕事が玉突きになっています。

――ご専門の現代政治は、状況が刻々と変わるので書くのも大変ではないですか?


飯尾潤氏: ある意味ではそうですが、私はジャーナリストではないので、必ずしも新しいことを述べるのを目的としているわけではありません。本は、新聞や雑誌だと時間の制限があってできないことができるので、しばらくは読まれるような本にしたいと考えています。現代の政治を扱っているから、そんなに長らく読まれるようにしたいとは思わないけれど、5、6年の単位で読まれるようなものにしたい。ただ、今だったらこの話題を例に書けばわかるはずだというものはあっても、すぐに古くなるのではないかとか、もっと一般化した方がいいということを考えます。そういう意味で、本はブログやTwitterと違うと思っています。



よく、「情報」と「知識」の違いといいますが、知識というのは、ある程度体系化しているところに特徴があります。そうした知識を身に付けたり、伝えたりするためには、パッケージが必要で、それは本であることが多い。もちろん情報を取るための本もありますが、われわれ学者が書くようなものは、知識を伝えたいと思いっています。本の中にはたくらみがあって、前から順番に読んでもらうと、その世界に入っていって、何かが身に付く。それが読書の楽しみでもある。本を書く時は、完成された形に持っていくことが大事だと思います。

――完成されたものを出すということはほかにはない緊張感もありますね。


飯尾潤氏: 私も本を出してから読者に間違いを指摘されることもあったし、うっかり何かを忘れていたというようなこともありますので、修正したこともありますが、いったんは完成された形に持っていくという作業が本作りの中で重要なことだと思っています。その意味でも、本は著者だけでできるのではなく、編集者や校閲者など、いろいろな人が協力して初めてできるものです。

読者の代表としての編集者


――飯尾さんにとって理想の編集者はどのような方でしょうか?


飯尾潤氏: こちらの癖を理解した上で、持っているものを引き出してくれる人です。コメントしてくれたり、時には書きやすいように工夫してくれる。ついそれに甘えてしまうのもいけないんですが、非常に助かります。編集者も、いろいろなタイプがいます。私が初めて本を出したのは学術出版で、「こんなことでは通用しない」という風に言ってくれる厳し目の方でした。その方はその後偉くなられて、もう定年になられましたが、そういう人もいますし、あるいは丁寧に話を聞いて、「それならこういうことに書いた方がいいんじゃないか」とか、「ここはちょっとわかりにくい」と、親身に言ってくれるタイプの人もいる。著者との相性もあるとは思いますが、自分の足りないところを補ってくれるのが理想です。編集者が私の専門分野に詳しいということは、めったにありませんが、一般読者代表として読んでくださるわけですから、そこがいい。

――学術書の場合、専門外の方のチェックも必要となるのですね。


飯尾潤氏: 本当はしたいけれどできていないのは、本を出す前に編集者だけではなくて仲間の学者に読んでもらうことです。欧米の学者は、コメントを交換し合うということをよくしています。日本でもそういうことはできるはずですが、みんな忙しいだろうと思うと、遠慮してしまうし、私の場合はそこまで書けた段階では、締め切りを過ぎていることが多いので、さらに迷惑をかけるのは悪いなと思って、つい遠慮しています。若い時には友達に読んでもらうことは、わりとしやすいけれど、年をとってくるとみんな忙しくなります。ほんとうは、気さくに若い学者にコメントを頼める関係になりたいとは思うのですが。

「背伸び」する読書は大切な経験


――飯尾さんの読書体験について、幼少期からお聞きしたいと思います。


飯尾潤氏: 私は神戸で育って、小さい時から家には本があって、本を読むことはよいことだとみんなが思っているような家でした。だから本はよく読んで、絵本みたいなものから始まって、小学校に行くようになると伝記の全集や、日本の歴史を易しく書いたシリーズものとかを何回も読んでいました。いろいろなことに興味があったので、科学の雑誌も取っていて、小学校の高学年になると、大人向けの文庫本を買うようになりました。

――意識して読まれるようになった作家はどういった方でしたか?


