人や本の働きかけが、断片的な関心を成熟させる
熊野純彦さんは、ドイツ・フランスの近現代思想のテキスト研究や、カントの批判書、ハイデガー『存在と時間』など古典的名著の新訳に取り組みながら探求を続ける哲学者・倫理学者です。また、一般向けの著作として、古代から現代までの哲学史を平易に解説する入門書が幅広い読者の支持を受けています。熊野さんのお仕事の近況、また研究のみならず日常生活においても切っても切れない読書についてのお考えを伺いました。
「固有名」での専門分野はない
――まずは熊野さんの研究者としてのご専門についてお聞かせください。
熊野純彦氏: Wikipediaを見ていると、私の仕事の評価として「レヴィナスを中心に……」と書いてありますが、全然そんなことはなくて、むしろ、私の仕事の中でレヴィナスは非常に珍しい系統です。はたから見ると、最初の方に出したのがレヴィナスで、私が書いたものでは珍しく色々なメディアで取り上げてもらったことも原因としてあると思います。
それと、この国の悪い習慣ですが、翻訳をすると専門家と目されるところがあります。哲学、倫理研究者はだいたい、そういった思想家の固有名が少なくとも1つあるのですが、私はそういうものを作ってきませんでした。学生相手の冗談では「私は日本で片手しかいないカッシーラーの専門家だ」とか「レーヴィットの専門家だ」とか言ったことはありますが、固有の専門は名乗ったことはありません。
――特定の思想家を「専門」としなかったことには理由はあるのでしょうか?
熊野純彦氏: 私の先生筋の、廣松渉さんに面白い口ぐせがあって、「相撲の解説は引退してからでもできるから、相撲をとらなきゃいけない」とおっしゃっていました。要するに自分の哲学を作れということです。そういう意味で固有名の専門を作ってきませんでした。それと、私が飽きっぽいというところもあります。ただ、いわゆる「誰々の研究」と哲学そのものがそんなに離れたものではないとも、ある時期から考えています。対象が何であれ、その中でちゃんと思考できるのが哲学であり倫理学だと思います。例えばプラトン研究でも、プラトンの3行くらいのテキストについて、50枚くらいの論文を書くんです。優れた論文は、哲学者についての論文じゃなくて、それ自体が哲学論文になっている。だから、廣松さんのように、分けては考えなくなりました。
――特定しないからこそ、幅広い研究ができるということもありますね。
熊野純彦氏: でも他方で、私は「何でもわかる」という知性は信用しません。世の中のありとあらゆる事象について解説してくれる評論家は、最も愚劣だと思います。どんな対象も等分にわかる人は、きっと何もわからない。人にはそれぞれ、色々な傾斜があります。特にこの業界では、語学の制約もあります。例えばレヴィナスは、私にとっては例外的です。それは、私が一応読めるってことになっているのはドイツ語で、フランス語は苦手だからです。だから読書範囲でいうとドイツ系のものが多いとは思います。
著書一覧『 熊野純彦 』