新しい時代に向け、過去を学ぶ
――メディアについても、時代の変化を見ることが重要になるのですね。
高橋敏夫氏: 過渡期というのは、たくさんの勉強が必要です。「ミネルヴァのフクロウは夕方に飛び立つ」と言いますが、メディアも政治も世界も、時代が終わって、次の時代が始まっていく中で、まっさらにならなきゃいけない。ところが、まっさらになるためには、忘れてしまえばいいのではなく、これまでの知識を自分のものにしなくてはならない。過去を知らないと、「いらない」ということも分からないので、空白にはなれないわけです。ですから、過渡期はこれまでのあらゆるものを見る力と、それを押しのけてまっさらになって次を書き付ける力が、両方とも必要です。
我々は、普通の時代の100倍ぐらい大変な時代を生きていると思います。そういう意味では、ブックスキャンの試みは大変素晴らしいと思います。本は、過渡期を生きている人たちの記録ですから、若い人たちも含めて、自分なりの体験を持ち寄るような形で充実させていけば、何が問題であるかということも分かってくるのだと思います。色々意見はあるでしょうが、批判も肯定もあって、だんだん発展していく。批判的なものも全部入れるようなシステムを作っていくことが大事だと思います。
――最後に、今後の展望をお聞かせください。
高橋敏夫氏: 最近10年くらい、時代小説や歴史小説について集中的に考えています。3.11以降、日本の社会は一変して、従来のものの捉え方がいかに落とし穴が多いのかということが分かってきたことで、色々な人の試みが出てきている。その中で僕は、ひらがなの「なかま」という言葉が、大事なタームになってきたなと思っています。この8月に出す評論集のタイトルは『時代小説は行く! 「なかま」の再発見』なんです。
日本の近代文学というのは、孤独な知識人を主人公にしてきた。日本近代小説の始まりと言える、二葉亭四迷の『浮雲』の主人公内海文三という人物は、小役人で、うまく立ち回れず辞めてしまい、次第に病み始める。これが日本の近代文学の出発なんです。何があっても1人で生きて、余計な仲間は拒絶する。それが純文学の、現代の村上春樹に至るまでの主たる傾向です。
でも、あたりまえですが、人は1人では生きていないし、生きられない。その点で、エンターティンメント、大衆文学、時代小説などの世界は、例えば捕物帖でも必ず「なかま」がいるし、孤独が好きなシャーロック・ホームズだって、1人は友人がいる(笑)。僕は最近、大衆文学、エンターティンメントは「1人で生きられない者たちの文学」と位置づけるようになってきました。自分たちの持てるものを持ち寄って、「なかま」が集まる。ダメなことを維持するための「悪しき集団」ではなくて、社会をなんとかしたいと思う「なかま」が、優れたエンターティンメントには、たくさんいる。それを存分に掘り起こせた時、たぶん今までの文学に対する見方も、大きく変わるんじゃないか、と考えています。
(聞き手:沖中幸太郎)
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