橋本淳司

Profile

学習院大学文学部卒業後、出版社で書籍編集の仕事に携わった後、ジャーナリストとして独立。水の課題を抱える現場、その解決方法を調査し、さまざまなメディアで情報発信している。国や自治体への水政策の提言、普及啓発活動などを行う。参議院第一特別調査室客員調査員、東京学芸大学客員准教授など歴任し、水循環基本法フォローアツプ委員もつとめる。 著書に『いちばんわかる企業の水リスク』(誠文堂新光社)、『通読できてよくわかる 水の科学』(ベレ出版)、『日本の地下水が危ない』(幻冬舎新書)、『67億人の水』(日本経済新聞出版社)など。

Book Information

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「伝える」×「つなげる」×「育む」



水ジャーナリスト、アクア・コミュニケーターとして活躍されている橋本淳司さん。国内外の水問題とその解決方法を取材し、水をテーマにしたルポルタージュやエッセイを執筆されています。また、子どもや一般の方を対象に水の大切さなどを伝えるための水の講演「みずのほし みずのはなし教室」活動なども行なっています。「伝える」×「つなげる」×「育む」活動を通じて、地域の水課題の解決を図り、持続的な水利用のあり方を訴え続けている橋本さんに、“水”との出会い、自分の進む道を決めた「心に響いた言葉」、そして水を通じて世の中に伝えたいメッセージを伺ってきました。

問題解決のための相互理解を促す


――水ジャーナリスト、アクア・コミュニケーターの活動について伺います。


橋本淳司氏: 最初は水の問題の解決方法を、書籍など色々なメディアで発表するという仕事をしていました。「水の問題に特化したジャーナリスト」ということで“水ジャーナリスト”という名前がつきました。そのうちだんだんと、水問題の内側のお手伝いをしたいと思うようになり、解決策を提示したり、合意形成や相互理解をサポートするファシリテーションをしたりするようになりました。

そういった話を、久米宏さんに話すと、「それはジャーナリストの仕事の範囲を超えているんじゃないの(笑)」と言われました。なるほど、「ある野球チームを取材している番記者が、取材をするだけではなく、ボール拾いや選手のマッサージをしているようなもの。ジャーナリストならば一線を引かないと」と思いました。

それで別の名称で仕事をすることにしたのです。水の問題では、コミュニケーションをうまく取れないことが、問題をより複雑にしていることもすごく多いのです。それで、コミュニケーションを円滑にしたり、解決に向かって一歩進めるような仕事をしようという意味を込めて“アクア・コミュニケーター”という名前にしました。よりわかりやすく自分の活動を説明するための名前なのです。「わかりやすい」ということは、大事ですよ。

――問題解決には、相互理解は欠かせませんね。


橋本淳司氏: 相互理解の欠如が不安や恐怖を生み、対立の大きな原因になります。水問題の場合「地下水の状況がわからないから、不安だ」という地域住民の不安が、行政だったり事業者に対する疑心暗鬼につながり対立を深めていってしまうこともあるのです。その不安を少しでも緩和しながら、お互いに歩み寄るためのサポートをしています。



恐怖の水、優しい水


――水問題に取り組むことになったのは。


橋本淳司氏: 実は僕、水が怖かったんです。昭和42年生まれなのですが、その頃は全国的に川がきれいではありませんでした。僕は群馬県館林市の出身ですが、まちの中を流れていた鶴生田川という川も汚くて、そこには、鉄板をただ渡したような、手すりもない橋が架かっていました。親父から「橋を渡れ」と言われたのですが、僕はへたり込んでしまいました。親父としては、勇気試しのつもりだったのかもしれません。父は「利根川の源流の一つを探し当てた」というような山男で、平地の川でビビっているような息子がはがゆかったのか「自分はこんなに渡れるぞ」と、僕に見せつけるようにケンケン跳びで橋の上を跳ね回っていました(笑)。さびかけの鉄板がギイギイと音をたてるので、すごく怖かったです。それで、逆に水に対する恐怖感を募らせてしまって……当時は河童も信じていたので「落ちたら、異世界に行ってしまう」と地獄の入り口のようなイメージを持ってしまい、さらに近づきにくくなっていました。

