旅の終わりとはじまり
写真家の西山勲さん。長年、グラフィックデザイナーとして福岡を拠点に活動していた西山さんは、あるきっかけから世界中のアーティストたちと交流をする旅に出かけるようになります。彼らの日常をビジュアル化して映し出す人間模様は、マガジン『Studio Journal knock』として撮影から編集、製本までひとりでまとめられ、発信されています。なぜ、西山さんは「旅」に出たのか。その原点を辿りながら、伺ってきました。
『Studio Journal knock』の旅
――今、手元に第4冊目となる『Studio Journal knock(Latin America)』がありますが、回を重ねるごとにページ数も分厚くなっていますね。
西山勲氏: 海外のアーティストと交流し、その日常をビジュアル化していくマガジンなので、旅を続けるうちに内容がどんどん増えていきます。逆に、そんなに会えなかったら少なくなっていったりすると思います。
取材相手となるアーティストは知り合いのご縁もありますが、現地の例えばサーフショップで見かけた作品に惚れて、制作者に話を繋いでもらって取材するライブのような形で出会います。自分でも全然分からない方向に向かうので、あらかじめ台割りを作ったりすることができません。だからページが増えたりするのです、思った以上に(笑)。
このLatin America編を出版できたのは、ぼくがインドを旅している時でした。一応地域で区切ってはいますが、そういう意味でも、締め切りもなければ、内容も制約のない自由なマガジンなんです。
――西山さんの、ごく私的な旅のメモを覗いている感じがします。
西山勲氏: 旅先での出会いから、自分の中で涌き起こったものを整理し熟成させながら、まとめています。自分が歩いてきた痕跡をメモして、それが溜まったところで出すようにしています。メモ帳には、旅のスケジュールやルート、必要なもののリストなどすべて書き記しています。そこから拾われ思い起こされたことが、記事になります。
使っているカメラは『ハッセルブラッド500C/M』というもので、ファインダーから覗いた像がものすごく美しく、写真を撮りだしてまだ数年のころに、偶然の出会いで見つけ一目惚れして買いました。安い中古のものだったからか、旅の間にも何度も壊れて、修理に出されていますが、もうずっとこの1台をメインにして撮っています。
3年前(2013年)に、東回りで旅を始めて、地球をぐるっとまわって帰ってきたところですが、まだ旅の途中です。この間は『TRANSIT』編集長の加藤さんとのトークショーに出ていました。オーストリア号の取材の話や、それ以外のぼくの活動である『Studio Journal knock』の取材と旅についてお話ししましたが、とても緊張しました。
そもそもぼくはグラフィックデザインの仕事を十何年ずっとやっていて、旅に出て写真を撮るようになったのはごく最近のことなのです。昔から恥ずかしがり屋で、いまでもトークイベントなど、人の集まるところでは緊張してしまいます。
ラテン系一家で育った恥ずかしがり屋
西山勲氏: ぼくの生まれは奥堂という福岡県は博多の中心部で、博多祇園山笠がおこなわれる大博通りという場所で育ちました。山笠の行事にも小さいころから駆り出されていましたが、むちゃくちゃ恥ずかしがり屋で、ギリギリ「これから走るよ」というところで逃げ出したりするような子どもでした。
ハートが弱いのかもしれません(笑)。もう群集に紛れていたいという性格でした。だからというわけではないですが、小学3年生ぐらいから、サッカーを始めました。始めてみると、自分の居場所を見つけたかのように、のめり込んでいました。
本当にそれ以外の思い出がないぐらいサッカーに没頭していたので、高校も福岡の東海第五というサッカーの名門校に進みました。ただし、鳴り物入りで入ったわけではなかったので、ずっと球拾いをしていました。特待でもないノーブランドの球拾いから、3年までにレギュラーになった選手は過去ひとりだけいたようですが、「どうしてもここから這い上がってやる」という気持ちでやっていましたね。
球拾いだけでは、練習ができないので、それ以外の時間を朝一から終電まで、監督に名前を覚えて貰うために、朝出勤する時間帯を狙って校庭でひとり走ってみたりと、一年間ずっとそんなことをやっていました。
