飯田哲也

Profile

1959年、山口県生まれ。京都大学大学院工学研究科原子核工学専攻修士課程修了東京大学先端科学技術センター博士課程修了。原子力産業や安全規制に従事後、「原子力ムラ」を脱出。北欧での研究活動や非営利活動を経て、認定NPO法人環境エネルギー政策研究所(ISEP)を設立。持続可能なエネルギー政策の実現を目指し、地方自治体や国の審議会委員を務める。 近著に『原発ゼロノミクス: 脱原発社会のグランドデザイン』(共著。合同出版)、『原発社会からの離脱―自然エネルギーと共同体自治に向けて 』(講談社現代新書)、『エネルギー進化論―「第4の革命」が日本を変える 』(ちくま新書)など。

Book Information

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

次の時代に向けて、言論と現実の両方を作って積み上げていきたい



飯田さんは、自然エネルギー政策を筆頭に、市民風車やグリーン電力など日本の自然エネルギー市場における先駆者かつイノベーターとして、国内外で活躍されています。世界中に幅広いネットワークを持ち、特に3.11以降は、世論をリードするエネルギー戦略を打ち出すなど、持続可能なエネルギー政策の実現を目指されています。2014年2月には、福島県で「コミュニティ・パワー会議2014in福島」を開催し、デンマーク、ドイツ、カナダ、オーストラリアなど国内外から、コミュニティ・パワーのキーパーソンとなったエネルギーシフトの先駆者を招いての国際シンポジウムも実現されました。主著に『北欧のエネルギーデモクラシー』、共著に『自然エネルギー市場』『光と風と森が拓く未来―自然エネルギー促進法』、『環境知性の時代』、訳書に『エネルギーと私たちの社会』などがあります。今回は、仕事におけるターニングポイント、そして山口県での活動、未来に向けての活動についてお伺いしました。

4つの視点から考える


――様々な活動をされていますが、エネルギー学者という立場だからこそできる政治活動というものもあったのでしょうか?


飯田哲也氏: 元々、学者という呼び方には違和感があって、社会イノベーターという方があっているかと私は思います。3.11前までは、原子力を大学院で研究していて、修士課程修了後は、神戸製鋼で原子力の物作りに関わるようになりました。その後、電力中央研究所で電気事業連合会や原子力安全委員会の仕事をしました。ですから国の立場と電力、産業界、それから学会というアカデミックの立場と、4つの角度から原子力を見ることができたので、ある意味でこの国の空洞さ、嘘っぽさのようなものを痛感しました。国の仕事というのは、霞が関文学という言葉があるように、文章の中の「てにをは」のような細かい表現を細工して、その「表現ぶり」で問題を解決したことにしているのですが、問題の本質は置き去りになったままであることが多い。だから現実の問題が、時間が経てば経つほど膨れ上がっていく。「原子力の技術そのものが大きな問題だから」ということもありますが、それ以上に、宮台真司さんが言うところの「嘘社会」のその裏側を見つくしてしまったということが今の仕事をしようと思った大きな理由なのです。現実に拘り、その現実をより良くしていく政策や活動をするために「原子力ムラ」から踏み出しました。

――3.11以降は、やはり大きな変化がありましたか?


飯田哲也氏: 3.11までずっとこだわってきたのは、現実に即した研究や政策提言、創造的な実践をすることでした。実際にできるのは提言の1%程度を含むものになってしまうことが多いのですが、その1%ができることで、スウェーデンのように政策や研究も変わってくるし、現実も変わっていくかもしれない。現実を少しでもあるべき方向に変えていくことに徹底的にこだわってきたのが3.11前です。「電気事業者による再生可能エネルギー電気の調達に関する特別措置法」、いわゆる固定価格買取制度が3.11の当日に閣議決定されたのですが、それは当時の菅首相が自分の首を懸けて成立させた法律なのですが、その最初の草案を1999年に作ったのは私です。12年越しの成立となりました。
そして、北海道で市民がお金を出し合ってデンマーク型の市民共同風車を北海道のグリーンファンドと一緒に作ったのは2001年。その後、地域の中でエネルギー会社を立ち上げて、地域の人がやっていくという「おひさまエネルギーファンド」も2004年に企画から立ち上げまで一貫して実践し、その後も一緒にやってきました。
そうした経験から言えることは、現実は矛盾の塊だということです。その矛盾の中で、現実を変えていくことの難しさと、そこから見えてくる面白さや可能性というものを積み上げてきた感じでしょうか。3.11が起きてから、エネルギーに関しては、今まで私が提言してきた方向への支持が増えてきたように感じます。

――山口県ではどのような活動をされているのでしょうか?