――そのトラウマを克服することができたのは。


橋本淳司氏: 祖母の言葉がきっかけとなりました。父が亡くなった後、祖母の家に預けられたのですが、そこは利根川の支流の1つである、早川の傍にありました。目の前に橋がありましたが、例のごとく怖がって橋に近づくことはありませんでした。それを見かねた祖母が、僕を川に連れて行ってくれて「大丈夫。水は勇気のある、優しい子どもの味方だ」と言ってくれたんです。当時、おふくろは祖母の家から少し離れた専門学校に通っていたのですが「お母さんは、この川の流れて行った先で勉強している」とも言われ「川は色々なところを流れて、それぞれをつないでいる」というようなイメージへと変わり、それからは平気で遊ぶようになりました。

――愛情のこもったフォローが、効果を発揮したわけですね。


橋本淳司氏: 時に厳しくも、愛情豊かな人に恵まれていました。大叔父もそんな一人でした。渡良瀬川の上流にある田中正造が告発した足尾銅山に連れて行ってもらった時のことです。そこにある川は、青と緑という今までに見たことのない色をしていて「これが、鉱毒なのか」と思い、大叔父に確認しました。すると「そうじゃない。自分で調べなさい」という答えが返ってきます。簡単に教えてくれず、まずは自分で調べることを促してくれるような人でした。逆上がりができない時は「できるまで、ぶら下がっていろ」というメッセージを残して去っていったこともありました(笑)。でもそのメッセージのおかげで、逆上がりができるようになりました。子どもに対する言葉としては、少々手厳しいですが今は感謝しています。

心に残る二冊の本


――さらに水への興味が深まっていったのは。


橋本淳司氏: 父は読書家でもあったので、本棚には色々な本がありました。『寺田寅彦全集』の中に『茶碗の湯』という、目の前の茶碗から湯気が立ち上るところを見ながら、水の循環について説明をしている話があります。この話はとても印象深く「水は透明だけど、実はいろんなものを溶かし込んでいて、蒸発してまた雨になるのだ」という漠然としたイメージがわいてきて、それから水に対する興味がどんどんと涌いていきました。小学五年生の時には、そういった本を写経するかのように漢字練習帳に書き写していました。宿題の漢字練習はほったらかして(笑)。

図鑑を写して先生に提出したときに、その写経の理由を尋ねられました。「渡良瀬川の水色を調べていくうちに、こんなことになっていました」と説明すると、先生は「ノートに書いていたら友達には見せられないから、これにまとめなさい」とA4用紙を三枚、僕に渡してくれました。そして、教室の後ろの壁に「一枚レポート」というコーナーを新設してくれたんです。貼り出されると、わりと好評でした。興味を持った事象について本を読み、調べてまとめるという今の仕事に繋がる最初の出来事でした。

――「書いて伝える」という仕事を意識したのも、この頃からでしょうか。


橋本淳司氏: その頃の夢は、宇宙飛行士か新聞記者だったかな。中学生の時に『世界の湖』という本に出会ったことで、さらに方向が定まることになりました。図書館で見つけたその本には、カナダのレイク・ルイーズという、とてもきれいな湖が載っていました。「これも青緑だ。ここに行きたいな」と強く印象に残り、そこは大人になって取材で行くことになりました。バンフからジャスパーというところに行って、そこから馬に乗って、カナディアン・ロッキーを7日間ぐらいかけて縦走するという取材をしたのです。その時に馬から「あれだ!」と。非常に興奮して、それからはより一層「森に行って水に出会う」ということが、楽しみになりました。『世界の湖』と『寺田寅彦全集』、この二冊に出会えたことが、僕の今の道に繋がっているのだと思います。

「突撃!隣の浄水場」



橋本淳司氏: 寺田寅彦の文章を読み進むに連れて、次第に言葉に興味を持つようになっていました。当時の僕は日本語教師を考えていたので、学習院大学の文学部に進みました。大学生になり、荒川区の東尾久に住み始めたのですが、その時に“激マズの水道水”に出会ったのです(笑)。文学の道はそっちのけになるほど、インパクトの強い出来事でした。1980年代の後半の頃で、おそらく東京の水が一番まずかった時代で、水道水は金魚鉢の匂いがしました。東京の友達は水に対してあきらめムードでしたが、僕は「場所によって、ずいぶん水の味って違うんだな。色々なところへ行って、飲んでみよう」と考えたのです。そうやって、水源や浄水場に行くという日々が始まりました。色々な浄水場に行って「一杯、飲ませてください」と頼んでいました。でも浄水場は、一見(いちげん)さんお断りなんですよ(笑)。そうやって断られ続けていたある日、「ここの水はうまい」と謳うパンフレットに、青森県にある横内浄水場が載っていました。そんなに旨いのか、ということで訪問したら、断られることもなく水を飲ませてくれました。本当においしい水で作り方を尋ねると「お前はいいやつだ。水の味がわかっている」と。