そんな毎日を送っていたある日、親父が「勲、お前そんなにサッカーを一生懸命しよるなら、こういうのがあるぞ」と言いながら「ブラジル留学生募集」という新聞記事を見せてくれました。当時、三浦知良さんの『足に魂こめました』という本を読み込んでいたのもあって、即座にお願いしました。
――素敵なお父様ですね。
西山勲氏: うちの両親はちょっと変わっていて……、父親はタンゴやサルサを踊るのですが、スペインやイタリアとかまで「ミロンガ」という社交の場にタキシードを着て出掛けていく人なんです。この間も、ぼくが行く少し前にオーストリアで踊っていました。
母もサルサを踊るのですが、それよりも海に潜るのが好きなようで、キューバとかアルゼンチンまでダイビングに行っています。そんな風でしたから、盆正月にもなかなか集まらない変な家族でした。
自由な両親のもとで育てられ「何々しなさい」と強制されることは一切ありませんでした。その影響は多分にあると思います。ぼくの弟も、今、南アフリカで現地のプラントを建設する日本人技術者のために、フライパンを振っているというなんだか変わった仕事をしています(笑)。
サンパウロの山奥で留学生活
西山勲氏: 父親にお願いして受けることになったブラジル留学のセレクション(選抜試験)は東京でおこなわれました。セレクション当日は10年に一度ぐらいの幸運の日だったみたいで……(笑)、ものすごく良いパスたくさんまわってきて、ファインゴールを重ねることが出来ました。
それが、ブラジルから選手を見に来た監督の目に留まって、100人くらいセレクションに来た人たちの中で奇跡的に留学メンバーに選ばれました。嬉しい気持ち半分、楽しかった高校生活や友人と別れることに寂しさを感じましたが、とにかく行ってみようと決心しました。留学制度のある大分県佐伯市の日本文理大学附属高校に籍をうつし、高校2年生から1年間、ブラジルへ旅立つことになりました。
――ブラジルでの留学生活はいかがでしたか。
西山勲氏: サンパウロの山奥にある養成施設で、1年間日本人の留学メンバーと寝食をともにしました。週に何度か現地の学校に通い、授業を受けながらポルトガル語を覚えました。サッカーと勉強以外することもないので、部屋では留学生活中に起きた出来事を手紙にしたためては、毎週のように送っていました。インターネットもない時代でしたから、そうした往復書簡は束になるくらいでした。悶々としながら、いろんなことを考えては書いていましたね。
「目標」を探し続けた20代
西山勲氏: ブラジルでの1年間の留学生活を終え、今度は“帰国組”として、華やかに帰ってきました。ところが、現実は厳しく全国(全国高校サッカー選手権大会)には進めず、ぼくのサッカー人生はあっけなく終わりました。
――一生懸命打ち込んできたものが、ふっとなくなって……。
西山勲氏: 迷いの時期でしたね。附属高校だったので、そのまま大学進学の道もあったのですが、その道は選びませんでした。親父が「とにかく英語を身につけておけば、道を拓く助けになる」と、やはり海外志向の強い家庭だったので、そういうアドバイスのもと、資金を稼ぐためにアルバイトに打ち込んでいました。
旅費も貯まり、アメリカのミネソタ州に語学留学しました。そのまま現地の大学に進学する予定で、一生懸命勉強していました。半年ほどしていよいよ、大学進学に必要なスコアが取れたので、親父に電話したら「よし、もう十分だ。帰ってこい!」と(笑)。
――「残りたい」とは……。
西山勲氏: 言えませんでした(笑)。それから本当に急で、「2週間以内に帰ってこい」と帰国命令を受けて、日本に帰ってきました。
ぼくは目標がないとダメみたいで、次の「何か」を探しながら、またアルバイトを続けていました。ある日、テレビのドキュメンタリー番組で、グラフィックデザイナーの仕事を偶然目にする機会があり、当時はまだMacが出だした頃で、コンピューターでデザインをする姿に興奮し感化されて、次の目標をそこに据えました。
そうしてデザイナーになるための資料を漁っていたら、夜間の専門学校に辿り着きました。夜間なら昼間の半額で行けるし仕事もできると。印刷会社でデザイナーのバイトを見つけ、夜に学び昼に実践するという生活を送ることになりました。
