外国語を学び、新しい視野を持ってほしい
青山学院大学、慶應義塾大学、ロンドン大学など6大学から6つの異なる分野の学位を取得。英語に精通しており、作家としてだけではなく、出版翻訳家としてもご活躍されています。また語学やITなどに関する100種類以上の資格を保有していることでも知られています。翻訳書は『7つの習慣 最優先事項「人生の選択」と時間の原則』、『天界と地獄』など。著書には『自分を磨け!』、『英語で身につける人生に必要な知恵』などがあります。今回は、外国語を学ぶ重要性、現在の道へ進むことになったきっかけ、学問を続ける理由などについてお聞きしました。
お金を稼ぐことだけが仕事ではない
――多くの資格を保有するなど、様々な勉強をされているそうですが、最近はどのようなことをされているのでしょうか?
宮崎伸治氏: 31歳の時にデビューをしてからおよそ10年間に50冊ほどの著訳書を出しました。40歳を過ぎた頃からは、もっと勉強しなければいけないという思いから、金沢工業大学、慶應大学、ロンドン大学、日本大学と色々な大学に入って勉強をしました。今はロンドン大学の神学部で勉強をしています。ですから、ここ4、5年はお金を稼ぐという意味での仕事はあまりしていません。仕事というと、ほとんどの方は「お金を稼ぐこと」と捉えるかもしれませんが、仕事には自分を磨くという側面もありますし、社会に貢献するという側面もあります。たとえば、ボランティア活動などは、お金は入りませんが社会に貢献するという点では立派な「仕事」です。ですから必ずしもお金儲けをしていなければ仕事をしてないということにはなりません。私の場合は、41歳ぐらいからはお金を稼ぐという仕事よりも自分を磨くという仕事、つまり学問をしていたわけです。そして去年の暮れぐらいに、社会に貢献したいということで、「ソフィア・外国語研究協会」を立ちあげました。その準備が忙しいこともあって、著書、訳書は4、5年ほど出していません。
――ソフィア・外国語研究協会では、どのようなことをしているのでしょうか?
宮崎伸治氏: この協会は、お金を稼ぐということではなく、自分のミッションとしてやっていきたいなと思って作ったものです。「ボキャブラリーコンテスト」を主催しているのですが、これからは英語、ドイツ語、フランス語の教育にシフトしていこうかと思っています。
神の声とエッセイ投稿が導いた、翻訳家と作家への道
――小さい頃から、作家、翻訳家になることを夢見ていたのでしょうか?
宮崎伸治氏: いえ、小さい頃は全く考えていませんでした。子供の頃に書いた将来についての作文には、「私は他人に迷惑の掛かるような人間だけにはなりたくない」というようなことしか書いていませんでしたね(笑)。
でも、中学校の時から英語だけは得意だったので、英語を生かせる仕事に就きたいということだけは思っていました。もし自分の本が出せないのであれば、素晴らしい本を翻訳して出したいなという思いもうっすらと頭の中にありました。青学の国際政治経済は英語の授業が多かったので、「英語力を伸ばすにはここが最適だ」と思い、進学先を決めました。20代前半はずっと大学職員をしていたのですが、その頃に英語の力を磨いて、27歳の時に産業翻訳家になるという形で翻訳の仕事を始めました。イギリスの大学院に30歳の時に行ったのですが、本格的に作家や翻訳家になりたいという気持ちが芽生えたのはその頃です。
――シェフィールド大学の大学院ですね。
宮崎伸治氏: その2年間は、一生の宝だと思っています。
イギリスは国として魅力がありますし、産業翻訳家をやっているうちに「一生涯錆びつかない英語力を身につけよう」と思い、意を決してシェフィールドへ行きました。その頃は、将来、出版翻訳家や作家になれるという自信は全く無かったので日本に帰った後のことを考えて、毎日毎日英語の本を読んでいました。そんなある日、『 7つの習慣』を読んでいたら、私の中に神が降りてきました。「あなたはこれを日本語に訳して出版しなさい」と言われたかのように、体全身の細胞がビビビっと反応しました。それで「私は出版翻訳家にならなきゃいけないんだ」と。それ以外の道はないんだといったインスピレーションが降りてきてしまったのです。
――作家になろうと思ったのには、何かきっかけはあったのでしょうか?
宮崎伸治氏: 日本とは文化が違うので、イギリスでは色々なカルチャーショックを受けました。その気持ちのやり場がなかったので、日本人向けに発行している新聞にエッセイを投稿するようになったのです。段々と投稿を載せてくれる機会が多くなり、投稿の謝礼もくるようになりました。それでどんどん書き始めたところ、「エッセイを連載してもらえないか」という話がきたのです。私は、自分のフラストレーションを吐き出すために書いているだけだったのですが、それが人から見ると「面白い」、「興味深い」と、共感を呼んだのです。それで「作家になろう」と思いました。
――日本に帰ってからも、その思いは変わらなかったのですね。
宮崎伸治氏: 日本へ帰ってきてから、色々な出版社に売り込んでいきました。『7つの習慣』の翻訳に関しては、第一弾は出ていて、「第二弾、第三弾はもう翻訳者が決まっているから、もう来ないでください」と言われていたのですが、その後出版社側の方針が変わり、私が第二弾を訳すことになったのです。
そうして徐々に、連載をもらったり、本を出版するようになりました。それが続いて、40歳になる頃には50冊ほど出していました。一番多かった時は、1年間で9冊ほどの単行本を出しました。30歳の頃は、自分が本を出せるとは思っていませんでしたし、1冊出せればいいかなという感じで考えていたので、自分でも驚いています。