本橋信宏

Profile

1956年生まれ、埼玉県所沢市出身。 早稲田大学政治経済学部卒業。 写真雑誌『スクランブル』元編集長。 “バブル焼け跡派”として、幅広くニッポンの世相を見つめる異色の書き手。執筆分野はノンフィクション・小説・エッセイ・評論など。 雑誌メディアを中心に政治思想からサブカルチャーまで多方面にわたる文筆活動を展開している。著書に『裏本時代』『AV時代』(幻冬舎アウトロー文庫)、『ドクター苫米地が真犯人を追う!』(苫米地英人博士との共著)『やってみたら、こうだった』『戦後重大事件プロファイリング』(宝島社)、『新・AV時代』(文藝春秋)等多数。

Book Information

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記録されない人物、事象を活字で残していきたい



本橋信宏さんは埼玉県出身。早稲田大学政治経済学部を卒業後、24歳でフリーライターとして文筆活動を開始。1985年には「『全学連』研究-革命闘争史と今後の挑戦」を刊行し、反体制運動評論家として注目を集めると同時に、アンダーグラウンド文化に関する文筆活動、『週刊現代』での人物ルポルタージュなど、政治思想からサブカルチャーまで多方面にわたる執筆活動を展開。著書には『裏本時代』などのノンフィクション小説や、短編小説集『フルーツの夜』などがあります。また著書の1つである『心を開かせる技術』では、様々な分野の著名人から、インタビューで言葉を引き出してきた感覚的技術を書かれています。人間の裏面を鋭く描く本橋さんの、仕事、本に対する思いをお伺いしました。

活動の原動力はこの摩訶不思議な人間に対する関心


――本橋さんは様々な分野で活躍なさっていますが、ご自身の活動についてのお考えをお聞かせ下さい。


本橋信宏氏: コラム、ノンフィクション、短編小説集、インタビューも書いています。何を書くにしても、私小説のように、全部自分に繋がってくる感覚があります。人との出会いが面白い。私の活動の原動力は人間に対する関心ではないでしょうか。

――普段の執筆スタイルはどのような感じでしょうか?


本橋信宏氏: ネットを見たりはしますが、書く前の導入の儀式のようなものは特にありません。取材や、いろいろな執筆の発想などは、メモと携帯を活用して、パソコンのアドレス宛にメールを送ります。
私はテープ起こしも自分でしますし、文字を打つのは速いのですが、本を書くことに関しては、今は昔と比べると遅くなったと思います。30分書くと、バロメーターが下がってしまって、また上がるまで30分待つことになる(笑)。書き方も変わってきたように思います。20代の頃は凝った文章を書いていて、逆にそれが青臭くていい感じもしましたが、今はシンプルな文章です。80年代型サブカルチャー的な文章が広がっていた時期には、例えば「白い外国車」ではなく「BMW320のコンバーチブル」といった表現をして、泉麻人さんや田中康夫さんなどのように具体的に書くことを意識して、文章に喚起させようと思っていました。でも、今は読者のイメージ、想像力をある程度喚起するための書き方でいいと思っています。

――書いている時は、読者をイメージして姿を捉えている感じでしょうか?


本橋信宏氏: そういう感じではありません。大沢在昌さんが、『新宿鮫』を書こうとしたとき居直って「自分が面白ければいい、好き勝手に書いてみよう」と思ったように自分が面白ければいい、結局はそれに尽きるのではないでしょうか。最高の愛読者は自分でいい。

本の匂いは記憶を呼び起こす


――執筆活動も多方面にわたっていますが、お持ちの本のジャンルはどのような分野が多いでしょうか?


本橋信宏氏: フィクションもあればノンフィクション、漫画、小説もあれば古本もあるという風に、バラバラです。本を読んだり、パソコンでネットサーフィンをしたり、携帯でメールをしたりして、それぞれを繋げて化学反応を起こすんです。テーマ、ネタはたくさん転がっているので、化学反応を起こすと、いろいろなもの出てくるから面白いです。(積んである古書の中から取りだして)この『少年サンデー』は中野のまんだらけや、神保町の中野書店などで見つけたもので、私が小学1年生のころ読んだのです。3000円から5000円します。

――古書、古本となるとおおよそそれくらいの値段なんですか?


本橋信宏氏: 大体は高値安定ですが、特に横山光輝と手塚治虫と藤子不二雄のレアな作品、代表的な作品が載ってると高くなります。私がリアルタイムで読んでいた横山さんの『伊賀の影丸』の最高傑作である『七つの影法師』のカラー扉。それに敵味方忍者のトーナメント表、こういう単行本未収録のページがあると高くなります。当時の少年たちは、倒された忍者に×印がつく、この過酷な対戦表に心を奪われたものです。

――当時読んでいた雑誌を手に取ると、昔の空気を、もう1回呼び起こされるような感じですか?