ワンルームからの出発
西山勲氏: アルバイトとしての“デザイン”の仕事は、スーパーのチラシで使う素材をMac上で切り抜く作業の繰り返しで、けっして面白いものではありませんでした。けれど、いつかは「打ちっぱなしのかっこいい事務所で、フリーのデザイナーに」というイメージがあったので、苦ではありませんでした。
夜間の専門学校を卒業した後は、福岡のデザイン事務所に就職しました。少人数でやっていたので、クライアントの打ち合わせからお金のやり取りまで、ビジネスの進め方を学ばせてもらいました。そこで4年やったのち、独立しました。
――打ちっぱなしのカッコいい事務所を(笑)。
西山勲氏: その真逆で(笑)、自宅兼事務所みたいな小さなワンルームから始まりました。普通は開業までに、ある程度貯金するものだと思いますが、デザイナーという仕事の給料は少なくて、お金を借りながらなんとか食いつないでいたという有様でした。Macを整えるだけの“開業資金”ですら、祖父に頼み込むくらいでした。
友人とワンルームから出発した“デザイン事務所”でしたが、少しずつふたりでも食えるぐらいの仕事を得られるようになり、そこから徐々に仕事を広げていきました。
旅への衝動 生死の境を乗越えて
西山勲氏: 自分の名前で仕事が頂け、それで生活が出来る。それが嬉しくて、昔サッカーをやっていた時のように、どんどんのめり込んでいきました。独立から2〜3年後には、ずいぶん軌道に乗っていたように思います。
それまでずっと貧乏だった生活は、欲しい物もそんなに悩まずに買えるぐらいになり、事務所もワンルームから3階建てのメゾネット事務所になりました。そうして20代の始めに飛び込んだ世界もまたたく間に過ぎ、気づけばもう30代も中盤に差し掛かっていました。
そのころ、徐々に原因不明の蕁麻疹(じんましん)が全身に出るようになりました。でも忙しくて休めないから、抑えるために薬を飲む……そんな生活を1年ぐらい騙しだましやっていて、ついに倒れました。気を失って、目が覚めたら集中治療室で両親と祖父と弟がいました。
――集まらない家族が、一堂に。
西山勲氏: そのくらいヤバかったみたいです。なんとか息を吹き返しましたが、その体験は強烈に焼きつきました。さらにそのころに、大好きだった祖父母がたて続けに亡くなって、自分の生き方を問うようになりました。
そうした問いかけが、ある日突如として一斉に自分の気持ちに襲いかかり、涙があふれてきました。燃料投下の連続で、燃やし続けていた生活に変化が訪れたのはそれからです。「このまま年を重ねて、いやそもそも年を重ねることが出来ないかもしれない……。」何かしたいという衝動が沸き起こりました。
詰め込んでいた仕事を徐々に整理することで、社会人になってはじめて仕事以外に目が向くようになりました。一緒に仕事をやっていた友人の影響で、写真を撮るようになりました。彼は『ローライ』というカメラを使っていたのですが、時々見せてくれる写真がとても美しくて、そのうちぼくも、イメージ通りのカメラ(ハッセル)を手に入れました。
さらに、そのころに読んだ大竹伸郎さんの『カスバの男』に影響を受け、次第に旅というものへの憧れや欲求が増していきました。大竹さんのモロッコでの旅行記は、角田光代さんがあとがきに「本を閉じてすぐにチケットを買いにいった」というくらい、相当にアブナイ吸引力のある本で……さらにそのころ読み漁っていた『TRANSIT』のモロッコ号でいよいよ決定的になり、ぼくもモロッコへ旅に出ることになりました。
――引き寄せられたモロッコの旅はいかがでしたか。
西山勲氏: 2週間ぐらいの旅でしたが、旅先で出会ったいろんな人と話をしてはハッセルで写真を撮っていました。帰国後に、写真の師匠に教えてもらいながら、はじめて暗室作業をしたとき、現地で撮影した像と、再び向き合うプリントという作業に、ものづくりの感動を覚えました。真っ暗な暗室のなかで「これは身を捧げる価値がある」と体がしびれたのを覚えています。
人に興味を持ち 喜びを感じる旅 『Studio Journal knock』の誕生
