何に情熱を傾けるか、時間を忘れてやり続けられることを探そう
國學院大學神道文化学部教授である、井上順孝さん。近現代の宗教運動の比較研究、宗教文化教育を中心に研究をすすめられています。研究の成果は多くの著書にまとめられています。宗教学との出会いから、情報化社会における情報の適切な取り扱い方を、担当するゼミでの模様を織り交ぜながら、語って頂きました。
情報に対する判断力を身につける
――後ろにあるのは全部、映像資料ですか?
井上順孝氏: そうですね。自分で動画を撮ったりして、記録しているものです。学生に本を読ませるのも大事なのですが、写真や動画というのはインパクトがありますから、講義の中で使用しています。8ミリの映写機があった時代から、ずっと自分で撮っているので、それを編集したものを用いることもあります。いつの間にかビデオがHi8(ハイエイト)、ハードディスクカメラと変化し、デジタルの技術は、どんどん新しいものを生み出していきます。講義で使うデバイスも、その都度最新のものに変えます。
「昔はこうだったよ」と言ったところで、結局は目の前にあるものが第一。でも、最新のものばかり追いかけていてはダメです。ネットの情報の場合、「Wikipediaは便利だけど、こんなに間違いがあるよ。ほぼ正しいけど、あちこちに間違いがあるから実は厄介だ」というようなことも、話すようにしています。ゼミには、昼と夜、それぞれ30人近く居て、院生が10名ちょっと。論文指導を全部やらなくてはいけないので、なかなかエネルギーを使いますよ。
――ネット情報の望ましい取り扱い方とは。
井上順孝氏: まずは事典や辞書を読んで、そこそこの基礎知識を身に付けてから、ネットの情報を使いなさいと言っています。それが逆になると、情報リテラシーの問題が出てきます。事典辞書などは多くの人が長年かけて関わって作られるもので、出版後は修正がきかないものです。そういう取り返しのつかない責任感があって作られたものと、その日のうちに何度でも書き換えられるようなネットの情報とでは、やっぱり重さが違います。そのことをよく理解してほしいのです。
私もネットは使いますが、専門家だから、目前の情報が正しいかどうかの判断がつきます。ネットは、自分の得意な分野でこそ役立つのです。研究者が長年かけて作ったような辞書や、教科書のように概論的にきちんと書かれたものに一度は目を通した方がいい。大学や官公庁のホームページは基本的に本と同じレベルで作成しようとしているので、一応信用していいと思います。
ただ検索だけを繰り返しても、基礎力はつきません。ネットは手軽で便利だけど、そこに大きな落とし穴があるから、新聞記者でも大恥をかくことがあるのです。鵜呑みにしてしまったり、挙げ句の果ては、著作権侵害をしたりなどということまで、現実に起こっていますよね。参照元のURLや閲覧時刻、本であれば引用してきたページ等を明記しなければいけません。基礎力と情報は車の両輪なので、どちらかだけではダメ。その両方を補いながらどんどん高めていくのが理想的ですね。だから学生には、そういったことを知って、学んで欲しいのです。
――情報の扱い方を教えることも重要なのですね。
井上順孝氏: 今は、そういった面で教師の役割が重要な時期なのだと思います。情報時代が分からない先生は、「本だけ読んでいればいいんだ」と言っていますが、そういう先生は、学生が提出してきたレポートの出所が、ほぼネットだけを見て作ったものだとしても、それが分からなかったりするのです。
私は、紙しかないような時代からやってきているからこそ、それがどう変化したかということをきちんと伝えなければいけないと思っていますし、それが我々の年代の役割だとも考えています。しかも、学生には抽象的に伝えるのではなく、具体的に見せながら伝えないといけません。例えば、Wikipediaのあるサイトをスクリーンに映して「おかしいところはないか?」と言って、間違いを見つけさせるわけです。Wikipediaの情報の中には、正しい箇所もありますが、名前や単語、あるいはキーワード自体が間違っていることもあります。学生がそのまま使ったら大変なことになりますよね。
「面白いところ探し」のため、乱読した
――ネット以前の時代、井上先生はどのように情報に触れ、取り入れてきたのでしょうか。
井上順孝氏: 鹿児島の出身なのですが、小学校1年生の頃から本を読むことがすごく楽しみな子どもでした。もちろんルビは振ってありましたが、家にあった漢字混じりの本を読んだりもしていました。そうやって、いつの間にか漢字に慣れたように思います。ただ、家にある本の量はそれほど多くはなかったので、マンガも繰り返し読んでいました。小学校高学年の頃には、図書館で本を借りることが習性になっていました。でも1番本を読んだのは中学生の頃だと思います。
