東大に行けばドリームが待っている?
――東大法学部を目指されたきっかけを教えてください。
中本千晶氏: 地方の優等生にありがちな「東大に行ったら何かドリームがあるのでは?」という安易な考えですね(笑)。高校に入ってすぐ、周囲の理系の優秀な同級生を目の当たりにして、自分は違うということが、まずわかりました。そうすると、文I、II、IIIのいずれかということになり、偏差値的には文IIIだと担任の先生には言われたのですが、何か少し違う気がして……。過去の文学や歴史を研究することよりも、今の現実社会を司っているものの方に興味があったんです。でも、文Iに行ったら弁護士や、国家公務員試験を受ける人が多いことさえもわかっていませんでした。同級生の男の子から、「東大の法学部は官僚養成学校だよ」と教えてもらったのですが、その言葉の意味が本当に理解できたのは東大に入学してからでした(笑)。
――大学時代はどのようなことが印象に残っていますか?
中本千晶氏: 私は皆で協力し合って盛り上がる「お祭り」的なことがすごく好きで、1、2年生の時は「東大トマトテニスクラブ」という東大の中ではわりと有名なテニスサークルに入っていました。それで、テニスが全く上手くないのに組織運営のようなことを一生懸命やっていましたね。男女それぞれ部員は同じくらいいるのに、男子はキャプテンとサブキャプテン4人に対し、女子キャプテンは1人だったんです。当時の女子キャプテンの先輩が「女子キャプテンの仕事は男子執行部の布団を敷くことぐらい」と言っていたので、私は「それはおかしい。サブキャプテンをもう1人作りましょう。私がなります!」などと主張して……サークル内の「女性の地位向上」に努めてました(笑)。
――そのほかにもサークルにも入られていましたか?
中本千晶氏: 3、4年の時は法律相談所です。法律相談所は一般の方の法律相談を受けるのがメインの活動なのですが、法律はよく分からなかったので、相談に関しては最後まで役立たずでした(笑)。私が打ち込んでいたのは、五月祭でやる「模擬裁判」という演劇です。歴史と伝統あるサークルで、将来は裁判官や弁護士や官僚などを目指している真面目な人たちが、発声練習などをしたり、その期間だけ演劇部の人のようになるんです。OBの大蔵省の人が、演技指導をしに来たりもしていましたね。
「新聞記者」への夢破れて……
――就職活動はどのようなものでしたか?
中本千晶氏: 高校生の頃から文章を書く仕事がしたいと思っていたのですが、「文章を書く仕事をするなら新聞社に入ればいい」というこれまた安直な考えしか思い浮かばず、マスコミ対策勉強会のようなものに行って、準備をしていました。でも、自分が知っている大新聞社を5社ぐらい受けて全部落ちたところですぐに諦めてしまったんです。その後は民間企業も回るようになりましたが、回った企業の顔ぶれといえば、先輩の東大生が行っている企業と、大手銀行と商社、新日鉄と日本たばこ産業といった感じで、本当に世間知らずの東大生でしたね。いわゆるバブルの頃で、男子は「就活するのは面倒くさい」「寝ていても内定が取れる」というように社会をナメていた感じがありましたし、女子も、就職できないのでは?という不安はない時代でした。
――リクルートに入社された経緯をお聞かせください。
中本千晶氏: とはいえ、新聞社に落ちたことは、私にとって「生涯最初の大きな挫折」だったんです。その当時は、大学を卒業した時点で就職先を決めれば、「人生のレール」が決まるといったところがありました。でも私は「どこのレールに乗るか、これからもう少し考えないといけない、もうしばらくモラトリアムする必要がある」と思いました。そう考えたとたんに、当時の日本だと外資系かリクルートぐらいしか選択肢がなくなってしまったんですね。リクルートの面接官は話を聞くのが上手く、私の辛い就活体験にも耳を傾けてくれたので、「私のことを分かってくれる」と泣いてしまって……それで「この会社に入ろう」と思ってしまいました。リクルートはイケイケな会社のように思われていますが、実は内面にコンプレックスを抱えた「実は暗い」人が多い気がします。そういうものを覆い隠しながら頑張っている人が多く、根っから天真らん漫な人は実は少ないように感じました。
自分が戦う場所は会社組織の中じゃないと思った
――リクルート時代のご自分を振り返ると、どのような思いがありますか?
中本千晶氏: 本当にダメ社員でしたね(笑)。何事もその本質的な意味が理解できないと納得できないので、「売上目標っていったい何のためにあるんですか?」と真面目に聞いてしまうようなウザい新入社員でした。でも、ちゃんと答えてくれるのがリクルートのいいところですね。「新人飛び込み大会」という、決められた区域内で、雑居ビルを見つけたら手当たり次第、名刺を持って飛び込んでいくといった体育会系なイベントもありましたが、私には、「別に一番にならなくてもいいや」という冷めた思いがあったから、全然がんばらなかった(笑)。アポ取り電話も、同じ課の院卒の男の子が1日何百件も電話をする間に、私は50件しかしないといった感じでした。でも、今、新刊を出したときには自分でも書店回りをしますが、それって「飛び込み営業」みたいなものですから、じつはこの時の経験が役立っているんです。今思うとやってよかった、いやもっと真面目にやっておけばよかった(笑)と思います。
――フリーになろうと思われたのはどうしてだったのでしょうか?
中本千晶氏: リクルートには10年ぐらいいて、前半は編集部に異動希望を出しては玉砕といった日々が続いていていたのですが、後半は希望だったウェブサイトのディレクターをさせてもらい、自分なりに納得できる仕事ができました。でも、会社の中でそのままやっていく自分が想像できなかったんです。もともと「自分の名前で仕事がしたい」という思いは漠然と持ち続けていましたし。ちょうどその頃になると同期の中から課長に昇進する人が出てくるのですが、その時に先を越されて悔しいと思いをして、「ああ、会社組織で仕事をすることの本質って、こういう戦いをずっと続けていくことなんだな」と初めて理解できたんです。でも、自分が戦う場所はここじゃないなと思いました。
――その後の事業の構想はその時点でありましたか?
中本千晶氏: それが、辞めた当時は全然考えておらず、新しい道を見つけなければという焦燥感もそれほどありませんでした。通常は新しい道を見つけてから辞めるといった方法を取ると思いますし、今ならば私でも絶対そうすると思います(笑)。でも、その時は「卵が先か鶏が先か」といった話で、辞めない限り絶対に時間もないし、気持ちの余裕もないから、とりあえず辞めてから探そうと思ったのです。
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