飯田哲也氏: 今までは先端の方の1%を動かすような仕事だったのですが、政治家や知事になってからする仕事というのは、全体を1ミリ動かしていくような仕事なのです。たとえば、先の都知事選で、自民党の河野太郎さんか小泉進次郎さんが立候補して、それを小泉純一郎さんが応援するという構図だったら、おそらく天地がひっくり返るような政界再編になっていたと思いますし、もし私が山口県知事選に勝っていたら当時の野党の安倍さんが自民党の代表になることもなかったかもしれない。そういう社会が変わるかもしれないピンポイントの可能性に賭けて、一昨年の山口県知事選に出たのです。
しかし、二回目は違います。3.11が起きて以降、一気に広がってきたのが、ご当地電力。これが今回、山口県知事選を見送った理由の1つでもあります。ご当地エネルギーがこの1年半~2年くらいででき上がってきたので、根こそぎ社会を変えていけるのは、ボトムアップの地域からのエネルギーだろうということで、そこを支えていくことが大事だなと思いました。加速度的な地域からのエネルギーの立ち上げが、今の私の仕事の7、8割くらいでしょうか。

――エネルギーの立ち上げ以外のお仕事とは?


飯田哲也氏: 新しい地域社会をかたちにしようという動きとして、山口ソーラーファンドを1年かけて作りました。世界中で売れている「獺祭(だっさい)」と並ぶ「東洋美人」という、すごくおいしいお酒があるのですが、その蔵元が去年(2013年)の豪雨で全壊被害を受けました。そこで急きょ、当時用意していた市民ファンドに寄付を組み合わせることにしました。市民ファンドで総額の2億円を集めたら2000万円くらいが寄付になります。市民ファンドに出資した方には「東洋美人」や地域特産のリンゴジャム、野菜などを送るよう計画しています。去年はそのお酒づくりのための完全無農薬の酒米作りもしました。食は地域の中でとても重要なので、「そこでしか食べられない」という最高のロケーションで、その地の地産地消の無農薬の食品を食べるようなコンセプトのイベントも企画しています。日本各地から10人限定で来てもらい、最高のお酒と最高のジビエを食べてもらったりするような、観光を兼ねた企画です。そうした新しい創造的な地域社会を、具体的なかたちにしていくことが私の仕事の残りの3割くらいでしょうか。
若く才能のある人が自分の考えや経験を世界に発信するためのチャネルを作ろうということで、ネットを通じて講演したりするTEDxのような企画も、これから山口で立ち上げようと思っています。国内外で地域からのエネルギーの立ち上げを支援しつつ、山口という拠点ではこれからの新しい地域社会、生活を形にしていくという、この2軸で活動しています。

中学、高校時代に見た社会の矛盾


――徳山市(現在の周南市)のご出身でいらっしゃいますよね?


飯田哲也氏: 小学校6年の12歳の夏までは自然溢れる中で暮らしていたのが、父親と2人暮らしをすることになって、町中に出て来ました。1974年の徳山というのは、コンビナートなどもあって大気汚染がひどく、町中に来て1週間で急性喘息になりました。父は当時、徳山市役所の公務員でしたが、私の面倒を見ながら仕事をするために異動願を出しました。それまでやっていた仕事ではなく、厚生施設というか、ホームレスのような低所得者を収容して住んでもらうための社会福祉事務所系の住み込みの管理人を志願したのです。それで中学、高校は徳山の街中(現:周南市)で暮らしたのですが、当時の徳山には朝鮮人学校があって、同級生にも朝鮮の人たちがいて子ども同士は遊ぶのですが、色々な意味で差別されていたように思います。労働者や部落のような人たちもいましたし、中須という田舎の牧歌的な村にはいなかった多彩な人たちを中学高校の中で見てきて、社会の中の矛盾というものを身近で感じました。

――本を読むのはお好きでしたか?


