スピード以外の付加価値を生む本を
中本千晶さんは、書籍の企画を広く募り、出版社との間をつなぐNPO「企画のたまご屋さん」を運営。新しい出版の形として定着させています。また文筆家としては、こよなく愛する宝塚歌劇団に関する論考で人気を博しています。書籍の書き手と、作り手の現状を深く見聞されてきた中本さんのお話から、電子書籍の登場で大きな変化を見せる出版業界の未来を探りました。
本を出すことは、一種の「業」
――早速ですが、「企画のたまご屋さん」の事業内容についてお聞かせください。
中本千晶氏: 毎朝1個、書籍の企画を「企画のたまご」というメールマガジン形式にして、ご登録いただいている出版社の編集の方に配信しています。編集の方がそれを見て「出せる」と思った場合、ご連絡をいただいています。私はよく「出版業界出会い系」と言っていますが、もう少し古い例えで言うと「スター誕生」です(笑)。運営をスタートして来年で10年になりますが、この8、9年で出版業界の状況が厳しくなったなというのは実感します。その一方で、毎日配信してきたということが、1つの価値になってきたとも思っています。
――「企画のたまご屋さん」のシステムの魅力はどういったところにあると思われますか?
中本千晶氏: 本を出すのは有名人でないといけないと思っている人が多いと思いますが、そうでなくても勝負できるというところが魅力なのではないでしょうか。それが、「企画のたまご屋さん」をやっていて一番面白いと感じるところでもあります。
――中本さんご自身も文筆家として活躍されていますね。
中本千晶氏: 本など出さずに一生幸せに過ごせれば、その方がいいと私はいつも思うんですよね。でも本を出さずに一生を終われない人という人が、一部いるんです。病気というか、業のようなものなのかもしれません(笑)。
――最近では、宝塚歌劇団に関する著作が印象的です。
中本千晶氏: 宝塚歌劇は小学校4年生のとき初めて観劇して以来、一ファンとしてずっと観続けていましたが、今では書き手としてのメインテーマの1つです。
タカラヅカに憧れる「優等生」だった
――中本さんは、小さな頃はどのようなお子さんでしたか?
中本千晶氏: 親は「教育ママ」ではありませんでしたが、子供世界文学全集や、子供百科事典など、家に本はたくさんありました。読めと言われたことはないんですが、私が一番読書家だったのは小学校に上がる前かもしれません。その頃は変な下心がないから、その辺に本があったら読んでみて、普通に面白いと思えるんです。ところが小学校に上がって、自分がどうやらお勉強ができる子らしいということが分かると、優等生らしく、本は読まねばならないものだという義務感が出てきてしまって、徐々に本が楽しくなくなってしまった気がします。
――小さい頃は、どのような本がお好きでしたか?
中本千晶氏: 童話や小説、伝記も好きでしたし、図鑑なども結構読んでいました。昆虫図鑑などは、チョウのページは読んで、嫌いなガのページは飛ばして読んだり、魚の図鑑などは、きれいな熱帯魚のページなどは熱心に読んだりしました。
――宝塚歌劇も小さい頃からお好きでしたか?
中本千晶氏: 近くに住んでいた叔母が宝塚歌劇のファンだったので、小学校4年生の時に初めて連れて行ってくれました。初めて観た日は「私もタカラヅカに入りたい!」と思いましたが、バレエなどを習わなくてはいけないということが分かって、一晩で諦めました(笑)。その後も叔母には春休みや夏休みごとに宝塚大劇場には連れて行ってもらっていましたが、東京と違って、宝塚歌劇以外の舞台は観に行く機会がなかったので、私の文化的素養は、ほとんど宝塚でできているのではないかと思います(笑)。
――中学、高校時代はどうでしたか?
中本千晶氏: 小学校の5、6年ぐらいに、どうも都会の子は中学受験というものをするらしいということを初めて知った時に、私も挑戦してみたいという思いも頭をよぎりましたが、周囲に誰もそんな人はいませんでしたし、地元の中学校に行って、地方の典型的な進学校である徳山高校に入学しました。
東大に行けばドリームが待っている?