飯尾潤氏: 最初に買った文庫は今でも覚えていて、新潮文庫の芥川龍之介でした。そうしたら、もっと読みたくなって、出ているものは全部読みました。あとは、「新潮文庫の100冊」とか、「岩波文庫の100冊」とかあるでしょう。あれを中学生のころ、全部読んでやろうと思いました。当時は今に比べると、非常に難しい本も入っていましたが、とにかく読もうと。

――「全部読む」というような読書への欲求があったのはなぜだと思いますか?


飯尾潤氏: もっと賢くなれると思いました。哲学とかはよくわからないけど、あこがれもありました。そういう風に、自分の能力よりもちょっと背伸びするのが大切だと思います。面白いと思うものだけを読んでいては実力がつかない。
さらに高校に行くと、昔からの教養主義的な文化を持っている先生がたくさんいて、その影響で中国の古典なんかに親しんで、漢文なんかも得意でした。私は村上春樹さんと同じ高校で、彼の方がずいぶん上だから、直接は知らないけども、同じ英語の先生に習ったんです。その彼女の方針で、休みに英語の本を1冊読むということになっていて、サマセット・モームとかジャック・ロンドンを、英語で読むようになりました。

――政治学に関する書籍はいつごろ触れられたのでしょうか?


飯尾潤氏: 高校のころ、丸山真男先生の本を読みました。丸山先生の本は受験でも重要でしたから『日本の思想』は読んでいたのです。ただ、図書館に行って手に取った『日本政治思想史研究』は、箱に入って旧活字で、読んでもよくわからなかった。でも大学に行けばそういう本が読めるようになるんだろうと思っていたのです。それで、東大に入って、まず教養学部で勉強したのですが、本の読み方がずいぶん変わった。村上陽一郎先生の、科学史・科学哲学の授業が私にとって衝撃的だった。なぜかというと、受験勉強では正解を見つけることをしていたのですが、自然科学でも、みんな間違いながら進んできたということを教えられたからです。
当時、80年代の初めですが、学問的にも相対主義が強かったから、さまざまに違った見方をすることを教わって、自分が気に入らないものも読んでみなければならないと思いました。やっぱり社会科学に興味が出て、法律も政治も読んで、学部は違ったけれど経済本も、経済に詳しい友達からも刺激を受けて読んでいました。アダム・スミスはわかりやすかったけれど、マルクスの資本論は、本当に長いし往生しました(笑)。おそらくそんなもの全部を読んだ世代としては、最後の方でしょう。資本論は仲間の勉強会で読みましたが、みんなあんまりマルクス主義にはシンパシーを感じてはいなかった。どうでもいいエピソードは思い出せるけど、理屈の方はすぐに忘れてしまいました(笑)。でも、それは大学生らしい暮らしだったと思いますね。

本と本が「つながる」楽しみ



飯尾潤氏: 大学院に行くと、また読み方が変わる。それまでは本は前から順番に読んでいたんです。楽しみの本はそれでいい、でもそれではとても自分の専門の本は読み切れない。教えられたのは、目次や索引を使ってどの本を読むべきかを決めること、一部分だけでも、読まないよりはずっといいので読むことです。仕事になるとそういう読み方をしています。あとは、語学は得意じゃないけれど、英語の本は読まなくてはならない。でもたくさんは読めないから、ますますそういう読み方になる。読書の楽しみは減るけれど、しょうがない。現代日本政治についての本は、かつてほど楽しんで読めなくなってしまいました。たまにはじっくり読んでみたいと思いますけれど。最近は毎週のように本を頂いて、全部読みたいけれど、来たなと思ったら次が来るようになってなかなか読めない。本当に楽しいのは、自分の専門外の本を読むことです。読まなければいけないということもないので、気楽に読める。あと面白いのは、バラバラに読んでいる、遊びのための本でも、読んでいると本同士がつながってくることがあります。

――「本同士がつながる」とはどういったことでしょうか?