飯田哲也氏: はい。小学校の頃から本を山のように読んでいました。最初はシャーロックホームズやルパンなどの間口の低い読み物から始まったのですが、段々と古典的な小説やエッセイなどを読み始めました。中学・高校ではすごく哲学にはまって、高校の時は『三太郎の日記』や三木清やハイデッカーなどを読んでいました。社会問題を知りたいというか、「門前の小僧習わぬ経を読む」ではありませんが、とにかく読んでみようと思いました。

――大学へ進む時は、哲学の道を選ばなかったのでしょうか?


飯田哲也氏: 自由な校風に憧れて京都大学と決めていたのですが、基本的には理科少年だったので理学部へ進むことをまず考えました。科学の最先端をやりたかったので、遺伝子か素粒子のどちらかを選ぼうと思っていました。でもまだ貧しい時代で、高校の先生からも「就職ができるのか分からないから、工学部に行きなさい」と言われて、工学部の中でも一番理学部に近い原子力の方へ行くことにしました。当時は医学部よりも入試が難しいくらいで、原子核は20人しか定員がありませんでした。でも、ある意味チャレンジ精神が掻き立てられて「難しいなら入ってやろう」と原子核を受けることを決めました。でも、実際に入ってみると工学と理学部の違いに驚きました。工学部は産業界に奉仕するための学問という感じで、頭の中で理論を考えるよりも、実験をして結果を出すという部分が大きかったのです。友達は皆、山登りが好きな人ばかりで、梅棹忠雄や本多勝一など、京大の今西錦司から継ぐような学習サークルなどに入っていたりしました。学部は原子核工学という工学の世界にいながら、文化人類学や社会学の本を読んだり議論をしていて、頭の中は半分、文系社会学系という感じでした。

「この人生でよかった」と思える人生を歩む


――就職をする時は、どのようなことを考えられたのでしょうか?


飯田哲也氏: ちょうど全共闘世代が通り過ぎた後の時代で、宮台真司さんと同じ学年なのですが、全共闘世代を冷めた目で見ていました。だから就職した時は、頭の中で考えることや、山登りは趣味だと割り切って「生活のため」ということを考え、神戸製鋼に入りました。でも仕事をしていくうちに、本で読んできたことや、自分の1番ベースにあるエコロジスト的なものが合わさって、段々と妥協できなくなっていきました。志などという大層なものではないかもしれませんが、「自分の人生が閉じる瞬間に『この人生で良かった』と思える人生を送りたい」というのは小さい頃からずっと思っていました。スティーブ・ジョブズがスタンフォード大学の卒業スピーチで言った「毎日鏡の前で朝出る時に、これから過ごす1日、これから出る打ち合わせは、明日自分の命がなくなっても過ごすべきものなのかどうかを問うてきた」ということに通じるところがあるかもしれません。そういうことが常に脳裏にあったので、原子力ムラの中で矛盾ある内側を見て、「それを心の中に押し殺しながら人生を送っていいのだろうか」と30代になって考えた時に、原子力、日本、そして自分の人生でやってきたことも含めて、全部1度外から見直そうと思いました。

――スウェーデンに行かれたのも、そういった理由があったのですね。


飯田哲也氏: 自分に何ができるかも分かっていませんでしたが、実際に渡ってみると、目についていたうろこが何十枚もはげ落ちるような感覚がありました。自分にとっては本当に良い結果になったと思います。当時は先の見えない不安はありましたが、それよりも解放感の方が大きかったです。でもすぐに、自分がいかに肩書きの世界に生きてきたのか、と痛感しました。
電力中央研究所にいると、海外に行っても向こうの研究所や日本からサポートしてくれる商社などが全部アレンジしてくれましたし、20代の新人の頃には、英語もあまり上手くはなかったのに、国際会議でキーノートスピーチなどをしたこともあります。それで自分は仕事ができるつもりになっていたのです。でも、ただの飯田哲也一個人になった瞬間に、自分のアイデンティティとか、そもそも自分は何者なんだろう、自分は何ができるのだろうかと考え込みました。例えるなら、今まではガンダムの操縦をしていて、自分はすごく強いんだと思っていたのが、ガンダムを降りて一個人になったら、自分で力や人との関係、あるいは色々な成果などをたった一人から積み上げなければいけないということが分かったのです。解放感と無力感の中で「ここが出発だな」と改めて決意しました。