――東大法学部を目指されたきっかけを教えてください。
中本千晶氏: 地方の優等生にありがちな「東大に行ったら何かドリームがあるのでは?」という安易な考えですね(笑)。高校に入ってすぐ、周囲の理系の優秀な同級生を目の当たりにして、自分は違うということが、まずわかりました。そうすると、文I、II、IIIのいずれかということになり、偏差値的には文IIIだと担任の先生には言われたのですが、何か少し違う気がして……。過去の文学や歴史を研究することよりも、今の現実社会を司っているものの方に興味があったんです。でも、文Iに行ったら弁護士や、国家公務員試験を受ける人が多いことさえもわかっていませんでした。同級生の男の子から、「東大の法学部は官僚養成学校だよ」と教えてもらったのですが、その言葉の意味が本当に理解できたのは東大に入学してからでした(笑)。
――大学時代はどのようなことが印象に残っていますか?
中本千晶氏: 私は皆で協力し合って盛り上がる「お祭り」的なことがすごく好きで、1、2年生の時は「東大トマトテニスクラブ」という東大の中ではわりと有名なテニスサークルに入っていました。それで、テニスが全く上手くないのに組織運営のようなことを一生懸命やっていましたね。男女それぞれ部員は同じくらいいるのに、男子はキャプテンとサブキャプテン4人に対し、女子キャプテンは1人だったんです。当時の女子キャプテンの先輩が「女子キャプテンの仕事は男子執行部の布団を敷くことぐらい」と言っていたので、私は「それはおかしい。サブキャプテンをもう1人作りましょう。私がなります!」などと主張して……サークル内の「女性の地位向上」に努めてました(笑)。
――そのほかにもサークルにも入られていましたか?
中本千晶氏: 3、4年の時は法律相談所です。法律相談所は一般の方の法律相談を受けるのがメインの活動なのですが、法律はよく分からなかったので、相談に関しては最後まで役立たずでした(笑)。私が打ち込んでいたのは、五月祭でやる「模擬裁判」という演劇です。歴史と伝統あるサークルで、将来は裁判官や弁護士や官僚などを目指している真面目な人たちが、発声練習などをしたり、その期間だけ演劇部の人のようになるんです。OBの大蔵省の人が、演技指導をしに来たりもしていましたね。
「新聞記者」への夢破れて……
――就職活動はどのようなものでしたか?
中本千晶氏: 高校生の頃から文章を書く仕事がしたいと思っていたのですが、「文章を書く仕事をするなら新聞社に入ればいい」というこれまた安直な考えしか思い浮かばず、マスコミ対策勉強会のようなものに行って、準備をしていました。でも、自分が知っている大新聞社を5社ぐらい受けて全部落ちたところですぐに諦めてしまったんです。その後は民間企業も回るようになりましたが、回った企業の顔ぶれといえば、先輩の東大生が行っている企業と、大手銀行と商社、新日鉄と日本たばこ産業といった感じで、本当に世間知らずの東大生でしたね。いわゆるバブルの頃で、男子は「就活するのは面倒くさい」「寝ていても内定が取れる」というように社会をナメていた感じがありましたし、女子も、就職できないのでは?という不安はない時代でした。
――リクルートに入社された経緯をお聞かせください。
中本千晶氏: とはいえ、新聞社に落ちたことは、私にとって「生涯最初の大きな挫折」だったんです。その当時は、大学を卒業した時点で就職先を決めれば、「人生のレール」が決まるといったところがありました。でも私は「どこのレールに乗るか、これからもう少し考えないといけない、もうしばらくモラトリアムする必要がある」と思いました。そう考えたとたんに、当時の日本だと外資系かリクルートぐらいしか選択肢がなくなってしまったんですね。リクルートの面接官は話を聞くのが上手く、私の辛い就活体験にも耳を傾けてくれたので、「私のことを分かってくれる」と泣いてしまって……それで「この会社に入ろう」と思ってしまいました。リクルートはイケイケな会社のように思われていますが、実は内面にコンプレックスを抱えた「実は暗い」人が多い気がします。そういうものを覆い隠しながら頑張っている人が多く、根っから天真らん漫な人は実は少ないように感じました。
自分が戦う場所は会社組織の中じゃないと思った
――リクルート時代のご自分を振り返ると、どのような思いがありますか?