西山勲氏: その後、タイに行く機会がありました。今までは単に旅をしていただけだったのが、そのころには被写体とかテーマを考えるようになっていて。旅で何を撮りたいかを考えたとき、「人」が浮かんできました。そこに興味と喜びを感じていることに気づいたのです。
今着ているこのTシャツも、沖賢一という友人の画家のものですが、彼のポートレートを撮ったりしているうちに、アーティストという生業、彼らの生き方のようなものに興味がわいてきました。自分の内側にある芸術や美しいものと向き合うために、一般の人とは違う世界で生きる人たちがいる。彼らを被写体にするだけではなくて、彼らがどんなことを考え日々暮らしているのか。そんなことを知りたくて、バンコクにある若いアーティストが集まるギャラリーへと足を運びました。
そこでの旅の経緯や模様を残しておきたいと思ったのですが、写真家を表明するほどの勇気はなく、ひっそりと『NOVO MUNDO』というサイトを立ち上げて記録しました。これもメモ帳代わりにはじめて、心が揺れ動いている時に素直に書いたもので、誰にも話していなかったからとても恥ずかしいのですが……。
――題名は『NOVO MUNDO』。
西山勲氏: 『NOVO MUNDO』、ポルトガル語で「新世界」という意味なのですが、“病気後”に出会った「新しい世界」という気持ちで名付けました。モロッコの旅もここに書いています。
2012年4月、ちょうど『Studio Journal knock』の旅が始まる1年前ぐらいです。そのタイで、作品について話すだけでなく家に泊まらせてもらったりと交流しながら、日常生活に入り込んで、アーティストたちのパーソナルな部分を見たり聞かせてもらったりしていくうちに、それ自体がストーリーになってくるような気がして、それをドキュメンタリーで作りたいと思うようになっていったのです。
――そうして『Studio Journal knock』に繋がっていくのですね。
西山勲氏: フィルムをプリントしていくように、ブログから、冊子という形にする。そうして『Studio Journal knock』の1冊目となるTHAILANDができあがりました。「10zine(てんじん)」という、福岡周辺の面白いクリエイターや作家が集まる、ZINEレーベルがあるのですが、そこでの活動にヒントを得て、写真中心のデザインで日記やメモを入れ込むという今に繋がるスタイルが出来上がりました。
そのころ写真家の高橋ヨーコさんが発表した『ONTARIO』という冊子にも影響を受けました。それまで出版というと大変なことのように思えたものですが、衝動にまかせてやってみるのもいいかもしれない。そんなふうにして、気持ちもまとまり「もう仕事は完全に辞めて、旅に出続けよう」と決意しました。そして2013年の7月、『Studio Journal knock』の旅が始まりました。
旅の終わりのはじまり
西山勲氏: 長年携わってきたデザインと違って、写真や文章、それをまとめる編集など、未経験のことばかりでまだまだ納得はいっていません。また、その道のプロも身近にいるから見られること、読まれることへの恥ずかしさもあり、むしろ怖さすら覚えます。だけど、それに捕らわれていたら何もできないと気付きました。人生は以外と短い。
この『Studio Journal knock』の旅は、病気の時に感じた「何もできないまま、このまま死んでいくのは嫌だ」という想いから生まれたもので、だからこそ「生きていくんだ」という、ぼくの決意表明でもあるんです。
ただ、やっていること自体が評価になってはいけなくて、読んでくださる方々の批判も意見も全部受け止めて、精神を燃やしながら、完成させたいと思っています。唯一「読んでもらう」という選択をしたことで生まれた制約は、今、ぼくの原動力になっています。
この旅は、2月にヨーロッパ編が出て、その後中東編を出す予定ですが、すでに旅の終わり方も考えています。そしてそのピリオドはやはり日本で、と考えています。結構太いピリオドで……沖縄から北海道までバンで北上しながら、アーティストやものづくりに携わる人々、また何かに一生懸命打ち込んでいる人を訪ねる旅です。長い旅になると思いますが、読んでくださる皆さんと一緒に必ず完成させたいと思います。
(聞き手:沖中幸太郎)
著書一覧『 西山勲 』