本橋信宏氏: そうですね。電子書籍はすごく良いのですが、紙の本にはまだ敵わないと思う部分があります。私は、匂いフェチで、匂いによってその時の記憶が呼び戻されたりもします。50年前と同じインクと紙の匂い、当時の紙質とその製本を見て、記憶が蘇ってきますが、これは電子書籍にはありません。グラビア紙はグラビア紙のカラーインクの匂い、『月刊プレイボーイ』は都会的な匂い。週刊誌は昔の田舎の藁葺き屋根のような匂いがするなど、それぞれの本の匂いがあるんです。本は、記憶も一緒に閉じ込めているという感じがします。小学校1年生の3学期の頃、『七つの影法師』の中では雪の描写がありましたが、ちょうどその時1964年1月ごろ関東地方も大雪が降っていて、雪がやんだ後、道の雪が溶けるという光景も同じように描かれていました。「本橋は昔のことよく憶えてるな」と言われますが、憶えているのではなくて、その時の匂いや読んだものなどで、逆回しのようにずっとフィードバックしていくと結構思い出すんです。

小学生の頃から文を書くことが夢だった



――幼少期の読書体験も絡めてお話をお伺い出来ればと思います。どのようなお子さんでしたか?


本橋信宏氏: 本とテレビが好きな、おとなしい少年でした。将来については、何か文章を書いて暮らせていけたらいいなと、小学校の卒業文集に書いていました。高校3年の時には、芥川龍之介や江戸川乱歩、松本清張のように書きたいなと、漠然と思っていましたが、その年の秋に、当時ルポライターだった立花隆さんが文藝春秋で、『田中角栄研究 その金脈と人脈』を発表し、その後に田中内閣が傾きました。それでルポライターに興味を持つようになりました。あの頃は平岡正明さん、立花隆さん、竹中労さんなどが有名で、私も同じように文字を書くことを仕事に出来ないかと思うようになりました。

――周りに本はたくさんあるような環境だったのですか?


本橋信宏氏: 松本清張、江戸川乱歩や、夏目漱石など、あと『サンデー』、『マガジン』、『少年』など、たくさんあった記憶がありますが、印象に残っているのは、講談社版『江戸川乱歩全集』とカッパノベルズ版の松本清張ものですね。大学時代には政治経済に関しての本も読んでいたと思います。

――大学卒業してすぐフリーとしてお仕事を始めたのですか?


本橋信宏氏: 大学を卒業して1年半の時です。私が大学2年の時に、テリー伊藤さんが初めて自分で番組ディレクターをするようになり、その仕事を私も手伝う機会もあり、伊藤さんにはずいぶん可愛がってもらいました。卒業後はフリーランスの物書きになろうとしたんですが、入り口がどこにあるのかわからず、とりあえず就職しようとテレビ局を受けたんですが、落ちてしまい、伊藤さんのいた当時のIVSテレビ制作(株)に入れていただくことになりました。でも、仕事が大変ですぐに飛び出してしまう、大学を出て1年半後の24歳の時にフリーランスの物書きになりました。その当時のことは、『裏本時代』に書いています。『裏本時代』は、自伝的、私的ノンフィクションです。ただし、1人称1視点描写なので、1カ所だけ私がいないと書けないシーンについて私がいた描写になっています。ノンフィクションと言い切るには厳密に言えばその1箇所だけルール違反の部分がありますが、事実であることは確かです。ですから広い意味ではあれは私小説だと思っています。

内気だった男がインタビュアーとして走り続ける


――フリーになったその時のお気持ちは?


本橋信宏氏: 「いつかはフリーになる」ということはもう決心していましたので、その時期が早くきたなという気持ちでした。ただ、80年代型のサブカルチャー的なライターの成り上がり方、やり方も、まだ確立されていない時代だったので足踏みしていたところ、双葉社の『週刊大衆』の副編集長に「フリーでやらないか」と声をかけてもらいました。政治経済も扱うので、当時の双葉社、『週刊大衆』にはインテリなかっこいい編集者がたくさんいて、吉原に行って取材などをしている様子を見てすごいな、面白いなと思いました。頭でっかちの若造が、そこで実社会を叩き込まれたという感じでした。それまでは内気だったんです。

――たくさんの方にインタビューをされていらっしゃるので、内気というのはすごく意外です。


本橋信宏氏: 役者の人は、無口で内気な人が多いので一番インタビューが難しいということに、私もインタビュアーになって初めて気が付きました。でも、そのコンプレックスの反動で役者になって成功する人もいます。それと同じように、普段はシャイで引っ込み思案ですが、仕事になると背中を押されなんでも聞けるという時もあります。

――インタビューされる時に、言葉を引き出す技術というものがありますか?


