ロジックで勝負する
東京工業大学教授、ロンドン大学、プリンストン大学、ブリティッシュ・コロンビア大学、世界銀行などの客員研究員・教授を経て、内閣府の経済社会総合研究所長を歴任されてきた小野さんは、菅直人元首相の経済政策のブレーンとして活躍され、現在は大阪大学教授を務められています。著書の『国際企業戦略と経済政策』では日経経済図書文化賞を受賞されています。お仕事において大切にされていること、また、執筆に対する思いをお聞きしました。
計算式は言葉
――研究についてお聞かせください。
小野善康氏: 僕は今、長期不況の研究をしています。日本は20年も続く不況に直面しているし、ヨーロッパでもリーマンショック以降不況が続いています。それなのに、世界中の経済学には長期不況の理論というものはないんです。あるのは全部短期不況の数年景気が悪いのをどうやって早く回復させるかといった理論だけ。長期不況の理論とは構造が全然違います。長期不況を理論的に説明するのはとても難しいのですが、僕は今まで取り入れて無かった「お金への欲望」を入れて作り出したんです。例えば50万の所得があるとして、その50万を1銭も使いたくないと思って全部貯めたとします。そうすると、どんどん貯まっていって、金持ちになりますよね。ところが、日本中がそれをやったとしても、日本中がお金持ちにはならない。お金の全体量は変わらないまま、何も売れなくなって、みんな失業してしまう。そうしてますます不況に陥るといったメカニズムなんです。口頭で説明すると簡単に聞こえるんですが、それを論証するには膨大な数学が必要になります。計算式は非常に厳密な言葉なんです。
――小さい頃はどのようなお子さんだったのですか?
小野善康氏: 僕は早生まれですから、クラスの中で体も小さいし走るのも遅いし、小さい頃は全く自信のない子どもでした。特に小学校低学年の頃はコンプレックスのかたまりでした。子どもの頃の1 年の差は大きかったのですが、だんだん成長すると差がなくなっていった気がします。学年が上がるにつれ、数学や理科が得意になり、特に数学は大好きでした。でも国語は全然ダメ。国語の問題では、作者の意図を問われることがよくありますが、それが全く分からなかったんです。文章の解釈の仕方によっては答えも違ってくると思うからです。もちろん国語にもロジックはあるんでしょうが、僕にはついていけませんでした。
数学は“ゲーム”だった
――数学が好きになったきっかけはありますか?
小野善康氏: 数学は最初からロジックが完璧で、丸暗記ではないでしょう?僕は歴史の年号のような丸暗記が必要な教科が全くダメだったんです。「それを暗記してなんの役に立つの?」と感じていました。でも、ロジックで説明できる数学は面白いと思えたんです。率先して「はいはい!」と手を挙げる子はたくさんいましたが、僕は自信がなくて前に出ることはできませんでした。ところが、知能検査で「この子はIQがものすごく高い」と言われて、先生の僕に対する態度がコロッと変わったんです(笑)。それからなんとなく「僕は頭が悪くないんだ」と自信を持てるようになりました。中学に上がってからも、数学がますます好きになりました。みんなで旅行に行って汽車に乗っても、ずっと数学の問題を解いていました。方程式を解いたりすることが楽しくて、どんどん先に進んで高校の微積分をやったりしていました。僕にとって数学は、面白くてしょうがないゲームだったんです。数学の問題を解いていると、時間を忘れてしまい、よく没頭していました。
他の大学にはないことを勉強したかった
――その後、東京工業大学へ進まれていますが、選ばれた理由はなんだったのでしょうか?
小野善康氏: 物理と数学をやろうと考えていたら、昭和44年の東大闘争で入試がなくなってしまった。それで東工大に行きましたから、今は経済学をやっていますが、頭の作りは完全に理系なのだと思います。僕には子どもが2人いますが、2人とも完全に理系で、周囲には「理系家族だね」と言われています(笑)。
――受験がなくなった時はどのような気持ちでしたか?
小野善康氏: 「学生運動をするやつらは身勝手だ」と思いました。中核や革マルなどが大暴れする大学解体の時代だったのですが、大学解体と言いながら、その大学の肩書きを背負って就職活動しているんです。学生運動で全ての教室がロックアウトされて、大学に入っても半年間は全く授業がなかった。それで同期の仲間の多くは「学生運動はけしからん」と思っていました。「おいしいところだけを持っていくなんて、ちょっと酷いんじゃないの」というのが正直なところでした。
――どのような学生生活を送られていたのですか?
