マルクスで体験した「世界を知る」感覚
――就学前からそういった体験をしていたことで、学校に入ってからも何らかの影響がありましたか?
高橋敏夫氏: 小学生になると、色々と学校で教わるんですが、全く記憶がないんです。たぶん、小学校に上がる前に、自分の内面的な世界みたいなものが、チェーホフというすばらしい作家によってできてしまったので、小学校の教科書がほとんど入って来なかったんだと思います。
つよく記憶に残っているのは、中学に入って1年生のころに読んだ漱石で、これが2番目の体験です。僕は読む時はたいてい全部読んでしまうので、家にあった漱石全集を中学1年の時に一夏かけて全部読んでしまいました。小説とエッセイですが。毎日、暑いのに正座をして、部活の前に2時間ぐらい読むんです。『吾輩は猫である』などは楽しんで読んでいたのが、だんだん世界は緊迫してきて、人が苦しみぬくような小説になって、自殺の話も出てくる。汗をたらたら垂らしながら、気が付いたら正座をしていました。今にいたるまで、正座をして物を読んだのはその時だけです。漱石はその一夏で卒業しました。
――その後、意識して読まれたのはどういった本でしたか?
高橋敏夫氏: 中学3年生の時に、マルクスに出会うんです。『共産党宣言』の文庫本を読んで、最初の1行で、「すべてこれまでの社会の歴史は階級闘争の歴史である」と書いてあって、それまで薄々気づいていながらも何かはっきりしなかった世界が、とつぜんはっきりとしてきたのです。もちろん階級闘争の意味なんてよくは分からないんですが、対立と闘争の構図が初めて見えて、これまでの見たこと聞いたこと感じたことがすべて「分かった!」となった。どうしてぼろをまとう人がいて、立派な車をまるで傍若無人に飛ばす人がいるのか……。自分が子どものころから考えてきたことが、全部その1行に入ってしまう感覚があった。チェーホフや、漱石を読んだだけでも分からないことを、はっきり分からせてくれた。「この1冊」と言われたら、いつも笑われるんですけど、昔も今も『共産党宣言』なんです。
そして、高校時代は政治にあけくれました。マルクス、レーニン、ヘーゲルなどの代表作を読破して、政治活動をしました。といっても1970年代初めのごく平均的な学生でしたが。
政治活動の挫折から、日常の中に政治を見い出す方へ
――早稲田の第一文学部に入学されましたが、専攻は何だったのですか?
高橋敏夫氏: チェーホフを読もうと思ったので、ロシア文学を専攻しました。政治が全部壊れてしまって、人並みに挫折をしまして、自分の原点とはなんだろうと考えて、チェーホフだと。チェーホフは、劇作家の中で初めて、劇の中に日常を持ち込んだと言われている。例えばシェイクスピアの作品には色々な人が出てくるけど、物を食べたりする場面などは出てこないのですが、チェーホフは、人が食事をする場面を持ち込んだ。劇の中に日常が流れ込んだんです。
政治が挫折して、ただ日常に戻るのではなくて、政治的な活動の中で、自分が着視していなかった日常を、もう一度自分なりに組み替えて、政治をどうやってこの日常の中で生かしていけるのかなという風に思って、チェーホフやゴーリキー、トルストイあるいはドフトエフスキーなどの翻訳をして過ごそうと思っていました。
ところが大学がずっとバリケードで封鎖されていた時代で、まともに授業に出たのが学部5年間5回しかなく、ほとんど家にいたり、新宿で友人と飲んでいたりしていました。今、大学生に教えていて、いつも「授業なんか出てくるな、僕は5回しか出ていないんだから」と言っていて、そういう話が珍しいから逆に授業に人が来ています。困ってしまう。
――学生時代から、評論活動を始められていますね。
高橋敏夫氏: 評論的な言葉、世界をギュッとつかんでしまう、それこそ「すべてこれまでの社会の歴史は階級闘争の歴史である」であるというような、アイデアであると同時にキャッチフレーズのような、短い言葉でうまくまとめたものを自分で書きたいと思いました。そうすると小説を書いたりするのは、まだるっこしい。短い言葉を考え始めたら、1日中、その一行を書きつらねてしまう。何百もね。
当時、糸井重里さんなど政治から挫折した人が、世界をどう詞で捉えるかということでコピーライターになって出てきていた。だから僕の人知れぬ試みも決して孤立していたわけではなくて、政治の大きな道が見えなくなって、誰もが自分なりに世界を捉える言葉というものを見い出したい、書きたいと思っていたんです。自分なりに切り開かないと、目の前のちょっとした道も見えない。そんなところから滑り出したんじゃないかなという気がしています。自分のためにアイデアを出すと、ちょっと生きていける。家にいる時は、部屋に黒いカーテンをかけて、昼でも真っ暗な部屋でひたすら物を書いた。それで別のものが見えなくなったのかもしれないんですが、その当時はそれしかないと思っていました。