「これからは、英語、パソコン、バイオ」
――山崎さんの幼少時代についてお聞かせください。
山崎亮氏: 愛知県で、4年に1回転勤する親のもとに生まれました。2歳まで東海市にいて、そこから大阪の枚方、次に西宮に行って、名古屋市、長久手市、というように、4年に1回、新しいコミュニティの中に入り込んでいかなければいけないわけです。幼稚園が2つ、小学校2つ、中学校2つで、高校で初めて入学と卒業を同じ学校で体験することができました。「これからは英語とパソコンとバイオがすごく大事になってくる」と小さい頃に、よく小学校の先生と母親から言われたことを、覚えています。
――将来就きたい職業はありましたか?
山崎亮氏: 高校の時、最初は医学部に行こうかと思っていました。僕はずっとアレルギー性鼻炎で、勉強していても下を向いたらポタポタ鼻水が落ちて、全然集中できない状態でした。耳鼻科を回っても、アレルゲンが食べ物なのかホコリなのか分からない。治すことができないなら自分で治そうということで、高校3年になったら、医学部進学コースに入ろうかなと思っていました。そうしたら高校2年生でピタッと鼻炎が治って、医学部を目指すのをやめてしまいました(笑)。
――大学は、農学部に進まれましたが、なぜ農学部を選ばれたんでしょうか?
山崎亮氏: 医学部の受験をやめてどの学部を受験しようかと考えた時、「英語とパソコンとバイオ」という言葉を思い出しました。英語もパソコンもあまり好きではなく、選択肢で残ったのはバイオだけだったので、農学部を受験しました。いろいろな学科はありますが、工学部と農学部が両方入った感じがいいんじゃないかと思い農業工学に入ったのですが、バイオコースは、農業工学ではなく農業化学の方にあったのです。じゃあ何を勉強しようかと悩んでいたところ、植物を使ってデザインする「緑地計画」という研究室があったので、これは面白そうだなと思って決めました。でも、やる気があまりなかったのかモデルの仕事ばかりしていました。
こだわったら、とことんやる
――モデルの仕事を始められたきっかけはどういったことでしたか?
山崎亮氏: たまたま誘われて、自分の都合のいい時にできて、1日仕事をしたら2万円もらえるといったように、普通のバイトより割りが良かったので、単なるバイトとして始めました。当時でも、有名になりかけている人たちは多分それ以上の金額だったと思いますが、最初誘われた時に、ファッションは好きだったので1回のぞいてみるのもいいかな、かわいい女の子がいるかなぐらいに思ってやってみたら、帰りに渡された封筒に2万円入っていました。それからは、誘われたらいつでも行くようになりました(笑)。
――今も大変おしゃれですが、ファッションにはずっと興味がおありでしたか?
山崎亮氏: 高校生ぐらいに興味が出てきました。僕らの時は、アメカジや古着などが流行って、リーバイスの501xxを一生懸命探したりもしました。今、大学の学科長をやっていますが、この大学にはファッションコースがあるから、大学にはファッションの雑誌がたくさんあるので、見たいなと思ったりもします。高校生の時にブレイクダンスが流行って「ダンス甲子園」もテレビでしていました。もともと、70年代のファンクが好きだったのですが、ヒップホップという音楽があるというのを知り、実際に聞いてみたら、自分が知っている曲がものすごくカッコよくアレンジされている。ヒップホップというのはラップだけではなく、グラフィティやブレイクダンスなど、全部を総称するものだということを聞いて、1から踊りの練習をしていました。一生懸命クラブに通って、うまい人から教えてもらったりなどして、オンエアには乗っていないのですが、ダンス甲子園の名古屋予選などに出たこともあります。
――学問だけではなく、音楽やファッションと、興味が非常に広いですね。
山崎亮氏: こだわったら、とことんやりたくなるんです。複数のことを同時にやっていると、こっちで調べていたものが、こっちに役立ったというように、ブリッジしてくるものがあります。執筆、講演、授業、音楽と、同時にやっていると全然関係ないところで感じたことが参考になります。シナジーのような関係性が生まれるので、同時にいくつかのプロジェクトを前へ進めていくのは良いことかなという気がしています。
著書一覧『 山崎亮 』