鶴田知佳子

Profile

同時通訳者、会議通訳者。上智大学外国語学部フランス語学科卒業、コロンビア大学経営学大学院修了。MBA(経営学修士)取得。金融業界で10年の勤務経験の後に通訳者となり、目白大学助教授を経て現職。フランス語学科卒業、イタリア在住経験もあり、英語のほか、フランス語やイタリア語も話す。 NHK「英語でしゃべらナイト」監修などのほか、著書には『よくわかる逐次通訳』(東京外国語大学出版会)、『45分でわかる! オバマ流世界一のスピーチの創りかた』(マガジンハウス)、『Let's talk business! 「何とぞよしなに」って、英語で言えますか?』(共著。NHK出版)などがある。

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子ども心に思った、通訳という仕事


――幼少期のほとんどをアメリカで過ごされていたそうですが、通訳者のお仕事をされる上で役に立ったと思われる所はありますか?


鶴田知佳子氏: 最初にアメリカに行ったのは小学校の高学年の時で、英語は習ったことも話したことも全くありませんでした。
よく、通訳者になりたいという学生から「帰国子女の方が有利なんでしょうか?」とか「帰国子女じゃないとなれないんでしょうか?」という質問を受けるのですが、必ずしもそうではありません。ただ、やはり帰国子女だとその時代の国の空気感を肌で感じることができるという点、生活の中でその国を知っているという点は有利だったりします。

――アメリカの地で、初めて外国の空気に触れた時は、どういった感覚でしたか?


鶴田知佳子氏: 意味を持たない雑音の中に放り込まれたような感覚でした。「What’s your name?」と言われて、「name?もしかしてこれは名前のことかしら?」と、雰囲気で言葉を認識して、「My name is~」と言われ、「あ、なるほど自分の名前ってそういう風に言うのか」というように、少しずつ言葉を覚えていきました。文法がbe動詞で一人称単数はisということを考えて喋っているわけではないけど、「My name is~」と言われているから、「あ、そうか、なるほど。でも妹のことはどうやって紹介すればいいのかな?とりあえずMy name isでいいや」というように、やりとりを重ねていくうちに、「こうやって覚えていくのかな」となんとなく思っていました(笑)。今でも覚えていますが、アメリカに引っ越してはじめて近所の公園に行った時、同じ日本人の子で、みんなの先輩格の人がいたんです。その人が、英語の話せない私たち姉妹の通訳をしてくれました。そのとき、「もしかすると通訳とはすごく役に立つ仕事かもしれない」と子ども心にも思っていました。

――日本に戻られてからはどのようなことがありましたか。


鶴田知佳子氏: その時期は、帰国子女入試のはしりの頃で、学芸大学附属大泉中学校というところに入りました。中学には帰国子女といっても色々な人がいて、全く日本語の活字にも触れていなかったような、もうほとんど外国で育ったような人もいました。アメリカにいた頃、「家庭の中では日本語を使う」と両親が決めていたので、それは本当に良かったと思います。その後、学芸大学附属高校の入試が済んだところで、父が今度はインドに転勤になったので、アメリカンスクールに行くことになりました。そこには40カ国以上の子どもたちがいて、非常に面白くて、有意義な時間だったと思います。

――多種多様な国の人々と接したアメリカンスクールでの体験は、今のお仕事に何か良い影響を与えたのでしょうか。


鶴田知佳子氏: アメリカンインターナショナルスクールでは、国語としてEnglishを教わることもできましたし、教材として使っているものもアメリカのものが中心でしたので、アメリカの価値観というのも学ぶことができました。クラスメートの中には、英語で教育を受けたいという他の国籍の子や、色々な国の大使館の子など、色々な背景を持った人々がいる中で、自分の意見や考えを伝えなければなりませんでした。そういった点では今の仕事に役だっている部分もあるのかもしれませんね。

国際公務員を目指して学んだ大学生活


――その後上智大学では、どういったことが印象的でしたか?


鶴田知佳子氏: 上智大学は、キリスト教のバックボーンがあるというところが非常に素晴らしいと思います。とても教育熱心なイエズス会の神父様方のお話を聞きながら教育を受けることができたのは、非常に貴重な経験だったと思います。

――大学で、フランス語学科を選んだ理由は何ですか?


鶴田知佳子氏: 当時の私は、国際公務員になりたいと思っていたんです。オリンピックの招致委員会もそうですが、公式言語は英語とフランス語ですよね。なので、もう1カ国語できるとしたらば、やはりフランス語だろうという感覚がありました。そして、国際公務員には「大学院卒か、あるいは3年の勤務経験」という条件があったので、大学を出る時には、「まず3年勤務してから、自分で経済的に独立しよう」と思っていました。ともかく身につけられるスキルは何でも学ぼうという思いがあったので、英語、フランス語はもちろん、教職も取りました。また、国際関係副専攻というのもあったので、「それもせっかくなら取っておこう」と、本当に欲張りました(笑)。

――大学を卒業されてからは、どのように過ごされていたのでしょうか。


鶴田知佳子氏: 夫の転勤でニューヨークへ行ってからは、コロンビア大の経営大学院に入りました。新婚生活と大学院生活の両立はさすがに大変で、今までを振り返ってみても、あの時代が一番大変だったんじゃないかと思います。アメリカの教育の良いところは、やはり考えさせるという点です。習ったことを自分でどう応用できるかということに関して言えば、ケーススタディの事例分析を書かせたり、プレゼンテーションをさせたりといった授業がとても役に立ったと思います。大学の場所がニューヨークにあり、ウォール街で働いている先生が実際に来て話をしてくれるということもあって、実学との結びつきが強い大学院だったと思います。

著書一覧『 鶴田知佳子

この著者のタグ: 『大学教授』 『英語』 『海外』 『教育』 『言葉』 『通訳』

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