「目標」を探し続けた20代
西山勲氏: ブラジルでの1年間の留学生活を終え、今度は“帰国組”として、華やかに帰ってきました。ところが、現実は厳しく全国(全国高校サッカー選手権大会)には進めず、ぼくのサッカー人生はあっけなく終わりました。
――一生懸命打ち込んできたものが、ふっとなくなって……。
西山勲氏: 迷いの時期でしたね。附属高校だったので、そのまま大学進学の道もあったのですが、その道は選びませんでした。親父が「とにかく英語を身につけておけば、道を拓く助けになる」と、やはり海外志向の強い家庭だったので、そういうアドバイスのもと、資金を稼ぐためにアルバイトに打ち込んでいました。
旅費も貯まり、アメリカのミネソタ州に語学留学しました。そのまま現地の大学に進学する予定で、一生懸命勉強していました。半年ほどしていよいよ、大学進学に必要なスコアが取れたので、親父に電話したら「よし、もう十分だ。帰ってこい!」と(笑)。
――「残りたい」とは……。
西山勲氏: 言えませんでした(笑)。それから本当に急で、「2週間以内に帰ってこい」と帰国命令を受けて、日本に帰ってきました。
ぼくは目標がないとダメみたいで、次の「何か」を探しながら、またアルバイトを続けていました。ある日、テレビのドキュメンタリー番組で、グラフィックデザイナーの仕事を偶然目にする機会があり、当時はまだMacが出だした頃で、コンピューターでデザインをする姿に興奮し感化されて、次の目標をそこに据えました。
そうしてデザイナーになるための資料を漁っていたら、夜間の専門学校に辿り着きました。夜間なら昼間の半額で行けるし仕事もできると。印刷会社でデザイナーのバイトを見つけ、夜に学び昼に実践するという生活を送ることになりました。
ワンルームからの出発
西山勲氏: アルバイトとしての“デザイン”の仕事は、スーパーのチラシで使う素材をMac上で切り抜く作業の繰り返しで、けっして面白いものではありませんでした。けれど、いつかは「打ちっぱなしのかっこいい事務所で、フリーのデザイナーに」というイメージがあったので、苦ではありませんでした。
夜間の専門学校を卒業した後は、福岡のデザイン事務所に就職しました。少人数でやっていたので、クライアントの打ち合わせからお金のやり取りまで、ビジネスの進め方を学ばせてもらいました。そこで4年やったのち、独立しました。
――打ちっぱなしのカッコいい事務所を(笑)。
西山勲氏: その真逆で(笑)、自宅兼事務所みたいな小さなワンルームから始まりました。普通は開業までに、ある程度貯金するものだと思いますが、デザイナーという仕事の給料は少なくて、お金を借りながらなんとか食いつないでいたという有様でした。Macを整えるだけの“開業資金”ですら、祖父に頼み込むくらいでした。
友人とワンルームから出発した“デザイン事務所”でしたが、少しずつふたりでも食えるぐらいの仕事を得られるようになり、そこから徐々に仕事を広げていきました。
旅への衝動 生死の境を乗越えて
西山勲氏: 自分の名前で仕事が頂け、それで生活が出来る。それが嬉しくて、昔サッカーをやっていた時のように、どんどんのめり込んでいきました。独立から2〜3年後には、ずいぶん軌道に乗っていたように思います。
それまでずっと貧乏だった生活は、欲しい物もそんなに悩まずに買えるぐらいになり、事務所もワンルームから3階建てのメゾネット事務所になりました。そうして20代の始めに飛び込んだ世界もまたたく間に過ぎ、気づけばもう30代も中盤に差し掛かっていました。
そのころ、徐々に原因不明の蕁麻疹(じんましん)が全身に出るようになりました。でも忙しくて休めないから、抑えるために薬を飲む……そんな生活を1年ぐらい騙しだましやっていて、ついに倒れました。気を失って、目が覚めたら集中治療室で両親と祖父と弟がいました。
――集まらない家族が、一堂に。
西山勲氏: そのくらいヤバかったみたいです。なんとか息を吹き返しましたが、その体験は強烈に焼きつきました。さらにそのころに、大好きだった祖父母がたて続けに亡くなって、自分の生き方を問うようになりました。
そうした問いかけが、ある日突如として一斉に自分の気持ちに襲いかかり、涙があふれてきました。燃料投下の連続で、燃やし続けていた生活に変化が訪れたのはそれからです。「このまま年を重ねて、いやそもそも年を重ねることが出来ないかもしれない……。」何かしたいという衝動が沸き起こりました。
詰め込んでいた仕事を徐々に整理することで、社会人になってはじめて仕事以外に目が向くようになりました。一緒に仕事をやっていた友人の影響で、写真を撮るようになりました。彼は『ローライ』というカメラを使っていたのですが、時々見せてくれる写真がとても美しくて、そのうちぼくも、イメージ通りのカメラ(ハッセル)を手に入れました。
さらに、そのころに読んだ大竹伸郎さんの『カスバの男』に影響を受け、次第に旅というものへの憧れや欲求が増していきました。大竹さんのモロッコでの旅行記は、角田光代さんがあとがきに「本を閉じてすぐにチケットを買いにいった」というくらい、相当にアブナイ吸引力のある本で……さらにそのころ読み漁っていた『TRANSIT』のモロッコ号でいよいよ決定的になり、ぼくもモロッコへ旅に出ることになりました。
――引き寄せられたモロッコの旅はいかがでしたか。
西山勲氏: 2週間ぐらいの旅でしたが、旅先で出会ったいろんな人と話をしてはハッセルで写真を撮っていました。帰国後に、写真の師匠に教えてもらいながら、はじめて暗室作業をしたとき、現地で撮影した像と、再び向き合うプリントという作業に、ものづくりの感動を覚えました。真っ暗な暗室のなかで「これは身を捧げる価値がある」と体がしびれたのを覚えています。
著書一覧『 西山勲 』