――チャレンジの連続ですね。


飯田哲也氏: 何かに挑戦するという姿勢においては、中学・高校時代に現実社会の底辺に近い世界を見たことも関係があると思います。電力中央研究所時代に国の委員会の中枢にいる時に、委員の皆さんが発言をしていることと、現実の社会の底辺とは距離があり過ぎると感じたので、そこをきちんと変えていくような政治、政策や技術あるいはビジネスをしないといけないのではないかということを考えました。多くの人は「トップの世界」の裏側を知らないので「上の人は良いことをやってくれているのだろう」と思っているかもしれませんが、実際はそうではなかったりするのです。そういった矛盾を常に頭の片隅においておきながら、自分ができることをやって積み重ねていこうと思って頑張っています。

本とは、「交響曲」


――本を出版することになったきっかけとは?


飯田哲也氏: スウェーデンに行っている時に、内橋克人さんから声を掛けられて、寄稿したことがあります。河合隼雄さんと内橋さんの共同編集の『現代日本文化論』だったかな。その中の「仕事の創造」という1冊の中で「一編書かないか」と声が掛かり、それが本になった最初のものとなりました。
スウェーデンで見聞きしたことを書いた『北欧のエネルギーデモクラシー』は、北欧、特にデンマークとスウェーデンの原子力と新しいエネルギーの両側の歴史と社会を全部書きつくしている本です。今は、その改訂版を出そうと思っています。それらに共通した軸は、環境やエネルギー、あるいは原子力ではなくて、「デモクラシーなのだ」ということ。10年間北欧で研究を重ねて、地域に入り込んで色々な人と会って、向こうの歴史を戦後の原子力開発の時から遡って、全部が立体的に見えるようになった時に初めて分かったのは、生きた民主主義というか、地域密着型のデモクラシーの結果として今の彼らがあるのだということ。それが私の博士論文のベースとなっています。論文はまだ途中なのですが、今は新評論の社長をしている武市さんが「ぜひこれを本にしよう」と言ってくれて、出版することになりました。

――どのような思いで本を書かれていますか?


飯田哲也氏: 1つは本のための本というよりは、現実社会をきちんと踏まえて、更に草の根の人も含めた人たちが、本を手がかりに動いていけること、といった現実とのインタラクティブな関係を常に意識しています。『北欧のエネルギーデモクラシー』に出ている人とは、この十数年ずっと付き合いを重ねて、今もお互いの関係性をどんどん発展してきています。本の中に閉じ込める関係ではなくて、その後も現実の付き合いを続けて、歴史を重ねて発展してきています。

――編集者というのはどのような存在だと思われますか?


飯田哲也氏: 新評論の武市さんは、旬のものを掘り出してくることにおいて優れた哲学を持った方で、堅実な良い方を発掘し、本を出し続けられていると私は思います。
編集者は色々なタイプの方がいらっしゃいますが、武市さんのように、こっちからボールを投げると立体的に戻してくれる方だとうれしいです。読み手であると同時に批評家、アドバイザーであり、そして、パートナーでもあります。著者を励ましつつ、その中で書き手が持っている一番大切な光を見逃さずに、上手に本まで導いてくるような役割を編集者は担っているのではないかと私は思います。
普通の論文などを書くのとは違って、本は交響曲を書くようなものだと考えています。単純な起承転結の時もあればそうではない時もある。全体の組み立てを見直してみると、それぞれの章の中の組み立ても変わりますし、場合によっては細かい記述も変わるかもしれません。その全体の流れについて、編集者と私とで共有できていると良いコンタクトができると思います。

――本を書く上で大切だなと思われているポイントはありますか?


飯田哲也氏: 武市さんが最初の頃に「文章を読んだ時に、映像が出ないとだめ。飯田さんの文章は、読んだ時に映像が結構出てくるね。」と言ってくれたのです。文章を読んだ時に、頭の中に絵がぱっと浮かぶかどうか、ということを考えながら、自分の文章を組み立ててきました。あと、1のものを1と書くのは簡単ですが、10のものを10書いたら複雑になってしまう。難しいことですが、10あるものを1に絞り込んで書くことを、心掛けるべきだなと私は思っています。

今は、次のステージへの移行途中


――電子書籍や広い意味でインターネットの記事などの可能性については、どのようにお考えでしょうか?