本橋信宏氏: 私は『心を開かせる技術』の中で、優秀な営業マンというのは、実は意外と朴訥な人が多いということを書いたことがあります。あんまり能弁だと相手が身構えてしまい、かえって朴訥な人の方が誠実さを感じられたりする。私自身も後者のほうだと思ったりしています(笑)。例えば「人と会って話せない」などというコンプレックスがあっても、私を突き動かしてきたのは「仕事になると変わる自分」が楽しかったり、怖いもの見たさもあるし、あるいは傍観者の贖罪という部分もあります。

言わずにはらいれない、聞かずにはいられない、知らずにはいられない


――傍観者の贖罪とは?


本橋信宏氏: 私には見ているだけの贖罪という気持ちが常にあります。安全地帯にいる自分に居心地の悪さを感じる。自分もリスクを背負おう、飛び込んで行くということもあります。言わずにはいられない、聞かずにはいられない、知らずにはいられない。でも、実際に飛び込んでみたら監禁されたり、脅されたりしたこともあります(笑)。大昔、歌舞伎町のノーパン喫茶の飛び込み取材で、金を無心に来たのだと勘違いされて、監禁されて帰れなくなってしまったこともありましたが、話をしたらなんとか分かってくれてとても協力的になってくれた(笑)。

――怖くはありませんでしたか?


本橋信宏氏: 仕事なので、そんなことばかり言っていられない。取材の過程で何度も裏の世界の住人から脅されもしました。が。ずっと人と会って取材してきて危険か危険じゃないかということや、その人の持っているバックボーンに関しては敏感に察知できるようになりました。だからいまもこうしてやっていられる。人間力が養われました。だからカップルを見ていて「この2人は別れるな」と思っていたら、案の定別れたりします(笑)。

傍観者の贖罪という気持ちからのインタビューは命がけ


――仕事、取材を通していろいろなものを見られるようになったということですね。


本橋信宏氏: そうですね。傍観者の贖罪の極めつけが1985年春に出した『全学連研究』だったかもしれません。私が大学時代に入っていたゼミは、戦前のベルリンオリンピックのサッカー日本代表選手だった堀江忠男先生で、戦後はマルクス経済学の根本的再検討をして経済と政治で論評したりしていました。

――『全学連研究』は反体制運動評論家として注目を集めた作品ですね。


本橋信宏氏: 最初は日本におけるマル経の講座派、労農派の2つの現状分析とか、現在に通じるものは何かということを書こうとしたのですが、少し形を変えてマルクス主義を信奉してる潮流として全学連の本を書こうと思って、完成したのが『全学連研究』でした。革マルと中核の委員長にインタビューを申し込んだところ、中核派の全学連委員長だけが奇跡的にインタビューを受けてくれました。70年代から中核と革マルによる内ゲバが続き、100名近い活動家が殺し殺されていた時代です。革共同両派への提言としてもそれまでに2回ほど両派へ向けて埴谷雄高や吉本隆明といった知識人たちが内ゲバ停止を提言してきたのですが、拒否されたり、提言した知識人が強い自己批判を求められたりして、誰も休戦の調停をしなくなっていました。私には傍観者の贖罪という気持ちもあり、中核派のインタビューの時に、「内ゲバを停止しせめて言論戦で代行しては」と提言しました。中核派のアジト前進社で、この発言をすることのリスクは覚悟していたつもりでした。当時、中核派は武装闘争をやれる地下組織「革命軍」を結成して、盛んにテロやゲリラをやっていました。私の説得は結局一蹴されましたが、最高幹部が革命軍について言及したのはこのインタビューの時が初めてでした。その後に、国鉄分割民営化阻止の同時多発テロを中核派が起こしました。大手のテレビ、新聞、雑誌は、中核派に取材を申し込んだのですが、革命軍に関することは一切語られず、結果的に、この本に書いてある委員長の革命軍に対する発言が、唯一にして最大、最新の言及となり、スクープとになりました。

仕事ならば別人のようになれる


――その頃は取材に対する自信などが芽生えてきましたか?