中本千晶氏: 本当にダメ社員でしたね(笑)。何事もその本質的な意味が理解できないと納得できないので、「売上目標っていったい何のためにあるんですか?」と真面目に聞いてしまうようなウザい新入社員でした。でも、ちゃんと答えてくれるのがリクルートのいいところですね。「新人飛び込み大会」という、決められた区域内で、雑居ビルを見つけたら手当たり次第、名刺を持って飛び込んでいくといった体育会系なイベントもありましたが、私には、「別に一番にならなくてもいいや」という冷めた思いがあったから、全然がんばらなかった(笑)。アポ取り電話も、同じ課の院卒の男の子が1日何百件も電話をする間に、私は50件しかしないといった感じでした。でも、今、新刊を出したときには自分でも書店回りをしますが、それって「飛び込み営業」みたいなものですから、じつはこの時の経験が役立っているんです。今思うとやってよかった、いやもっと真面目にやっておけばよかった(笑)と思います。
――フリーになろうと思われたのはどうしてだったのでしょうか?
中本千晶氏: リクルートには10年ぐらいいて、前半は編集部に異動希望を出しては玉砕といった日々が続いていていたのですが、後半は希望だったウェブサイトのディレクターをさせてもらい、自分なりに納得できる仕事ができました。でも、会社の中でそのままやっていく自分が想像できなかったんです。もともと「自分の名前で仕事がしたい」という思いは漠然と持ち続けていましたし。ちょうどその頃になると同期の中から課長に昇進する人が出てくるのですが、その時に先を越されて悔しいと思いをして、「ああ、会社組織で仕事をすることの本質って、こういう戦いをずっと続けていくことなんだな」と初めて理解できたんです。でも、自分が戦う場所はここじゃないなと思いました。
――その後の事業の構想はその時点でありましたか?
中本千晶氏: それが、辞めた当時は全然考えておらず、新しい道を見つけなければという焦燥感もそれほどありませんでした。通常は新しい道を見つけてから辞めるといった方法を取ると思いますし、今ならば私でも絶対そうすると思います(笑)。でも、その時は「卵が先か鶏が先か」といった話で、辞めない限り絶対に時間もないし、気持ちの余裕もないから、とりあえず辞めてから探そうと思ったのです。
著者デビューで見出した自分の道
――2000年にリクルートをお辞めになった後は、どのような生活をしていましたか?
中本千晶氏: 最初の1年半ぐらいは、何もしない時期を作ろうと思って、近所の公園を散歩して、東京都立図書館で本を読む、という、まるでリタイアした人のような生活をしていました(笑)。
――初めての著書を出されたのは、ちょうどその1年半の時期を経た2002年ですね。きっかけはございましたか?
中本千晶氏: 『若者よ、問題解決で起業せよ!』です。本を出したのは、まだ会社を辞めていない頃、社会起業家の片岡勝さんに出会ったことがきっかけです。独立起業に関する本を読んでいたら片岡さんのことが出ていて、この人は面白そうだと思ってホームページで事務所を調べて行ってみたんです、そしたらたまたまご本人がいらっしゃったので、30分ぐらいお話しをすることができました。
――アポなしで、その場で声をかけられたということですか?