伝記、小説、ノンフィクションの類から、自然科学系のものなど色々な本を読みました。学校の図書室は1日3冊までで、市立図書館が1冊。4冊借りて、次の日返すというような読み方をしていました。「何か、面白いところはないかな?」という感じで、面白いと思うところを探しながら、飛ばし飛ばし読んでいました。本を読んで、それが身に付いたかどうかは分かりませんが、結果的には「活字が苦にならない」という効用はあったと思います(笑)。
鹿児島の川内高校というところに通っていたのですが、高校の時点で、教育に関しては割と関心がありました。「小学校や中学校の先生になれたらいいなあ」と思っていましたので、大学まで進みたいと思っていました。そこからは乱読がだんだん減ってきて、ジャンルを絞ってやる、いわゆる勉強というやつに、だんだんとシフトしていきました。受験勉強をし始めたのは、高校2年の夏ぐらいからです。今は宗教学なんかをやっていて、どこから見ても文系のようですが、実は私は、完全な理系だったのです。
――それは意外でした。文学部卒だったと記憶していますが……。
井上順孝氏: 高校の時に得意だったのは、数学、化学。苦手だったのが英語や社会。先生からは最後まで「理学部、工学部を受けろ」と言われていましたが、私は「哲学をやりたいから」と文学部に進んだのです。でも、私は完全に哲学を誤解していたというか、今から思うと、私がやりたかったのは科学哲学。だから、ソクラテスやプラトンについて学ぶなんて、全然、考えてもいませんでした。だから、大学に入ったあとでガッカリしましたね(笑)。
――大学生活はどんな感じだったんでしょうか。
井上順孝氏: 2年のとき最初に受けた哲学の講義が、「ドイツ語でハイデガーを読みましょう」という内容だったので、「ついていけない」と思いました。それで、宗教学の方に。宗教学は色々な宗教について学んでいくので、抽象的ではなく、具体的にやります。理系でいえば実験をするようなものだから、具体的なものにアプローチしていきます。東大は割と調査、実証系の人もいて、お祭りや教団の調査もやっていたから、「これだったら面白いかもしれない」と思ったんです。
私は数学も好きだったし、宇宙の法則のようなものが好きなのです。哲学には存在論とか認識論とかあり、宇宙の法則とかそういうものは、私的には数学に近いという感じがあります。今は認知科学に関心を深めているので、結局自分の思い描いていたものからは外れていなかったんだなと思います。
――それが現在の研究のテーマにつながっていくのですね。
井上順孝氏: そうですね。その後、研究を続けるために大学院へと進むのですが、きっかけは大学紛争でした。大学がロックアウトになってしまって、研究が出来なくなってしまった時に、「自分は研究が好きなんだな」と、無くなって初めて気が付きました。一方で悩みもありました。大学院に入れば、ほかのみんながすぐ稼ぎ始める一方で、自分は奨学金をもらったり、バイトをしたりという、経済的な意味ではすごくキツイ生活になります。私は学部時代から仕送りをもらわず、ずっと自立していたのですが、早く親に楽をさせたいという思いがありました。
自分が情熱を注げるものを見極めること。
――どうやって学費などを稼いでいたのですか。
井上順孝氏: 寮に入っていたので、奨学金と、足りない分はふすま貼りとか家庭教師などのバイトをしていました。大学院に入るか、かなり悩みましたが、最終的には「やりたいことをやった方がいいや」という結論に至りました。親も、「経済的にはキツイので、大学からはもう出せない。自分でやるなら、好きなようにやりなさい」という感じだったので、やることについては一切、口出しはされませんでした。それはありがたかったですね。
――自分がやりたいことを見極めることが重要なのですね。
井上順孝氏: 学問は道楽みたいな部分があると私は思うのです。奇心がないと学問はつまらないので、研究者になる人は、そこに関しては本当に見極めた方がいいと私は思います。好きなことというか、自分が解決したいこと、明らかにしたいことがあるわけじゃないですか。それにじっくり取り組めるという環境があるのは、贅沢です。その過程を学生たちに話したりして、みんなと共有したりするわけですから、いい職業だなと思います。だからこそ、一生懸命調査したり本を読んだりして、基礎力を高めてから人の前に立つという、訓練期間のある制度になっているのは当たり前。“何に情熱を傾けるか”というのは人それぞれ。時間を忘れてやり続けられることを、自分で見つけるしかありません。
宗教文化に対する意識を変えたい
――情熱を傾けたものが本にまとめられることで、我々も読むことが出来ます。
井上順孝氏: 研究者には、業績というか、「自分はこの研究をしています」というアピールをしないと認められないという部分があるので、そういったことにエネルギーを注いだ時もありました。そういう面は今でもありますが、ある時期から、「自分の研究の中で何が1番伝えたいことなのか」と考えるようになりました。