本橋信宏氏: この時期に、「借金を返さなければ腎臓を売る」という杉山会長のところに転がり込んでインタビューをしたり、同行取材をさせてもらい、臓器売買の現場に密着したりしました。この時から本橋は「アウトローに強い男」というイメージが付いた気がします。

――かなり危険な体験をお持ちですが、それでも本橋さんをつき動かす、原動力とはなんでしょうか?


本橋信宏氏: カメラマンでも、戦場で戦火に遭遇したら撮るでしょう? 私はジェットコースターにも乗れないくらい人一倍臆病な男ですが、仕事だったら逆立ちして乗るくらいの覚悟はある(笑)。特に、同じ日本人の若者が殺し合っている状態であれば、見て見ぬフリするのではなく、一言言っておきたかった。
傍観者の贖罪。罪を償う気持ち。あとは怖いもの見たさ。だから学生運動や、日共の武装闘争時代、未解決の殺人事件などに惹かれます。

運の良し悪しは、人との出会いで決まる


――編集長になられたのは卒業して結構すぐでしたよね?


本橋信宏氏: 『スクランブル』の編集長になりました。『裏本時代』にも書きましたが、極真空手のスキャンダルを取材していた時に、先に来ていたジャーナリストと仲良くなったんです。その人が、「これからは原稿なんて書いてらんない!って、ノーカットの裏本を制作して出したら売れたんです。ところが「刷り過ぎて余ってしまった」(笑)という話をしてくれたんです。そこで流通を探していたら、「会長」と呼ばれる“裏本の帝王”と出くわす。その会長が日本の裏本の流通の6割を制していたとんでもない男なわけですが、その人が後の村西とおるです。「ナイスですね」で有名な、AVの帝王です。彼を紹介されたら、余っていた裏本が一瞬にしてさばけてしまった。アンダーグランドの世界は昔も今も独自のルートが確立しています。
その会長がまっとうな出版社を作ることになり、当時200万部出ていた「フォーカス」のような雑誌をやらないかと話を持ちかけられ、誰もやらないから、私が編集長をすることになりました(笑)。才能というよりは、会長との、人間関係とでも言いましょうか。会長から信頼されて「お前がやれよ」と言われたのが26歳の時でした。



――人との繋がりをすごく感じます。


本橋信宏氏: 運がいい悪いは、人との出会いで決まると私は思っています。たくさんの本がいろいろな化学反応起こして、1つのプランが生まれるのと同じように、人間同士の出会いによって、自分の人間という成分も化学反応を起こす。例えば、ある男がある女と離婚しても、違う女と結婚したら上手く行くということは、男の成分は同じでも、相手という触媒が変わることによって男の化学反応が違ってくる。そういう意味でも出会いが面白いんじゃないでしょうか。

冷徹なフィルターを通さないと予想外のトラブルが発生する


――電子書籍の話もお聞きしたいと思います。


本橋信宏氏: 私は電子でも紙でも読んでもらえればどちらでもいいです。私も何冊か電子書籍化しているのがありますが、先ほども言ったように、情緒的な面が紙の本にはあるから、紙の本はこれから減っていっても、なくなりはしないと思います。映画とテレビのように、共存、住み分けをしていくでしょう。でも紙の本は減ることは確かでしょう。今の週刊誌を購入する世代は、大体50代以上で、エロ本などは30歳以下はほとんど買ったことはない。今は携帯の動画で満足するので、昭和では当たり前だった「エロ本の隠し場所」という話も成立しにくくなった。

――これからの編集者の役割についてはどう思われますか?


本橋信宏氏: 紙の本とネットの大きなもう1つの違いは、編集者の有無です。電子書籍やネットが広がると編集者がいらなくなると言われてきましたが、むしろ優秀な編集者がますます必要になってくると私は思っています。私たちが本を書いて出す時には、編集者の冷徹なフィルターを通さないと出版されません。編集者は基本的には優秀で、そのフィルターを通って初めて書店に並ぶわけです。だから、紙の本は過激なことが書いてあってもトラブルは起こりにくい。でもブログやTwitterは、そういう編集者のフィルターを通さないから、Twitter炎上が原因で東北の県議が自殺した事件なども起こる。第3者の厳格なフィルターは本当に重要な役割があり、これからますます編集者の存在が重要になるでしょう。

――電子書籍の可能性についてはどうお考えでしょうか?


