自分の体を知って、もっと自由に
Z-MON治療院を主宰する整体師の寺門琢己さん。幼い頃より探求してきた、からだの仕組みを、実践し続け、その探求で得られたノウハウは本を始め、各種メディアで伝えられ、多くの人に支持されています。「自分の体をもっと知って自由に」という寺門さんに、生涯を通して続く活動にかける想いを伺ってきました。
お尻の魚拓に囲まれて
――Z-MON治療院に多くの患者さんが訪れています。
寺門琢己氏: 鍼灸・あんま・マッサージ・指圧という、からだを触ることを許されている資格の免許は全部取得しています。何々流というのはありませんし、師匠がいるわけでもなく、暗中模索でやってきました。
鍼灸の免許は、たくさんのからだと出会う場所を、自分で持つために取った免許です。カイロプラクティックや整体の技術、世界中のあるありとあらゆる手技療法は、効き目があるものならなんでも試してみました。ここに来てくれる人は、みなさん真剣です。ぼく自身のからだが何よりの実験台で、自分に試したことのないことを、患者さんにやったことはありません。
ぼくたちの周りには、不必要なものが多いと感じています。からだの変化やそのトラブルに対して、痛みを消してくれるためだけの薬もいらないし、洋服も、ファッションというよりは、汗をかいてからの速乾性など、環境に適した機能があればいい。僕は今、足元も下駄です。靴下なんてもう鬱陶しくてはけません(笑)。
――この世界に入られたのは。
寺門琢己氏: 親父は、ぼくが8歳の時に亡くなったのですが、千葉大工学部の助教授を務めていました。バウハウスなどを日本に取り込んだ一人で、業界の草分け的存在としてインテリア、椅子などを研究していました。有名なものだと、日産スカイラインのシートや、新幹線のグリーン席、東洋陶器のようなメーカーの便座などがあります。当時研究室に行くと、お尻の魚拓が山のようにありました(笑)。ほかにも、人体サイズの骨格ロボット、車の衝突実験に使う人形などが椅子に座っていたり……そういった環境にいたので、色々な視点における人間の形がすり込まれました。
母親からも強い影響を受けました。母は前衛的な人で、当時、野口晴哉さんという整体の大家の考え方を実践していました。野口さんはからだの力を使って自然回復することをまず大前提としていて、熱が出たら、症状を止めるのではなくて、経過させるという発想でした。ですから私も、熱が出ても解熱剤などはもらえず、フーフー言いながら、一晩中汗をかかされていましたね(笑)。
「不必要に病院には行かない、薬に依存しない」というのが当たり前の環境で育ちましたが、友達が飲んでいる、風邪薬の黄色いシロップが羨ましく思った時期もあります。小学校低学年の頃「保険証」という存在を知り、それを持ってこっそり病院へ行ってみたことがあります。特に悪いところもなかったのですが、いただいた風邪薬を飲んだところ、過去初めて、2週間も微熱が続きました。微熱のせいで遊ぶ時間が減り、反省しながら日頃の母の教えは素晴らしいのだなと尊敬するようになりました(笑)。
ただ、病気の中には手をつけなければどうにもならないものもあります。そういった病気と、放っておいて済む病気の分別は、家族や個々のレベルではできないので、そこは注意が必要です。
僕が通っていた高校は進学校で、専門学校である鍼灸の学校へ進む人は少ない方でした。けれども、担任の先生はすぐに理解してくれました。当時、僕は水球をしていて、千葉県の代表として、国体にも出ていました。トレーナーのように、部員や先生のケアを既にしていたのです。小さい頃から、自分のからだやこころと向き合ってきました。そうして探求してきたものを生かした仕事がしたいと思って、今にいたります。
探求したものを本に記し、伝える
――ベストセラー『骨盤教室』をはじめ、探求したものが本によって伝えられています。
寺門琢己氏: その探求で得たものを自分だけのものにしておくのはもったいない、そもそも多くの方に知ってもらうことでこそ意味があると考え、本に記しました。今まで多くの情報を本に記してきましたが、どの情報も、知って身に落とし込んでくれれば、その人にとって、損のないことばかりです。その一方で、探求から新たな発見が出てくるので「これで終わり」と満足することはありません。