飯尾潤氏: 私は何か一事に入れあげるということがありません。そのことだけをしていると自分を小さくするようでイヤなので、いろんなものを読みたい。書店で手に取ることもあるし、新聞や雑誌の書評が出ていたものを買うこともあります。若いころはお金がないから、買おうかどうかをずいぶん迷ったけれど、最近本代には不自由がないので、まず買ってみる。家には読もうと思っている本を並べる本棚があって、いっぱいになると精神的によろしくない(笑)。それでいろいろなタイプの本をぐるぐると読むけれど、全然関係なく読んでいるものが内面的につながってくるということがあります。1年で4冊か5冊ぐらいつながってきます。例えば歴史でいうと、同じ王様が、全然関係ないつもりで読んできた本に出てきたりする。そうすると、前はわからなかったことがわかるような感じがして、世界が深まって、楽しいです。

読書人が本の世界を豊かにする



飯尾潤氏: 吉川幸次郎先生か誰かの本で読みましたが、中国には科挙に合格して官僚になるという目的を持って勉強する人がいましたが、科挙に合格できずに地元にいても、「読書人」として本を読む。読者がいることによって、学問のコミュニティーが成り立っているという。「読書人」が本を読むこと自体が、学問を支えて、文明を支えるという発想がある。だから私も、さまざまな本を立ち読みではなくてお金を出して買って、読むことでコミュニティーの一員になるということを意識しています。本が読み継がれることによって、さまざまな研究が発展して、あるいは私は小説も好きだけど、創作にもつながってくる。

――飯尾さんご専門の研究もさまざまなジャンルの本を読むことで発展していると感じますか?


飯尾潤氏: 三谷太一郎先生という、政治史の文化勲章も取られた大先生がいらっしゃって、最近出された本で、丸山真男先生のことを論じて、政治学は「総合の学」だと論じておられる。細かく小さなところの分析をすれば全部がわかるという学問じゃなくて、政治には世の中のいろいろなものが持ち込まれるので、それに応じた学問が必要だということかもしれません。あれこれ気が回る私のタイプに合っている学問だと思います。ただ最近、「科学としての政治学」ということが強調されて、細かく分析的になりがちなので、そういう点では私は少数派なのかもしれない。



私は学者の中では、勉強量はそんなに多くなくて、ものを考える時間を取っている方だと思います。情報を仕入れることに熱心な方はいるけれど、私は、本はゆっくり読んで、頭の中につながりを作って、「知識」にすることがうれしいです。暗記が苦手で、そのまま暗記はできない。そのままを覚えないといけない学問もありますが、私はそれを自分で組み立て直して体に入れている。ただ、問題は誤字脱字が見つけられないこと。間違っていても読めてしまうから(笑)。時々思わぬ勘違いをしていて、こりゃいかんなと思うこともあります。また本を読むことももちろん大切だけど、それ以上に対象(私の場合は政治)に直接に接触して、それは何だろうと自分の中で組み立てるので、どちらかというとフィールドワークをしている動物学に近いところがあります。実験はなかなかできないけど、どうなっているのかを実際に見る点は、本だけを扱って研究している人とも違いがあるかもしれないです。

良い本を作るために文を練る


――本を書くことも読書人のコミュニティーに参加する手段となりますね。


飯尾潤氏: 私は、文章を書くのが好きで仕方がない人ではなくて、楽しみだけ考えたら、読むだけで書かないのが一番楽しい気もします(笑)。どちらかと言うと、私はしゃべるのが好きで、書くことは苦しい。しゃべるのはハンナ・アーレント風に言えばアクション(活動)で、消えてしまうものだけど、人との関係の中で成り立っている大切なことです。物を書くのはワーク(仕事)で、時間に縛られるレイバー(労働)にならないように、完成型を考えて書きたいですが、苦労もあります。編集者に励まされて、なんとか書いている。

――執筆はどのような形で行っていますか?


飯尾潤氏: 長いものはほとんどパソコンでワープロ・ソフトを使って書いてきました。1985年から使っているからかなり初期からです。未だに使っている一太郎は、最初はバージョン2だったのです(笑)。推敲しないと完成しないタイプですが、ワープロだと簡単に書き換えられるということに甘えて、ちょっと甘い文章を書いているな、と思うこともあります。前の世代で私みたいなタイプだったら赤字を入れて、紙が足りなくなって紙を張ったりしていなくてはならないでしょう。

――作りこむことで1冊の本になるのですね。


飯尾潤氏: 良い本というのはよく練られた本だと思っています。とにかくたくさんの本をお書きになる方もいますが、そういう本を読むと、1歩止まられた方がいいのではないかと思うこともあります。完成されたものが読み継がれるというのと、コミュニケーションのためにたくさん発信されているものは違うと考えるべきではないかと思います。ブログやTwitterと、本みたいに完成されたものとの距離が近くなると、そこで誤解が起こります。

完ぺきを求めず、今よりもちょっと良くする


――飯尾さんが本を書く時、内容について気をつけていることはありますか?