飯田哲也氏: リンクでどんどん色々なウェブに繋がりますし、動画も入れることができます。私としてはまだ読む方ばかりなので、まだまだこれから、「学びながら」という感じです。紙の本と電子書籍の両方が必要だと私は思っていますが、本には「ここだ」という厚みといった感覚があります。でも、電子書籍の場合は後で思い出したいと思っても、厚みがないので、「今この辺かな」ということしか分かりません。瞬間的に全体像が分かるという感覚の部分が、電子書籍において、本としては不足しているなと感じる点です。でもその代わりに、検索など電子ならではの部分があります。自分自身も文章の書き方がデジタル時代とアナログ時代とでは全く変わりました。シャープペンシルで書いていた頃は、最初の1行を書き出す時には10000字~20000字くらいならば、起承転結などは大体頭の中にあって、それを書き下ろしていくというスタイルで書いていました。今は、アウトラインをある程度作って文章にしてみて、重複するブロックを入れ替えて、という感じに書き方も完全にデジタル型になりました。同じように、電子書籍ならではの読み方、使い方というのも、電子書籍の進化と共に次のステージが開けると思います。今はその途中なのではないでしょうか。

――今後はどのようなことに力を入れていきたいとお考えでしょうか?


飯田哲也氏: 自分ができる範囲で、次の時代に向けてレンガを積むことができればいいなと思っています。スウェーデンで暮らして学んでみて、ヨーロッパの地域社会と日本の地域社会で違うなと思うところは、向こうは積み上げ型だということ。それを「ディスコース」という風に言います。環境の話で言えば、今となっては共通のコンセンサス(合意)となった水俣病の有機水銀説も、最初は色々な学説が出てきましたよね。次の新しい問題が出てきた時に、積み上げたコンセンサスをベースにして、新しい時代においても色々な仮説などを検証し、ルール、新しい政策を立てていくことが大事なのだと思います。今、原発に関しては、意見が真っ二つに分かれていて、両陣営が言いっ放しという状況のように思えます。そういった部分で、コモングラウンド(共通の理解)が全然積み上がっていかないというのが日本の難しいところなのです。現実そのものを作ってしまう方が早いのではないか、と思う部分もありますので、言論と現実の両方を作って積み上げていくこと。それが私の次の時代へ向けての使命なのではないかと思っています。



――今年はどのような活動をしたいと考えられていますか?


飯田哲也氏: 今、福島に、我々が一緒に立ち上げてきた会津電力があります。彼らも不安の中で始め、我々がアドバイスをしたりして、二人三脚で歩いてきましたが、今は皆、自信を持っているように感じます。「現代の自由民権運動だ」と彼らは言います。そういうパートナーが日本中に広がっていっているので、間違いなく良い形になると思います。
今年の3.11の会議が1つのキックオフとなり、日本中で地域のエネルギーに携わっている人たちが繋がる場をしっかり作るというのが、大きな目標です。地域社会は「自分たちで新しい価値をつくっていく」という方向へ、今、向かっていますので、山口で続けてきた新しい社会活動のステージをしっかり作っていきたいと思います。
原発の論争も大事ですが、明日に向けた未来をこれから刻んでいくことも大事だと私は思っています。短期的なものではないので、10年、20年、あるいは50年かかるその道のりがこれから始まるのです。原発もまた再稼働されるのではないかとか、貧困、格差の問題など、マイナスな要素が強く、今、時代が少し暗いと感じることもありますが、自分で新しいものを作り始めた人を見ると、自信と希望に満ち溢れているのが分かると思います。1人でも多くの人が、自分で自分の仕事を、自分の居場所で生み出すために、私は背中を押していきたいと思います。

(聞き手:沖中幸太郎)

著書一覧『 飯田哲也

この著者のタグ: 『チャレンジ』 『海外』 『研究』 『理系』

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
著者インタビュー一覧へ戻る 著者インタビューのリクエストはこちらから
Prev Next
利用する(会員登録) すべての本・検索
ページトップに戻る