アカデミズムとマーケットの「ブリッジ」として
――銀行では主にアメリカで活躍されましたが、どのようなお仕事をしてらっしゃったのでしょうか?
竹中正治氏: 1982年の夏から84年いっぱいニューヨーク支店に勤務して、この2年半は外国為替のディーリング業務で、「売れ!」「買え!」と言われながらやっていました。1982年の夏に第1次メキシコ危機という大きな事件があり、メキシコ政府が大量に米銀や日本の銀行にお金を借りていたんですが、「はい、返せません」という事態なりました。そういう国際金融の大きな事件を経験して、金融政策が大きく変わったり外為市場が大きく動いたり、株が上がったり下がったりする中で、80年代と90年代を生きてきました。
――ディーラーからエコノミストとなったのはどういった経緯だったのでしょうか?
竹中正治氏: 通貨オプションのチーフディーラー兼次長を長くやっていましたが、外為のディーラーは、40歳を越えるとしんどい仕事です。外為市場は株や債券と違って24時間です。東京で月曜日の朝から始まって、それが終わってもすぐロンドン市場、ニューヨーク市場とつながって、ニューヨークが終わるとすぐ東京。寝ている間も相場は動いています。若いうちはいいのですが、40歳を過ぎたころ「いつまでこれをやるんだろう」という疲労感を感じるようになりました。そんな時、「調査部の次長というポジションがあるぞ」と言われて、自分がもともとエコノミストという職種に憧れていたという事を思い出しました。ポジションが変わったのが2000年の3月です。
――調査部ではどのようなお仕事をされていましたか?
竹中正治氏: 次長を3年やって、そのあとアメリカのワシントンの所長をやりました。私は、日本に向かってはアメリカの政治、経済、金融、あるいは外交などの調査レポートを書き、一方、現地のアメリカ人には、当時大きな問題だった日本の銀行の不良債権処理や、日本の経済、金融のプレゼンテーションをしていました。それを4年間やったおかげで、知識がどんどん蓄積されて、アメリカ経済論を担当できるまでになったわけです。また日本に帰国してからは、日本金融学会などにも参加して、アカデミズムの先生とも交流するようになりましたから、そういう世界の事もある程度分かるようになってきました。
――学者と接して、どのような印象を持たれましたか?
竹中正治氏: アカデミズムと一般のマーケットの現場の人たちのブリッジができる人が少ないなと分かってきました。私も大学に移ってからは学術書を出版してそれで京都大学で博士号(経済学)を頂いたりしていますが、私のアカデミズムの実績などに比べれば遥かに大御所の素晴らしい先生たちがたくさんいます。ところが両方をブリッジする部分に自分のアドバンテージがある事に気づきました。例えば今、ほぼ毎月トムソン・ロイターのコラムを書いていますが、ああいうのを読んでいるのはほとんどマーケットの人だと思っていたら、大学の先生たちから「ロイターで竹中さんの論文を拝見しました」と言われて、だんだん自分の立ち位置というものができてきました。
忘れられないデビュー作の快感
――本を執筆されるようになったのはいつごろの事ですか?
竹中正治氏: 最初に本を書いたのはかなり若いころで、90年、34歳の時です。銀行で、当時始まってまだ日も浅かった通貨オプションのディーリング業務をやる事になりまして、オンラインのシステムもない中で、みんな手作業で管理するような世界からスタートしました。当時は役席になっていましたが、課長以上がこの取引きを全然分かっていないから、「おまえに任す」と言われたんです(笑)。それで非常にチャレンジングな気持ちになりまして、一種の企業内ベンチャーみたいな感じで、システム部との交渉とか、営業店の指導とか、それからディーリングの手法そのものも自分たちで考えながら、スタンダードになるようなものを作っていきました。この3年間がとても楽しくて、私にとっては貴重でした。その時に、『通貨オプション戦略―ディーラーが明かす必勝法』という本を日経新聞社から出す事になりました。
――本を出版するまでにはどのような経緯があったのでしょうか?
竹中正治氏: 行内的な説明書みたいなものを書いているうちに、「これ、もしかして出版できるんじゃないか」という気持ちになってきて、当時外為の取材をしていた日経新聞の記者さんに話をしました。エマージングなものって新聞社や出版社が飛びつきやすいんです。
――本が出た時はどのようなお気持ちでしたか?
竹中正治氏: 日経新聞の1面の広告に「『通貨オプション戦略』竹中正治」なんて出ると、やっぱり気分がいいですよね。本屋に行くと平積みで売ってくれて、快感がありました。その感覚が残っていて、「そのうちまた書いてやろう」という気持ちはずっと秘めていました。でも、銀行で仕事をしているとなかなか自由に書けないんです。アメリカから帰国して研究所勤務になり、銀行本体から離れた時に、ずっと書きやすくなり、それまでためていたコンテンツを一気に本にしました。
著書一覧『 竹中正治 』