中学、高校時代に見た社会の矛盾
――徳山市(現在の周南市)のご出身でいらっしゃいますよね?
飯田哲也氏: 小学校6年の12歳の夏までは自然溢れる中で暮らしていたのが、父親と2人暮らしをすることになって、町中に出て来ました。1974年の徳山というのは、コンビナートなどもあって大気汚染がひどく、町中に来て1週間で急性喘息になりました。父は当時、徳山市役所の公務員でしたが、私の面倒を見ながら仕事をするために異動願を出しました。それまでやっていた仕事ではなく、厚生施設というか、ホームレスのような低所得者を収容して住んでもらうための社会福祉事務所系の住み込みの管理人を志願したのです。それで中学、高校は徳山の街中(現:周南市)で暮らしたのですが、当時の徳山には朝鮮人学校があって、同級生にも朝鮮の人たちがいて子ども同士は遊ぶのですが、色々な意味で差別されていたように思います。労働者や部落のような人たちもいましたし、中須という田舎の牧歌的な村にはいなかった多彩な人たちを中学高校の中で見てきて、社会の中の矛盾というものを身近で感じました。
――本を読むのはお好きでしたか?
飯田哲也氏: はい。小学校の頃から本を山のように読んでいました。最初はシャーロックホームズやルパンなどの間口の低い読み物から始まったのですが、段々と古典的な小説やエッセイなどを読み始めました。中学・高校ではすごく哲学にはまって、高校の時は『三太郎の日記』や三木清やハイデッカーなどを読んでいました。社会問題を知りたいというか、「門前の小僧習わぬ経を読む」ではありませんが、とにかく読んでみようと思いました。
――大学へ進む時は、哲学の道を選ばなかったのでしょうか?
飯田哲也氏: 自由な校風に憧れて京都大学と決めていたのですが、基本的には理科少年だったので理学部へ進むことをまず考えました。科学の最先端をやりたかったので、遺伝子か素粒子のどちらかを選ぼうと思っていました。でもまだ貧しい時代で、高校の先生からも「就職ができるのか分からないから、工学部に行きなさい」と言われて、工学部の中でも一番理学部に近い原子力の方へ行くことにしました。当時は医学部よりも入試が難しいくらいで、原子核は20人しか定員がありませんでした。でも、ある意味チャレンジ精神が掻き立てられて「難しいなら入ってやろう」と原子核を受けることを決めました。でも、実際に入ってみると工学と理学部の違いに驚きました。工学部は産業界に奉仕するための学問という感じで、頭の中で理論を考えるよりも、実験をして結果を出すという部分が大きかったのです。友達は皆、山登りが好きな人ばかりで、梅棹忠雄や本多勝一など、京大の今西錦司から継ぐような学習サークルなどに入っていたりしました。学部は原子核工学という工学の世界にいながら、文化人類学や社会学の本を読んだり議論をしていて、頭の中は半分、文系社会学系という感じでした。
「この人生でよかった」と思える人生を歩む
――就職をする時は、どのようなことを考えられたのでしょうか?
飯田哲也氏: ちょうど全共闘世代が通り過ぎた後の時代で、宮台真司さんと同じ学年なのですが、全共闘世代を冷めた目で見ていました。だから就職した時は、頭の中で考えることや、山登りは趣味だと割り切って「生活のため」ということを考え、神戸製鋼に入りました。でも仕事をしていくうちに、本で読んできたことや、自分の1番ベースにあるエコロジスト的なものが合わさって、段々と妥協できなくなっていきました。志などという大層なものではないかもしれませんが、「自分の人生が閉じる瞬間に『この人生で良かった』と思える人生を送りたい」というのは小さい頃からずっと思っていました。スティーブ・ジョブズがスタンフォード大学の卒業スピーチで言った「毎日鏡の前で朝出る時に、これから過ごす1日、これから出る打ち合わせは、明日自分の命がなくなっても過ごすべきものなのかどうかを問うてきた」ということに通じるところがあるかもしれません。そういうことが常に脳裏にあったので、原子力ムラの中で矛盾ある内側を見て、「それを心の中に押し殺しながら人生を送っていいのだろうか」と30代になって考えた時に、原子力、日本、そして自分の人生でやってきたことも含めて、全部1度外から見直そうと思いました。
――スウェーデンに行かれたのも、そういった理由があったのですね。
飯田哲也氏: 自分に何ができるかも分かっていませんでしたが、実際に渡ってみると、目についていたうろこが何十枚もはげ落ちるような感覚がありました。自分にとっては本当に良い結果になったと思います。当時は先の見えない不安はありましたが、それよりも解放感の方が大きかったです。でもすぐに、自分がいかに肩書きの世界に生きてきたのか、と痛感しました。
電力中央研究所にいると、海外に行っても向こうの研究所や日本からサポートしてくれる商社などが全部アレンジしてくれましたし、20代の新人の頃には、英語もあまり上手くはなかったのに、国際会議でキーノートスピーチなどをしたこともあります。それで自分は仕事ができるつもりになっていたのです。でも、ただの飯田哲也一個人になった瞬間に、自分のアイデンティティとか、そもそも自分は何者なんだろう、自分は何ができるのだろうかと考え込みました。例えるなら、今まではガンダムの操縦をしていて、自分はすごく強いんだと思っていたのが、ガンダムを降りて一個人になったら、自分で力や人との関係、あるいは色々な成果などをたった一人から積み上げなければいけないということが分かったのです。解放感と無力感の中で「ここが出発だな」と改めて決意しました。
――チャレンジの連続ですね。
飯田哲也氏: 何かに挑戦するという姿勢においては、中学・高校時代に現実社会の底辺に近い世界を見たことも関係があると思います。電力中央研究所時代に国の委員会の中枢にいる時に、委員の皆さんが発言をしていることと、現実の社会の底辺とは距離があり過ぎると感じたので、そこをきちんと変えていくような政治、政策や技術あるいはビジネスをしないといけないのではないかということを考えました。多くの人は「トップの世界」の裏側を知らないので「上の人は良いことをやってくれているのだろう」と思っているかもしれませんが、実際はそうではなかったりするのです。そういった矛盾を常に頭の片隅においておきながら、自分ができることをやって積み重ねていこうと思って頑張っています。
著書一覧『 飯田哲也 』