――水の味がわかるやつに、悪いやつはいないと(笑)。


橋本淳司氏: いないはずです(笑)。それで「色々な浄水場に行ったけど、初めて飲ませてもらえた」と伝えたら、そのおじさんの知り合いやツテのある各地の浄水場を紹介してくれました。そこから「浄水場巡り」が始まりました。「あそこの浄水場は、昔ながらの微生物の力によってろ過しているから、薬でろ過しているところとは違う。そこの水を飲め」というような指令をもらっては、浄水場を巡る毎日。水を水筒に入れては、好きな女の子に「今日はすごい水があるから、ぜひ飲んでくれ」などと言っていたのですが、みんなドン引きでしたね(笑)。

水の「問題」にぶつかる


――「水を得た魚」になった橋本さんは、その後出版社に進まれます。


橋本淳司氏: 最初は日本実業出版社に入り、ビジネス書の編集に携わっていました。K.K.ベストセラーズに移ってからは、一般の書籍の編集をしていました。その頃の僕は、大きな誤解をしていて「編集者はいずれ、ものが書ける」と思っていたんです。「嵐山光三郎さんは本を書いているけれど、肩書きは編集者だから、自分も編集者になれば本が書ける」というイメージがあって、編集という仕事をきちんと理解していないまま出版社に就職してしまったのです。「書く仕事がしたい」とフリーのライターになることにしました。編集者側から見るフリーの人たちは、自由で楽しそうだったのですが、実に厳しい道だと実感しましたよ。

水のことを中心にと思っていたものの、水の雑誌なんてそうそうありません。最初は、旅行誌のライターなどをやっていました。ある日、“バングラディシュの現地をルポする”という仕事が舞い込んできました。

――水の問題を色々と抱えている場所ですね。


橋本淳司氏: それまで、カナダやフランスなど「水」を切り口に取材をしていましたが、初めて「水道水」のない場所での取材でした。川は洪水により汚染され、井戸は“ヒ素が出る”という印で赤く塗られていたり、バツが付いたりしているものばかり。現地の女性に話を聞いてみると「きれいな水があるのは、ここから3時間もかかるところ。毎日そこに通うのは困難なので、仕方なく汚染された水を飲んでいるんだ。」と答えてくれました。今までは「どの水がおいしい」とか「どの水が体に良い」という切り口で取材したり、『水のおもしろふしぎ雑学』という本を書いていましたが、そういった今までの路線を進めていくのか、それとも問題解決の方へ進むかと考えていた時期でしたね。

――水の問題へと踏み出す決心をされることになったのは。


橋本淳司氏: 本を書くのは自分の一つの目標でもあったし、『水のおもしろふしぎ雑学』では、納得いくものができたと思っていました。しかし、くだんの大叔父から「校正ミスが三つもあるし、お前の本には哲学がまるでない」と言われ……、ちょうど僕自身も水の問題をどう捉えるべきか、どういう哲学を持って見たらいいのか迷っていた時期でした。大叔父からしてみれば、子どもの頃のレポートの延長に過ぎないということで、さすがにガクッとなりましたが、その言葉がきっかけとなり「日本人は、どういう哲学で水を使っているのかな」と “哲学”を意識するようになりました。

人間と水の関わり合いの根本には、哲学があるはずなのです。実は、水の本とほぼ同時期に、サイエンス系の雑誌で連載していたものをまとめた、『脳の使用説明書』という本を出したのです。すると、また別の親戚の人から「水をやり始めたと思ったら、もう脳か。お前は、ずいぶん軽い人間だな」というようなことを言われました(笑)。その頃には、自分の中でも「水の問題に、きちんと向き合おう」という思いが固まってきていたので、その親戚の言葉を受け止めることができました。僕がブレることなく「水」に取り組んでこられたのは、そういった親戚の人たちの言葉が大きいのだと思います。



――どのような「哲学」を持って書かれていますか。


橋本淳司氏: 僕の出身である群馬県には「上毛かるた」があります。そのかるたの中に、「心の灯台 内村鑑三」という一枚があって、子どもの頃から暗唱していましたが、具体的にどんな人なのか、彼の著作である『後世への最大遺物』に出会ったのは、30代の前半でした。その文中に“世の中に出てきたからには、何かものを遺さなくてはいけない。後世にお金や事業を遺すのもいい。金も事業もないなら思想を遺せ。思想は書物として遺していける。それが高尚な生涯である”ということを言っています。それでやっと「心の灯台 内村鑑三」というかるた札の意味がわかりました。それで本を書くことに、パッションを感じるようになりました。僕は、水と人間の本当のあり方ってどういうものなのかというものを、死ぬまでには書いて遺しておきたいなと思います。