中本千晶氏: 片岡さんご本人にはアポは取っておらず、むしろアポを取ったら会ってくれなかったのではないかと思います。当時は会社を辞める決意が97%ぐらいは固まっているけれど、あと3パーセントのところでどうしても心が決まらないといった時期でした。そうしたら、片岡さんからは「君は辞めてもおそらく使いものにならない。会社員のアカを1年間ぐらいかけて洗い流すべきだ」と言われたんです。ムッとしましたが妙に納得しましたね。それから会社員のアカを洗い流すためのリハビリ生活に入りまして(笑)、片岡さんの事務所に週1ぐらい遊びに行っていました。そのときに「君、一緒に本を書いてみない?」と声をかけていただいて、片岡さんの起業塾の学生さんたちのルポを書いたんです。それをやりながら「やっぱり書くことが楽しいから、これを仕事にしたい」と昔の夢を思い出したという感じです。
――執筆に協力するという形ではなく、いきなり著者としてデビューしたというのは驚きです。
中本千晶氏: 出版社の方からは「著者をどなたにしますか」と聞かれたんです。私はその質問の意味が全くわからなくて、「私が書いたんだから私に決まってるじゃないですか!」と答え、片岡さんも、「君が書いたんだから、僕が監修、君が著者でいいよ」と言ってくださいました。今ならば出版社の方が言われたことの意味もよく分かるんですけど(笑)。何事も「知らない」ことの強さってあるなと思います。
著者が役者なら、編集者は演出家
――その後も次々と著書をお出しになられますが、その時はどういったお気持ちでしたか?
中本千晶氏: 最初は確かにうれしかったのですが、色々な本作りを体験する中で、自分の思い描くとおりの形にしていくことが意外と難しいということが分かりました。『若者よ、問題解決で起業せよ!』の時は深く考えなかったのですが、その後出した何冊かの本は、色々なことがあって、正直、自分としてはあまり納得できない出来のものもあります。出版業界の嫌なところも見えてきましたし、文章に関しても、自分の思ったことを上手く織り交ぜつつ、読んで役に立つ文章を書く、というバランスもなかなか分かりませんでした。それがやっとできたと思えたのが『「東大脳」の作り方と使い方』(後に改訂され『東大卒でスミマセン』(中公新書ラクレ)として出版)です。
――中本さんの理想の編集者はどういった方でしょうか?
中本千晶氏: 私の好きな「舞台」に例えると、著者は役者で、編集者さんは演出家です。それに、本作りにはデザイナーやフォトグラファーなど色々な方の協力も必要ですが、それが舞台でいえば小道具や衣装といったところでしょうか。そういうものが1つになって初めていい作品ができる。著者は、編集者から求められるように演じることも必要ですが、結局はその人勝負ということになります。また、著者が立つ「舞台」が最も面白いものになる演出を考えてくれるのが良い編集者ではないかと思います。
――2004年に「企画のたまご屋さん」を立ち上げられたのには、なにかきっかけがありましたか?
中本千晶氏: 2003年の秋に、池袋のイタリア料理屋さんで吉田浩さんと飲んでいる時でした。アイディアマンの吉田さんが突然、「この時代、出版社を1社ずつ回るのは時代遅れ。メールの時代なんだから、一斉に送ればいいのでは?」と言い出したのです。私もそのアイディアに大きな可能性を感じたので、やることにしたんですが、実際にやり始めたらすごく大変でした(笑)。
――どういったご苦労がありましたか?
中本千晶氏: アイディアがどんなにすごくても、それが形にならなければ意味がないと思います、実際のシステムを1から形作り、運営していくのはなかなか大変でした。でも、ピンチを迎えるたびに不思議と誰か助けてくれる人がいて、おかげさまで何とか今まで続けて来ることができましたね。苦しいときに自分ひとりで悪あがきするだけではなく、周囲の人の力を信じることも大事なんだと学びました。
電子書籍の利便性を活かす使い分けを
――電子書籍についてはどのように思われますか?
中本千晶氏: Kindleを最近買って、自分で使ってみて分かったことがたくさんありました。まず、「形がない」ということの価値です。軽い感じのビジネス書などはむしろ電子書籍で読みたいなと思います。でも、ある程度ボリュームがあって難しい本、何度も振り返らないと理解できない本は、やはり電子書籍で読むのは難しい。今の出版業界は、昔出た本を安く電子書籍化する流れのように感じますが、それが少し私は違うのではないかと思っています。新刊でも電子書籍に合う本はあるので、そういうものをきちんと編集者が見分けて、どんどん電子書籍化してほしいです。そういった使い分けが必要だと思います。
――電子ならではの機能、動画や音声などが出る本についてはどのように思われますか?