本橋信宏氏: 電子書籍は絶版の本も読める点は、とてもいいと思います。電気書籍に足りないものは、やはり情緒性と所有感ではないでしょうか。ネットサーフィンが出来るという点はありますが、化学反応を起こす、地層を掘り起こす楽しみというのもあまりない。情緒性で言えば、電子書籍も音楽が奏でられるなど、伊集院静さんが『なぎさホテル』で音楽を収録するのを試みていますが、例えば武蔵野の雑木林を散策する本では野鳥の鳥のさえずりが聞こえるような方法など、電子書籍の特性を活かす方法もあると思います。

――本橋さんにとっての編集者の理想像とはどのようなものでしょうか?


本橋信宏氏: 触媒として化学反応起こしてくれそうな人です。書き手の気付いていないところ、良さを、上手く化学反応起こして引き出してくれる人。自分が温めていた企画よりも、第三者の編集者の企画の方が、意外と良い作品になったりするんです。例えば柴田錬三郎さんの『眠狂四郎』も本人はあまり書きたくなかったようですが、新潮社の斎藤十一さんという伝説の編集者が書かせたわけですから。

自分が関心があるもの、好きなことを追求する


――本橋さんの理念とはどのようなものでしょうか?


本橋信宏氏: 例えば芥川龍之介や、裏世界などのアンタッチャブルな世界など、自分が関心があるもの、好きなことを追求することです。ライターデビュー当時の関心は女子大生で、その後『ビデオ・ザ・ワールド』で、22年くらいAV女優インタビューしてきました。インタビューの対象としては、今はなぜか人妻が多く、人妻の本も書きました。今、ブログやFacebookなどをやってると読者との距離が近くなり、感想などをメールで送ってくれるのですが、その中に、人妻から「相談に乗って下さい」というメールもあるんです。私のインタビューの特徴の1つはとことん聞くことなので、耳に人生相談ダコが出来るくらい(笑)相談に乗ります。

――インタビューの対象としては、女性が多かったですか?


本橋信宏氏: 全学連研究など、いろいろなアンダーグラウンドの話や怖い世界も入ってきたけど、半分くらいは女性でしょうか。女子大生、風俗嬢、AV女優、人妻などについて書いたり、「女で食わしてもらっている」という感じもします。

――今、本橋さんが興味をもたれているものはなんでしょうか?


本橋信宏氏: 今は、大映の昭和30年代の映画の脇役陣に凝っています。「少年ジェット」は大映テレビの第1回目の作品で、昭和34年に出来たのですが、若尾文子や田宮二郎など主役クラスの脇で、ほとんど台詞もないような役者が出ていました。「少年ジェット」に出て来るブラックデビルという役は、高田宗彦という大映の俳優がしていたのですが、昭和30年代に子供だった人たちは皆知っています。でも高田宗彦に関しては、何者なのかというのはほとんど知られていませんでしたが、彼の娘さんが松本留美さんという女優さんだと突き止めました。留美さんは劇団円の現役の女優さんで、インタビュー申し込んで、お父さんの話を聞こうとしたら、高田さんはその半年前にお亡くなりになったということが判明しました。彼がつい最近まで生きていたんだと感慨深いものがあって、私の中に昭和30年代の街並みが浮かび上がってきました。そのトリップ感は官能的ですらあります。

――ネタ、テーマが様々な分野に及ぶというか、豊富ですね。


本橋信宏氏: いつか温めてみて出そうと思っている隠し球もあります。あと私は、島田清次郎、相馬泰三などの消え去った私小説系作家が大好きなんです。あとは芥川龍之介、西村賢太も大好きです。芥川龍之介は前期の頃よりも後半の私小説的色合いの強まった作品が好きで、彼の生き方に学ぶ、といった内容の本を出す予定です。

読者を裏切れない


――最後に、今後の展望をお聞かせ下さい。


本橋信宏氏: これからも傍観者の贖罪という気持ちを持ちつつ、摩訶不思議な人間を、形態はノンフィクション、エッセイ、小説、などに変わっても、ずっと書き進めていきたいと思っています。『裏本時代』はテーマが青春の野望と挫折なので、感情移入して「会いたかったです」と読者が私の所に会いに来たりします。愛読者が「あの時に全部を失った本橋が、こうやって頑張っている」ということが、彼らの1つの希望の星になっているようなので、そういう意味では、読者を裏切れないなと思っています。“頑張っている”という言葉はあまり好きではないから、せめて“踏ん張っている”私の姿を見てもらうためにも、これからも、正史からはみ出した記録されない人物、事象を活字で残していきたいと私は思っています。

(聞き手:沖中幸太郎)

著書一覧『 本橋信宏

この著者のタグ: 『女性』 『取材』 『フリーランス』 『古本』 『匂い』 『アウトロー』

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