大学時代は、「松・竹・梅」でゴーストライター?
――B型気質の大嶋さんの大学生活が気になります。
大嶋利佳氏: 私の場合、気に入った先生の授業には出席して、あとは図書館にいました。授業以外では読書が多くて、文芸科でしたので読書して論文や評論を書くという、その繰り返しでした。今からもう30年以上前の話で時効だから言いますが、同級生の論文も随分と手伝いましたね(笑)。松・竹・梅の3コースで料金表をつくって、“優”がほしい人は「松」、“可”でいい人は「梅」コース。そうやって1つの課題で毎度5人分くらい手伝っていました(笑)。
――同じ課題なので、書く時は工夫が必要だったのではありませんか?
大嶋利佳氏: 論述文ですから、ロジックというか、視点、切り口を変えるようにしていました。例えば、Aという作家に関してならば、代表作についてとことん語っていくのか、生い立ちについて語っていくのか、交友関係や師弟関係について語っていくのか…というように視点、切り口を作っていけば論文を10何通りも書くことができます。現在の私の本は、ビジネスマナーやメール、あるいは電話といったように、いわゆるビジネス書が多いのですが、同じビジネスマナーでも、大学生向け、新人向け、中堅向け、上司向け、経営者向けなど、いくらでも切り口を変えることができますので、私が冊数を重ねてこられた理由の1つがそこにあるかもしれません(笑)。
会社勤め、アルバイト、自費留学。多くの経験が、やがて「書く」仕事へ。
――大学卒業から、「書く」仕事に就くまで、留学も含め様々なご経験をされていますね。
大嶋利佳氏: 卒業後は、今で言うフリーターのような生活がしばらく続き、会社に勤めては「これは私のやることじゃない」と思って辞めていました。でも、小さな頃からの書く仕事に対する思いはずっと持ち続けていましたね。
「芸術哲学、文学の源流はドイツだ」ということで、当時の西ドイツにトータルで9ヶ月ぐらい語学留学に行き、そのときの語学学習の経験を活かして、20代の後半には日本語学校の教員になりました。その後、第1回日本語教育能力検定試験に合格しまして、専門学校の教員を経て今の仕事へと繋がっていきました。日本語学校に勤めていた頃は、夜はクラブでホステスをして、お金を貯めて海外に留学しました。当時はとにかく元気でしたね(笑)。水商売の経験は本当に勉強になりました。いいお客さん、ビジネスの世界で高い地位にあり、活躍されている方々に、きちっとお話をしてお仕事させてもらうためには、こちらも話題の引き出しや、教養がないといけない。そのためにも読書経験が役立ったように思います。
――色々な経験が、全て繋がって今があるのですね。
大嶋利佳氏: そうかもしれません。日本語学校で働いた経験も役に立ちました。日本語学校の授業は、初級クラスから全部日本語で行うのですが、そこで「失敗したな」と思ったエピソードもあります。ある日、女子学生に、「その服、かわいいじゃない」と言ったら、二度と口をきいてくれなくなってしまった。私は洋服をほめたのですが、日本語が満足に使えない彼女にとっては「じゃない」は否定を表す言葉だったのです。そういうコミュニケーションの行き違いをいくつも体感して、“いかに誤解されないで話すか”ということにすごく神経を使うようになりました。その経験が後に研修講師になったときに、また原稿を執筆する時に、役に立ちました。お陰様で「講義が分かりやすい」とか、「文章が読みやすい」などと、お褒めの言葉を頂きます。
――様々な経験が、本の執筆にいよいよ活かされる時が来ます。
大嶋利佳氏: 今でもそうですが、私が研修講師として独立した頃も同業者の数が多く、玉石混淆という感じでした。その中で社会から評価してもらうために一番強い媒体なのは、やはり本なのです。研修講師業や経営コンサルタントに関しては、著作があるかないかでランクが違うし、ギャラも違ったりします。著作があると、信頼感なども全然違います。だから研修講師業でやっていくためにも、本の出版は非常に重要なことでした。しかも、自費出版じゃなくて商業出版でより多くの人に届けなければいけません。話し方の本『「話し方のプロ」の話す技術』の出版にこぎつけたのは、2002年のことでした。
著書一覧『 大嶋利佳 』