中本千晶氏: そうなると限りなくネットの世界に近付いてしまう気がするので、私はあまりそういう欲求はないです。それよりも、目次を押したらそこに行くようになっているとか、検索できたりなどと、電子書籍を読むときに欲しくなる仕掛けがきちんとしているものがいいです。あとは、電子書籍ならではのハイライト機能が好きですね。紙の本でも、線は引くことはできますが、それをまとめて読み直すことは電子書籍にしかできないですから。
――電子書籍で、本を出すことが簡単になるという考え方もあります。粗製濫造が起こることも考えられますが、今の出版業界の状況をどうお考えでしょうか?
中本千晶氏: 一日200冊、年間7万冊本が出るご時世、本当にこんなに本が必要なのかと本屋さんを歩いていて辛い気分になることもあります。世の中の人たちの自己顕示欲のパワーのようなものに圧倒されてしまうんですよね。たまたま自分が本を出した直後だと、「私の本はこの中のたった1冊か……」と、すごくブルーな気持ちになることも(笑)。でも、そのいっぽうで基本的にどの本も1冊1冊、苦労しながら作られていて、著者や編集者の想いが詰まっているわけで、「そうやって作られた本がこんなにたくさんある日本は豊かで平和な国だな」といった思いもあって。そんな両方の気持ちが私の中にはありますね。
「面白いから出してみよう」という可能性を残す
――「企画のたまご屋さん」は何人位のメンバーで活動されているのでしょうか?
中本千晶氏: 創業当初は2人から始まって、今は30人弱です。各自それぞれ自分の柱としての仕事は持ちつつ、「たまご屋さん」にも関わっていただいています。「たまご屋さん」に関わることで、皆さんそれぞれの仕事にも何か還元されたらいいなと思っています。株式会社ではなくてNPOという形にしたのは、ひとつには「売れる本」だけでなく「世の中に必要とされる本」を形にするお手伝いができればという思いからです。また、「上司が言ったことをやる、その代わりお給料を払う」といった形ではなく、「自立したメンバーによるユルい組織」としてやっていったほうが自分たちらしいし、コスト的にも無理なく組織を継続していけるという考えもありました。
――今後の「企画のたまご屋さん」の活動の展望をお聞かせください。
中本千晶氏: 最初にもお話しましたが、「企画のたまご屋さん」は、原石が見つけられる可能性のあるシステムだと思うので、そういう場としての価値を、手入れをして保っていきたいですね。世知辛い世の中になりましたが、「面白いから出してみよう」といった可能性が少しでも残っていくようにしたいです。もう1つは、先ほどお話した「自立したメンバーによるユルい組織」の、モデルケースを作っていきたいという思いもありますね。
本に限らずどのメディアも、一様に厳しいと思いますが「やっぱり本で出してよかった」と言われるような活動をしていきたいです。スピード勝負の時代の中にあっても、本はスピード以外のもので勝負できる付加価値があるものだと私は思っています。
――最後に、文筆家としてのテーマもお聞かせいただければと思います。
中本千晶氏: 今のメインテーマの宝塚歌劇が来年100周年を迎えます。書き手として、こんな節目の年を目の当たりにできるのはとても幸運なことなので、全力でスミレ色の世界に染まって、その時でないと出せない本を出していきたいと思います。でもその後は、もっと時間をかけて宝塚歌劇をじっくり見つめ直す本も書いてみたいですね。また、元々書いているキャリアの話や、宝塚歌劇以外の芸能の話も忘れた訳ではないので、そういったところにも世界を広げて書いていきたいと思っています。「書き続けられること」が私にとっては幸せなことなので、そのことに対する感謝の気持ちを忘れずにいたいです。
(聞き手:沖中幸太郎)
著書一覧『 中本千晶 』