――『通読できてよくわかる 水の科学』は、水問題の教科書的な存在となっています。


橋本淳司氏: アクア・コミュニケーターという仕事の一環として、水のことを教えられる人を育てるという仕事があります。大学で講義をしたり、中国で節水リーダーを育てたりもしました。今は静岡の三島北高校という高校で、水を通じて真の国際人を育てるという、五年間のプログラムの推進委員をしています。そういう活動を通じて、高校生から大学の文系の人たちがわかりやすい、水問題の教科書の必要性を感じました。
社会で起きている色々な水問題は、その事象だけがクローズアップされがちです。水の沸点や性質など、基礎知識がないまま問題を議論していても深まりません。そうした無理解が冒頭でもお話しした対立へとつながっていきます。まずは、水というものの不思議な性質、人類と水との関係までさかのぼって理解が出来るような内容を、思いを込めて本に記しました。

「水」は社会の鏡になる


――橋本さんにとって、本はどういう存在でしょう。


橋本淳司氏: その本の中の言葉が、自分にどういう響き方をするかによって、自分の知識レベルや人間的なレベルや興味がわかるような気がします。昔読んだ本を振り返って読んでみると、以前は全然目に留まらなかったフレーズが目にとまるようになったり「なんでこんなところに、赤線を引いたのだろう」と不思議に思うこともあります。

小・中学校の教科書には、夏目漱石や俳句などが載っていますが、その年齢でそういったものが心に響くかというと、なかなか難しいですよね。今になってもう一回読んでみると、実はすごく難しいこと、深いことを言っていたのだなと思ったりもします。本は、そういう自分の成長を見せてくれる鏡のようなものだと僕は考えています。新しい本が出た時は、電子書籍で読んで、心に響いたものは本で買ったりもしています。

水も、そこに住んでいる人たちの生活を映す鏡になっていることが多いです。水を汚しても平気な人たちもいれば、きれいに守っていこうという人たちもいます。そういうところまで、水は映し出します。僕は、本は自分を映し出す水面のようなものだと捉えています。そして、僕自身が社会の水鏡になれたらいいなと願っています。

――社会の水鏡に。


橋本淳司氏: 「水を通して見ると、社会がこうやって見えますよ」というようなことを伝えたいのです。色々な町に行くと、水の問題は、町づくりの基礎の部分と重なっていることが多いのがわかります。土地利用をどうするかということと水の問題は、表裏一体。食べ物を作って生活するという選択する人もいるし、工場を誘致してそこで働くという選択をする人もいるでしょう。けれども、工場を作ったために水が汚染され今までコミュニティの中で共通の宝だった水が奪われてしまうというケースもあります。

僕は、水や環境という分野を通じて、良い町づくりのお手伝いをしたいと思っています。 “水を通して社会を見る”という見方をしている人は、まだまだ少ない。例えばハンバーガー一つとっても、2900リットルの水を利用しているわけで、ハンバーガーを「お腹がいっぱいだ」と捨ててしまったら、2900リットルの水を海外から輸入して、即座に捨てたことになります。水を大事にする生活の仕方を考えていくためには、同じような見方をしてくれる同志が必要となります。今は、地下水保全をすすめる自治体のお手伝いをしています。

――地下水に関する法整備も進められています。


橋本淳司氏: 今年(2015年)は、地下水法元年になるだろうと言われています。川の水の使い方には、今までもルールがありましたが、あくまで“土地の付属物”と考えられていて、土地の所有者に地下水を汲む権利があると言われてきました。でも、他の人の土地ともつながっているのだから、知らない人がいきなり来て、どんどん地下水をくみ上げても、全く問題がないかというと、そうではありませんよね。水源地など巡る報道は、五年ぐらい前からありますが、そもそも無法地帯であること自体が問題なのです。そのためにも、ルールを作ろうというのを今、やっていて、僕もそのメンバーの一人として活動しています。一つの指針のようなルールを作りたいと思っています。そういった活動を通じて、それぞれのコミュニティの人たちが「自分たちの水を、どうやって持続的に使っていったらいいのか」ということを考えてくれるようになって欲しいですね。

(聞き手:沖中幸太郎)

著書一覧『 橋本淳司

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