飯尾潤氏: ひとつモットーにしているのは、「すべて」ということは言わないこと。すべてがわかっているような顔をすると、世界を狭くしないといけなくなる。そうするとゆがむ。私はさっきお話したように大学で相対主義的な勉強をしたので、いわゆる世界が全部設計できるという考え方に対しての反感がある。世の中には未知なことにあふれているし、人間の努力ではどうにもならないこともある。政治も完全なものはないけれども、今よりちょっとよくするために、どうするかという考えです。政治は「可能性のアート」だといいますが、人間が暮らしていくということの、非常に重要なポイントだと思っている。今私が感じているのは、世の中の人たちが、完ぺきを求めすぎて、完成するために小さなことに集中して全体が見えなくなる。ズレが起こるのは当たり前です。みんながこうあらねばならんというのには、私は抵抗します。向き不向きがあるし、世の中にそれぞれの役割があるわけですから。

――大学での先生や仲間との出会いが今の研究につながっているのですね。


飯尾潤氏: そういう点では、いい教育を受けたと思っています。先生たちは専攻と関係ないことを、すごくたくさん教えてくれましたから。例えば先生たちの中に、私に読むべき本として、柳田國男をあげられた方がいた。柳田國男の『先祖の話』は、お葬式のことなどから始まる話ですけど、柳田國男の民俗学の知識は、日本人が、人と人がつながっていくのに、どういうことをしてきたかということを教えてくれました。また、仏教の古典を参考文献にしている人がいて、例えば日本のみんな死んだら仏様になるという考え方は、修行して覚るに至というもとの仏教とは大違いですよね。われわれの物の考え方が、甘いというか、緩やかというのか、おっとりしていることがわかってくる。私より若い世代になると、たとえばアメリカで流行している学説をまねるような勉強をすることが多かったけれど、私はたまたまそういう教育を受けました。それには意味があると思っています。

勉強は「手間がかかる」もの



飯尾潤氏: ちょっと感じていることは、社会のエリートは、やっぱりある程度共通の教養を持った方がよくて、ちょっと日本はそれが弱いということです。高等教育機関の、とりわけ教養学部のような教育のレベルが日本は弱い。西洋の学者と話していると、ちょっと変人と思われる人でも、どんな専門分野でも、シェークスピアぐらい読んでいるというような、ある共通の理解がある。日本人だったら、現代語訳でいいから源氏物語ぐらい読んでいるとか必要ですね。「日本の良さを見直す」とかいっている人も全然読んでいません。原文で読むのはものすごく難しいから、原文でとまでは言いません。政治学だと、プラトンの話や、トゥキディデスの話をする時に、一度でも読んでいれば、後になってほとんど忘れていても思い出すようなことがあります。日本のエリートというのは、受験秀才が多すぎて、教養の部分を切り捨てて、話の膨らみが少ない気がします。勉強は手間がかかるということが大切で、思考力というのは、そういうことと関係しているのではないかと思います。

――学問が複雑化、細分化するとますますそういった傾向が強まっていきますね。


飯尾潤氏: 理系でも社会科学をいくらか知っているとか、文系でもいくらか自然科学について知っているということがあるということが、専門の勉強する時も糧になると思います。私は大学で、博士論文の指導をしていますが、主として中央省庁の官僚たちが自分の専門のことを書くわけです。今日指導したのは、一人は植物検疫か何かの専門家ですが、虫の話なんかはもちろん向こうが専門家ですが、それを国際的にどのように管理しているかという話を聞いて、彼を指導すると、私も虫の種類についてわかる。これが世の中というもので、それはTPPなど政治の問題とも密接に関係して、それをどう考えるのかということとつながる。私は自分の論文ではほとんど数式は使わないけれど、基礎的な数式は意味がわかるぐらいではありたいと思っています。もちろん程度問題で、私も数式のたくさんある論文は読みたくないのですが(笑)、思っていても、逃げ出さないというのが大切です。