小野善康氏: 勉強がしたいとも思っていましたが、車を乗り回して遊び回っていましたね(笑)。前述にもあったように、当初は東工大に行こうとは思っていなかったのですが、実はその選択が、その後の経済学研究の道へとつながるんです。大学に行ったら、工学部だと機械系や電子工学、理学部だと物理か数学をやりたいと思っていました。ところが東工大に進んだので、他の大学にはないことをやろうと思い、社会工学に進んだんです。「“理系のセンスで社会を考える”というのは、まだ聞いたことがないな」と思ったんです。今は、筑波大学にも社会工学はあるのですが、この分野は東工大が最初に作ったもので、僕は3、4期目で入りました。「人間の行動がロジックで説明できたら面白いんじゃないかな」と思ったのがきっかけなんです。
――実際に社会工学科に入っていかがでしたか?
小野善康氏: “人間は面白い”と思いました。社会工学というのは都市工学もあって、建築や土木もやるし、社会学、それから経済学といったように、学んでいくこと全てが社会に関係するんです。あとオペレーションリサーチといった数学的なものもあって、その中でどれかを選びます。その中で一番ロジカルだったのが経済学だったんです。常にロジックの有無で物事を見ているところがあって、逆を言えば、それじゃないと自分は勝負できないと考えていました。それで、とことんやってみようと思って始めたんです。その当時から今まで、僕が常に大事にしていたのは、ロジックです。経済学では貧しい人を救うといった優しさや倫理みたいなものが重要と思われるかもしれませんが、僕の場合は“人間はこういう行動をして、その結果がどうなったか”というのを数学的に表現したい、というところから入っているんです。
経済学の先生たちに会いに行って決断
――大学院へ進むにあたっては、どのようなことを考えられたのでしょうか?
小野善康氏: 東工大は理系の大学なので、今は9割以上の学生が大学院に進みますが、当時も8割ぐらいが大学院に進んでいたと思います。自分の人生を振り返ってみると、4、5年先の自分がどうなっているか予測がついたことはありませんでした。例えば大学では社会工学に入ろうとは思っていなかったし、理系から文系になるとも思わなかったし、もちろん研究者になろうとも思っていなかった。でも、東工大で学んでみて、経済学が本当に面白かったから、「大学院で経済を学ぼう」と思ったんです。しかし、東工大にはないので、困って父に相談したら、「まずは自分の行きたい分野の先生のところに話を聞きにいかないとダメだ」と言うんです。父がむかし、工学部か理学部かを選ぶ時に、物理学者の寺田寅彦に会いに行ったそうなのです。それで僕は、東大や一橋、京大などの先生を探して、会いに行ったりしました。それぞれの先生のお話を聞いて、その中でも東大の先生が“こういう本がいいよ”“こうやって勉強したらいいよ”と丁寧に教えてくれたので、「ここにしよう」と決めました。どの先生もみな会ってお話を聞かせてくれて、とても感謝しています。実際に会うことは、すごく重要だと思います。
――そこが人生の大きな1つの節目だったという感じでしょうか。
小野善康氏: そうですね。はじめは“2年たったら就職する”というつもりで大学院に入りました。後で聞いた話なのですが、筆記試験に関しては、どうも合格した人たちの中では最低の際どいラインだったようです。その後の面接では、あらかじめ提出していた学部の卒業論文について、7、8人の先生からあれこれ質問を受けるんです。すると大柄で眼光の鋭い先生が、成立するのが当たり前のことについて、突っ込んだ質問をしてきた。それで、「はあっ?なんでそんなことがわからないんだ」って思いながら説明したら、「そうか、そうか」って納得していた。控室に戻って、同じ面接を受けに来た仲間にあれは誰かと聞いたら、宇沢(弘文)さんだって言われて、冷やっとしました。結局、それで面接は終わったんですが、後で聞いたら「面接が最高だった」と言われたんです(笑)。今思えば、あえて突っ込んだ質問をして、本当に僕が自分で考えてやったのかどうか、確かめようとしていたんでしょうね。
論文掲載がきっかけで再び大学へ
――大学院ではどのように過ごされましたか?
小野善康氏: 学部の訓練を全く受けていなかったので、はっきり言うと常識がなかったんです。例えば、学術雑誌。我々学者は学術雑誌で勝負するんです。雑誌に論文を寄稿すると、他の学者が審査するんですが、そこでおそらく9割は落とされる。今はそういった雑誌が1 00冊ぐらいありますが、当時も50冊ぐらいあったと思います。僕は入った当初、そういった雑誌の存在すら知りませんでした。でも研究はとても面白かったので、自分のロジックで一生懸命書いて、教えてもらった英文の雑誌に寄稿したら通っちゃったんですが、「これは結構すごいことなんだよ」と仲間から言われました(笑)。研究は面白いものの、やはり修士の2年になってから会社の就職活動を始めました。『成熟社会の経済学』の中でもエピソードを書きましたが、あの当時は、高度経済成長は終わっていたけど、まだ景気が良かったので「よく来てくれた!」といった雰囲気で迎えられました。東大では、「なんで辞めるの?大学院に籍をおいておけばいい」と、3人の先生から言われました。それで会社に「大学院に籍を置きながら来てもいいですか?」と聞いたら、1 社が了承してくれたので、その会社で3、4年間勤めました。
――研究者へと方向が変わったきっかけは、何だったのでしょうか?