日本の多くの人は、宗教に対してかなり偏った見方というか、あまり知らないのに敬遠していて、食わず嫌いに近いようなものを持っているのです。それを少し変える必要があります。もう少し宗教をフラットに見て、それを基盤に色々な議論ができるようになればいいなと、ある時期から概論書も書くようになりました。宗教の本には、すごく固くて専門家以外分からないという専門書もある一方で、「仏教はいい」「キリスト教はいい」「スピリチュアルはいい」といったように、特定の立場からのプロパガンダに近いような本も結構あるわけです。
一般書にも、きちんと距離感を保った上で、読んだ人が「なるほど」と思うような見方もやっぱり必要だと私は思っています。宗教界の内部のこともそこそこ分かっているし、外部の人がどう見ているのかも色々な調査から分かっている。その上で、「研究者がどの程度の情報を提供するのがいいのかな」と考えます。最近、宗教文化教育をずっとやっているのも、そういう思いがあるからなのです。
――『図解雑学 宗教』では、子どもから大人まで幅広く読めますね。
井上順孝氏: 最初に図解をやったのが、その本で、それまで講義していた内容をもとに本にしました。あの本に描いてある図は、手描きのものが元となっています。専門家や他国の人にも色々と話を聞いたりして、イラストレーターにも細かく指示しました。図を間違うと宗教についての間違いになるので、とても重要です。写真の場合も適切なものを提供しなくてはいけません。
もちろん、テキストはテキストの重要性があります。一言一句、「これは原典と違っていないか」というように注意を払うのと同様に、イラストを描く場合でも、可能な限り注意を払うべきなのです。
私の性格上そういう部分には、結構こだわるんです(笑)。遊んでいる部分と、「ここは正確でなければいけない」というところがあるのです。
“絵にする”ということは、実はごまかしがきかない。たとえば「イエスが神々しい姿で現れた」というのは、文章では書けるけれど、それを実際に描くとなったら、どんな服を着ているのか、どんな表情をしているのか、どこが神々しいかといったことを決めなければいけない。そこに「多少なりとも学術的な成果を」となるとさらに難しいですよね。
研究成果を社会と共有するのは当たり前のこと
――本が出されるまでには、いろいろな想いがあるのですね。
井上順孝氏: 「売れるかどうか」よりも「何を伝えるか」が、研究者である私には重要なのです。もちろん両方が合致するような本を、編集者と作っていければ幸いですが、部数で勝負という出版社や編集者もいます。そういったところからは「これだと売れません」というような形の注文をされることもあります。だから今は「ベストセラーみたいなものを作りたい」と思っている会社からの話は、基本的には受けないようにしています。
書き手の意図はどういうものなのか、はたしてこれで世に問うていいのかという判断が、出版社側にも必要ですよね。「この人は有名だし出せば売れる」という売り方も正直ありますし、「ベストセラーを作ってしまえばあとはどんなものでも売れる」というような法則で実際に世の中が動いていますよね。でもそれをやってしまうと、もう研究者ではなくなると私は思っているのです。研究者も色々なタイプの人がいて、一般向けに書いたとしても研究者のスタンスを崩さないという人と、「売れるのならば……」、という感じの人。でも、「あの人が書いたものを信用していいかどうか」という部分は、研究者仲間には分かるわけです。ただし、それを一般の人に求めるのは無理といっていいでしょう。
――学術書ならではの難しさ、そこに編集者の役割があるように思います。
井上順孝氏: 一般向けの本のために、良心的な編集者や出版社が残ってほしいですね。そうでないと悪貨は良貨を駆逐するという感じになってしまうかもしれません。専門書はどんどん電子書籍などになると思いますし、私はそれでいいと思っています。これから専門書は、基本的にはデジタルで出そうかなとも思っています。博士論文などは、基本的に、「100部とか、200部、買い取ってください」という条件で出すので、印税は入りません。それだったら、最初から電子書籍にした方が売れるし、色々な人に読んでもらえますよね。その方が学術的には意味がある。学術書は儲けるためのものはないので、電子書籍に推移していいと私は思っています。共有すべき知識を一般に出して、それをみんなが享受する。そのために色々と研究費をもらったりしているわけですから、還元して当たり前なのです。今、日本宗教学会の会長をしているのですが、『宗教研究』という年4冊刊行するうちの1冊は大会紀要号だから、別に紙にする必要がないと考え、電子化して一般の人もタダでダウンロードできるようにしました。