今回出した本も、個々の政策のつながり、例えば治安問題と教育問題はすごくつながりがあるということを書きました。ほかにも書きたかったことも多いけれど、編集者に「百科事典みたいになって、読んでもらえなくなる」と止められました。原稿もずいぶん削ったので、上面をなでただけだと言う人もいると思いますが、私はそれでもよいと思っていて、例えば、総理大臣が知っておくべきことはこういうことだと思っている。政策の細かいことより、大づかみのポイントが大切で、それは一般の有権者も、あの政策は良いとか悪いとか言う時にも使えます。政治は人任せではうまくいかない。みんなが小さなことだけを考えていると、結局全体としては回らない。自分の小さな利益をあきらめると、もっと大きなことが得られたりするということが多いので、そういうことを考えるきっかけになればと思っています。ある意味で、政策とか政治についての一般教養です。情報はたくさんあるけど、それを整理するやり方、補助線を加えるお手伝いをしたいと思っています。ただ、私も迷いの連続です。今回の本も、実は章ごとにうまく整理できているところと、わざとオープンにしているところがあります。

重要性増す「知識のキュレイター」


――電子媒体についてのお話もありましたが、電子書籍についてはどのようにお感じになっていますか?


飯尾潤氏: もちろん電子書籍も期待はしているところはあります。何と言ったって置き場所の問題がありますから。あとは、辞書機能が使えれば洋書なんか読むのも楽でしょう。自分の専門分野は辞書を引くことはないけれど、周辺分野だと、電子で補助的に辞書ツールが使えれば非常に便利だろうと思います。ただ、今はまだ電子書籍を持ち歩くということはしていないんです。それは私の世代が、やっぱり活字になれているからでしょう。

――電子メディアにより情報発信がしやすくなりましたが、一方で情報過多などとも言われていますね。


飯尾潤氏: 情報はすごく取りやすい世の中になりました。だから、記憶しないといけないという強迫観念はなくなった。でも整理の仕方がないと、知識だって応用はできない。私はその整理をする方の仕事をしたいと思っています。たとえば、官僚たちが「頭をすっきりさせたいのですが」と相談に来ることが多いんで、そういうお役に立てればとは思います(笑)。

――そのような中、本の世界に必要なこと、求めることはどういったことでしょうか?


飯尾潤氏: 冊子でとじて、活字で印刷されて、多く流通しているものに本というものが限定されていましたが、さまざまなメディアが出てくると、従来の形に制約されない。そうなった時に、それが品質の高い著作なのか、情報を得るために出ては消えるものなのかをどのようにマーキングするかが大切です。本というのは、編集作業がすごく大切ですが、その手間をかけているものとそうでないものの区別ができないと、読者は何を読んでいいのかわからない。情報があふれてメディアがクロスオーバーする時代では、セレクションをするキュレイターが非常に重要で、それがまだ十分ではないのではないのかなという気がしています。

アメリカの学術書は本を出すかどうかレフェリー制になっていて、厳しく審査をされます。エディターがレフェリーに出して、意見を戻して本にすると何年もかかる。ひとつ笑い話があって、一昨年「アラブの春」が起こりましたが、アメリカの学術書では去年あたりに「アラブの政治体制は絶対に変更しない」って言う本が何冊も出たそうです。原稿ができてから本を出すのに2年も3年もかかるから、タイムマシンみたいになっている(笑)。学問にはそういうところもあって、それはそれでいい。逆に日本では手間のかかる学術書が今どんどん出しにくくなっています。ひとつは本が多すぎるからですが、本が多いことを問題にしてもしょうがない。出版社は本を出すのをやめられないですから。それよりも、普通の人が手に取るもので、ある程度の品質のものはこれで、もっと読みやすいものは、そんなに手間はかけていないけれどもこういうものがあります、というように住み分けができていない。学術書がベストセラー狙いの本と競争してはダメです。安くてたくさん読ませる本だけではないことを自覚的にやることを考えた方がいい。それが、書くよりはどちらかというと読者であることの多い私の希望です。

(聞き手:沖中幸太郎)

著書一覧『 飯尾潤

この著者のタグ: 『大学教授』 『政治』 『知識』 『情報』 『つながる』

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