小野善康氏: 親切な先生が、「慶応大学で土曜日にゼミをやっているから」と紹介してくださったんです。それから、仕事の後で急いで寮に帰って論文を書いたりもしました。もちろん、大いに遊びもしましたけどね。それで、その論文を雑誌に投稿したら、今度はイギリスの学術誌に掲載されました。それで、大学に戻ることにしたんです。
――本を出したきっかけは、どのようなことだったんでしょうか?
小野善康氏: 論文を読んでもらった先生からも「博士論文を出したら?」と言われ、自分でも出そうかなと思い始めていました。僕の大学院の同期の金本(良嗣)君や、1、2年下の吉川洋、伊藤元重、植田和男なんていう人達は、みんな博士をとるためにアメリカへ留学していました。「じゃあ僕もとるか」と思って、東大に論文を出したら、周りの連中に「そんな恐ろしいことをしたのか」と言われました。後で聞いたら、東大の経済の課程博士は、その当時、まだ僕で戦後1 1 人目くらいだったそうなんです。要するに、日本で博士を取る人がいないので、あえて勧めたようです。そういった状況を知らずに「面白いから書いて出しちゃった」というのが博士論文で、それが僕の最初の本になったんです。論文を出す段階になって、「君が出せば、ほかの連中も安心して出せるようになるよ」って言われました(笑)。
数学を言葉にする
――本を執筆する上でのこだわりや、特別な思いなどはありますか?
小野善康氏: 今では一般書も結構書いていますが、はじめの何冊かは完全な専門書で、数学だらけでした。最初の本は博士論文をまとめた企業の競争の本で、出版された時は本屋の書棚に置いてあるのがうれしくて、写真を撮りに行きました(笑)。それくらい、うれしかったです。2冊目の『国際企業戦略と経済政策』は日経賞をもらった本なんですが、学術論文を集めてまとめた本。3冊目は、今の不況理論を初めて体系化した専門書だったんですが、この本を書いている時は、自分で「すごいことをやった」と感じて、興奮して書いたんです。もちろん、「こんなのくだらない」と言う人もいっぱいいましたが、他人がどう感じようと、自分ですごいと信じ切ることが大切なんです。それで、何とか海外にも広めようとオックスフォード大学出版局から英文の専門書も出したし、「この本の理論的帰結が、すごく日本経済に合っているんじゃないか」と感じて、一般向けの本も書きたいと思いました。
――一般書を書く際に気をつけていることはありますか?
小野善康氏: 一般書を書く際には、「裏では数学理論だらけだけど、それを表に出さずに、わかりやすい言葉で当たり前のごとく表現できたら面白い」と思いました。そのうちの一冊が『景気と経済政策』で、今では1 0刷を越えていると思います。書評の中には「景気の話は経済学の昔からの中心分野だけれど、この本はその論争を非常に分かりやすく整理して、国語力が非凡」と書いてくれたのもありました。実は、この本は僕独自のものすごくオリジナルな理論を背景にしているのですが、そうはとられずに、それこそがど真ん中の議論だと思われた。つまり、当初の僕のもくろみがある程度成功して、自分の色を消しているということなんです。
――自分の色を消すというのは?
小野善康氏: 読者には、一般的で当然の議論のように素直に入っていく。そうやって自分の色を消しているけれども、実際は自分独自の理論がたっぷり入っている。そうやって本を出し続けるうちに、僕独自の考え方が、いつの間にか一般的な考え方になっていく。そういうことを意識して書いたから、すごくチャレンジングで楽しかったです。
本がきっかけとなり、大きな変化が生まれる
――本を書かれるようになってから、なにか変化はありましたか?
小野善康氏: 『景気と経済政策』は、最初は2万部ぐらいだったんですが、「売れるのかな」と思っていたら1か月も経たないうちに「もう増刷です。すごく売れています」と連絡が入りました。その後、高校の先生のグループからの講演依頼を皮切りに、政治家や官僚、経済団体などからどんどん依頼が来たので、本当に驚きました。自分の周囲が、想像がつかなかった方向に変わっていきました。本の力はすごいですね。でも、ただ単に書けばいいというわけではなく、「書くからには力のある本を書きたい」と思っています。
――電子書籍はご利用されていますか?
