言わずにはらいれない、聞かずにはいられない、知らずにはいられない
――傍観者の贖罪とは?
本橋信宏氏: 私には見ているだけの贖罪という気持ちが常にあります。安全地帯にいる自分に居心地の悪さを感じる。自分もリスクを背負おう、飛び込んで行くということもあります。言わずにはいられない、聞かずにはいられない、知らずにはいられない。でも、実際に飛び込んでみたら監禁されたり、脅されたりしたこともあります(笑)。大昔、歌舞伎町のノーパン喫茶の飛び込み取材で、金を無心に来たのだと勘違いされて、監禁されて帰れなくなってしまったこともありましたが、話をしたらなんとか分かってくれてとても協力的になってくれた(笑)。
――怖くはありませんでしたか?
本橋信宏氏: 仕事なので、そんなことばかり言っていられない。取材の過程で何度も裏の世界の住人から脅されもしました。が。ずっと人と会って取材してきて危険か危険じゃないかということや、その人の持っているバックボーンに関しては敏感に察知できるようになりました。だからいまもこうしてやっていられる。人間力が養われました。だからカップルを見ていて「この2人は別れるな」と思っていたら、案の定別れたりします(笑)。
傍観者の贖罪という気持ちからのインタビューは命がけ
――仕事、取材を通していろいろなものを見られるようになったということですね。
本橋信宏氏: そうですね。傍観者の贖罪の極めつけが1985年春に出した『全学連研究』だったかもしれません。私が大学時代に入っていたゼミは、戦前のベルリンオリンピックのサッカー日本代表選手だった堀江忠男先生で、戦後はマルクス経済学の根本的再検討をして経済と政治で論評したりしていました。
――『全学連研究』は反体制運動評論家として注目を集めた作品ですね。
本橋信宏氏: 最初は日本におけるマル経の講座派、労農派の2つの現状分析とか、現在に通じるものは何かということを書こうとしたのですが、少し形を変えてマルクス主義を信奉してる潮流として全学連の本を書こうと思って、完成したのが『全学連研究』でした。革マルと中核の委員長にインタビューを申し込んだところ、中核派の全学連委員長だけが奇跡的にインタビューを受けてくれました。70年代から中核と革マルによる内ゲバが続き、100名近い活動家が殺し殺されていた時代です。革共同両派への提言としてもそれまでに2回ほど両派へ向けて埴谷雄高や吉本隆明といった知識人たちが内ゲバ停止を提言してきたのですが、拒否されたり、提言した知識人が強い自己批判を求められたりして、誰も休戦の調停をしなくなっていました。私には傍観者の贖罪という気持ちもあり、中核派のインタビューの時に、「内ゲバを停止しせめて言論戦で代行しては」と提言しました。中核派のアジト前進社で、この発言をすることのリスクは覚悟していたつもりでした。当時、中核派は武装闘争をやれる地下組織「革命軍」を結成して、盛んにテロやゲリラをやっていました。私の説得は結局一蹴されましたが、最高幹部が革命軍について言及したのはこのインタビューの時が初めてでした。その後に、国鉄分割民営化阻止の同時多発テロを中核派が起こしました。大手のテレビ、新聞、雑誌は、中核派に取材を申し込んだのですが、革命軍に関することは一切語られず、結果的に、この本に書いてある委員長の革命軍に対する発言が、唯一にして最大、最新の言及となり、スクープとになりました。
仕事ならば別人のようになれる
――その頃は取材に対する自信などが芽生えてきましたか?
本橋信宏氏: この時期に、「借金を返さなければ腎臓を売る」という杉山会長のところに転がり込んでインタビューをしたり、同行取材をさせてもらい、臓器売買の現場に密着したりしました。この時から本橋は「アウトローに強い男」というイメージが付いた気がします。
――かなり危険な体験をお持ちですが、それでも本橋さんをつき動かす、原動力とはなんでしょうか?
本橋信宏氏: カメラマンでも、戦場で戦火に遭遇したら撮るでしょう? 私はジェットコースターにも乗れないくらい人一倍臆病な男ですが、仕事だったら逆立ちして乗るくらいの覚悟はある(笑)。特に、同じ日本人の若者が殺し合っている状態であれば、見て見ぬフリするのではなく、一言言っておきたかった。
傍観者の贖罪。罪を償う気持ち。あとは怖いもの見たさ。だから学生運動や、日共の武装闘争時代、未解決の殺人事件などに惹かれます。