最初の一冊『かわいいからだ 気持ちよくキレイになれる115の方法』を世に出すまでが大変でした。今でこそ、サブカルチャーや健康というコーナーがありますが、当時は、そういったカテゴリーがそもそもなかったこともあって、企画が立ってから5年間、毎年企画会議で落とされました。「なぜ一整体師の個人的な見解を一冊の本にする必要があるんだ」と、そういう時代でした。
――どのようにして、最初の一冊は生み出されたのでしょう。
寺門琢己氏: ぼくは20年以上ずっと、絵本作家の五味太郎先生のからだを診させていただいているのですが、あるとき「その話面白いから、本にするといいかもしれない」と言われ、そこから先生の周辺の方が興味を持ってくださるようになり「寺門整体へ行ってみようか」と、出版関係者の方が治療に来られるようになりました。
具体的に回復していく様を目の当たりにし、信用が生まれ、西洋医学ではないぼくの診療が理解されるようになっていきました。そんな中で、当時、整体の治療に来られていたメディアファクトリーの社長が、独断に近い形で「本を出そう」と決断してくれました。出版から3ヶ月ほど経ったころ、名古屋で突然売れ始めて、駅ビルの中にある三省堂書店さんでランキングが1位に。そこから、全国に広がりました。
――ノウハウを余すことなく伝えられています。
寺門琢己氏: 外に出しても、情報の価値が失われるというような意識はないのですが、似たようなことを、曲げて表現されるのは、少し困りますね。正しく使ってほしいです。自分の情報を、さらなるからだの解明に使ってほしいですね。ぼくが探求して得たものを、後世に残る形で記録し、それをいつか誰かが再度興味を持って、再検証し始めてほしいですね。
本作りの際は、色味であったり、イラストの使い方であったり、切り口というのが楽しいところです。人は瞬間的に大事な決定をする生きものなので、読者の瞬間に入り込めなければ、あまり意味がありません。ですから、すごく直観的な領域で本を作っています。
「本」は編集者との出会いで出来た有機的なもの
――『かわいいからだ』という表現、素敵ですね。
寺門琢己氏: タイトルや目次はすべて、早朝にふっと降りてきます。夢と目が覚める境目で、ノートに書き留めます。それを書き溜めて、編集者と打ち合わせしながら「本」に仕上がってきます。編集者と著者は、お互いにいいねと感じた時に、初めて動きます。そういう意味では、本作りは有機的なものだと思います。両者が企画にほれ込んで、それがある熱量を超えた時に本になっていると思います。
ただ最近は、マーケットとニーズを見てから著者を選定する、という流れにもなっています。そうして作られていく本は、あまり愛されず、存在感も薄いものです。『かわいいからだ 気持ちよくキレイになれる115の方法』が、奇跡的な部数で伸びたのは、その本が恋愛にも似た熱量の結果、生み出されたものだったからだと思います。これからも、楽しく、直観に訴えるように伝えていきたいと思っています。まだまだ、これからです。
自分の体を知って、もっと自由に
――やるべきことは、まだまだたくさん。
寺門琢己氏: そう、やりたいことの半分も終わっていません。たぶんずっとそんな感じなのかもしれません(笑)。ぼくの役割は、人がより良く生きていけるためにもっと体の仕組みを伝えることです。
今、新たに設計しているものが、からだの性能を最大に引き出すための自分のチューニング方法です。楽器の調律のような感じで、コンパクトで必要最低限で、あまり無駄な道具などがある場所に行かなくてもよく、一つの工程が20分ぐらいで済むようなもので、最高の自分の状態を維持できるものです。
また、日本はこれから超高齢化社会に突入します。長生きするということ自体は嬉しいことですが、からだのトラブルも色々と起きてきます。そのすべてを医療費で賄うことはできませんし、家族の方がずっと張り付いて看ているわけにもいきません。お年寄りの方が、自分で自分の状態を少しでも分かっていれば、寿命を全うするまで自分で立ち歩けるようになれれば、幸せですよね。その手助けをこれからしていきたいですね。
(聞き手:沖中幸太郎)
著書一覧『 寺門琢己 』