小野善康氏: Kindleを使っています。今読んでいるのは、半藤一利さんの『昭和史』です。Kindleは、1、2年前に娘がプレゼントしてくれたんです。iPadなども使っていますが、どちらも初めは「どうなのかな」と思っていました。抵抗はないのですが、Kindleの最大の問題はソフト、コンテンツが少ないということ。特に学術書や欲しい本、読みたい本がない。例えば、安部龍太郎さんの『等伯』が出た当時、Kindle版で買おうとしたら、ありませんでした。今は出ているようですが、Kindle版は少し遅れ気味ですよね。
――実際に読んでみて、使い心地はいかがですか?
小野善康氏: 『源氏物語』をダウンロードして読んだりもしましたが、いいと思います。まず軽いし、本と違ってぐにゃぐにゃ曲がらないから、夜寝る時に読むにもすごくいい。片手でも読めるし、光りますから暗くしていても大丈夫。文字も大きくできるし、明るさも調節できる。だからこそ、もっとコンテンツがあれば、僕はすごく使うと思います。
自分が書きたいと思うことが大事
――理想の編集者とは?
小野善康氏: 難しいかもしれませんが、自分が書きたいということが漠然とある時に、「これを書いてください」と具体的に言ってくれる人です。しかも「こういうところに興味があるよ」ということを読者の目線から言ってくれるとうれしいですね。本を読んでコメントしてくれる仲間役を、アイデアを作る段階でやってくれる。頭の中にあるものを形作って、引き出してくれる存在とでも言いましょうか。好きなことを書いてくださいというのは、まだいいんです。でも、世間的な人気に当てはめて、「こういうのを書いたらいかがでしょう」と提案されると、全く自分には興味のないテーマということもあります。それだと書くのはやはり難しいです。いかに、書きたいという気持ちと、それを読みたいという人をうまくつなげるか。社会と書き手を引き合わせる仲人のような存在でしょうか(笑)。でも、「短所は隠して、相手の望むように表現しないと」などという仲人はイヤです。そういうのは、結局は悪い結果をもたらすと思います。だから提案された時に、自分が書きたいと思えるものを選ぶことが大切。
――ネットの存在で、読者との距離は近くなったと感じますか?
小野善康氏: 本は、自分の好きなことを「これは面白いから、聞いてくれよ」という思いで書いています。だから、1人でも「すごく面白かった」という人がいると、書いて良かったと思います。今はネットの時代ですから、Amazonの評価やブログ、Twitterなどで反応がダイレクトに返ってくる。褒めてもらえることもあるし、批判や中傷もすごい。批判や疑問もそれを糧にして、“それに答えなきゃいけない”と書いた本が『成熟社会の経済学』なんです。
理論的に、自信を持って伝えたい
――今後の展望をお聞かせください。
小野善康氏: 僕のフィールドは学術論文を書くことで、やりたいと思うことは色々とあります。一般書は、国際金融について書きたいと思っています。僕のオリジナルの部分が表に出すぎないようにして、読者や周囲の人たちが「分かりやすくて面白いね」と言ってくれたら大成功。それからもう1つ。僕は政治などに全然興味がなかったのですが、突然、総理大臣から呼ばれて2010年から12年まで政策の現場に入った。政治家や官僚とのつき合い方も全然分かっておらず、まったく専門外の会議や単なる儀礼にも呼ばれて「なんで僕が出なきゃいけないの」と文句を言って頭を抱えられたこともあります。まさに『不思議の国のアリス』のアリス同然だったので、“入ってみたらこんなところだった”という体験記を書きたいなと思っています。特に東日本大震災の恐ろしさを間近で聞いていたので、それについて書きたい。そう思っていたら、今は立派な研究者になっている僕の元学生たちに「そんな暇があったら論文を書きましょうよ」と怒られてしまいました(笑)。
――小野先生の使命とは?
小野善康氏: 理論的にきちんと答えが出たことだけを言うこと。それによって実際に社会が良くなるなら、たとえ政治的に受けなくても、それが「いい」と自信を持って言うこと。偉い人の中には、自分の専門でもないのに、平気で意見を述べる人もたくさんいます。心臓外科の先生が鼻や目、あるいは風邪の話もする。偉い先生に耳障りの良いことを言われると、なるほどと思うのかもしれませんが、実は素人です。僕はそんなことはやりたくないし、意見を述べるなら、絶対の自信を持って言いたい。逆にそうじゃないことは言わないか、「素人だけど」と正直に言うこと。そこが自分の使命というか、そういう風にありたいと思っています。
(聞き手:沖中幸太郎)
著書一覧『 小野善康 』