色んな人の目に触れる事で、研究は進んでいく
――本、教育を通じて、「今の日本のここを変えたい」と思われていることはありますか。
井上順孝氏: さきほど言った、広い視点から見て理解する力を養成したいです。それから研究者が本来の力を発揮できるような研究システムを作ること。自己点検などが流行していますが、実はものすごいロスになるのです。そのために教員が時間を割いて、それで一体何が変わるのか。「その時間、エネルギーを教育や研究に注いだ方がいい」という想いがあります。自由競争をしろと言いながら、予算獲得のための文章作成に頑張ったところに分配するという、アメとムチのような文部行政は、私は好きではありません。研究教育以外の事務的な仕事をどんどん増やしたことが、結果的には国際的な競争力を削いでいますよね。本当に日本の教育レベルを上げたいと思ったら、今のような方法をとらないのではないでしょうか。長い目で見て、やっぱり今のままでは、人が育たないと私は思います。
――信念の不在という印象も受けますね。
井上順孝氏: 例えば、「日本社会を良くするんだ」という表現があった時に、良くするというのは、どういうことなのかを考えないといけません。お金の話なのか、それともみんなが生きがいを持つことなのか、それとも貧困の問題などが少なくなることなのか。そうやって考えていけばその人なりのビジョンが出てきて、次第に具体的な案が出てくる。次に「これは果たして実現性があることなのか」と考えます。コンペティションにもなるでしょうし、そうやって議論していく中で、「やっぱりこっちがいいか」という風に進むのならばいいのです。だけど今の教育情勢に関しては、どういうビジョンがあって、どこに進みたいのかがよく分かりません。競争力と言うけれど、なんのためのベスト1なのか。「グローバル化に対応せよ」と言っているけれど、どうなることがグローバル化への対応なのか見えづらい。「これが正しい」という1つを提示することは無理だとは思いますが、その時々で、それぞれの立場から、「これが良いのではないか」というアイディアと、それに対する具体的な提案が並び立つことによって、1歩進むことができるという風に私は考えています。そうやって持ち寄って、多くの人が「これだ」というものを重視するのがいいのではないでしょうか。そのプロセスをたどれば、ベストではなくても、ベターなものがいくつか出てくると私は思います。
――やるべきことはたくさんありますね。
井上順孝氏: 今まで自分に少し欠けていたなと思うのは、聞いている側からの視点を取り込むという部分。インターネット社会になってから、常に意見を交換し合う手段が格段に充実しました。あちこちに広がって「自由にやりましょう」というのは、それでいいと思いますが、発信したものに対して、もう少し責任を持って、真剣なリプライに対して答えていくという仕組みを作らなければいけないと思っています。Twitterで色々と発信している研究者もいますが、仲間内で「いいね!」をやり合っているようではいけません。もっと生産的な、色々な人との情報交換というようなものを、どうしたら実現できるのか。それが今の個人的な課題です。
――紀要を電子化して公開したのも、その1歩ですね。
井上順孝氏: そうですね。理科系の人と話している時に、「欧米ならば、研究しようと思ったらネットで最近の研究を全部調べて、その上で成されていないものを見つけ出していくんだ。だから、結果をアップするのは当たり前。」という話をかなり以前に聞きました。考えてみれば研究においては、それは普通ですよね。これは確かにいい知見だと思ったら、それを踏まえた上で自分のものを出していく。そのためには成果はできる限り広く公開した方がいい。日本語が読める人はそれをベースにできるし、英語ベースにしたい人は英語文献を見ればいいのです。
情報は仲間内で使われることも多いのですが、それが違う分野の1人に発信されることにより、発展する場合もあります。ネットだと色々な分野の人が読むので、その可能性もすごく大きいと思います。去年の学術大会でやった、「ネットワークする宗教研究」という講演内容をもとに8月に『 21世紀の宗教研究』というタイトルの本にします。講演してもらった国際比較神話学会の会長のWitzelさんと、長谷川眞理子さんという進化生物学者の方。そしてもう1人、京都大学でキリスト教神学をやっている芦名定道さんに執筆してもらいました。私は企画者として冒頭に書き下ろしの文を加えました。宗教研究は、生物学、さらに脳科学の進化など、色々なものに目を向けるべきだといった内容となりました。「私たちの学会でやっている最新の議論はこうなんです」とネットにアップして、関心のある人が見ることができるようにすること。そういう風に掛け合わせることによって、とんでもなく面白いものができるかもしれません。
(聞き手:沖中幸太郎)
著書一覧『 井上順孝 』