熊野純彦

Profile

1958年、神奈川県生まれ。1981年、東京大学文学部倫理学科卒業。現在、東京大学文学部教授。著書に、『レヴィナス入門』、『ヘーゲル』(以上、筑摩書房)、『レヴィナス』、『差異と隔たり』、『西洋哲学史』全2冊、『和辻哲郎』(以上、岩波書店)、『戦後思想の一断面』(ナカニシヤ出版)、『カント』、『メルロ=ポンティ』(以上、NHK出版)、『埴谷雄高』(講談社)など。訳書に、レヴィナス『全体性と無限』、レーヴィット『共同存在の現象学』、ハイデガー『存在と時間』(以上、岩波書店)、カント『純粋理性批判』、『実践理性批判』(以上、作品社)。『マルクス 資本論の思考』が9月にせりか書房より刊行予定。

Book Information

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電子は紙の代わりにはならない


――現在利用していない理由も含め、電子書籍についてのお考えをお聞かせください。


熊野純彦氏: 私はまず何であれ、新しいテクノロジーがあったとして、それのお先棒は担ぎたくない。かといって、それに立ちはだかりたくもないというのが基本的なスタンスです。前者は軽薄だし、後者は愚劣だからです。ただ、付き合いのある本屋さんで私の本をデジタル化したいという申し出があったのですが、某書店なんかは誰も買わないような笑っちゃう定価をつけています。紙媒体の方がずっと安い。無理だと思いますが、理想的には、余裕のある本屋が持ち出し覚悟で、定着するまで安い値段をつけるべきだと思います。単純な原価計算をしていると、すごく高くなるから、全然根付いていないのだと思います。
仕事で使う外国の哲学者の全集なんかもデジタル化されていますが、私は一切使いません。理由は、私にとっては必要ないからです。私は電子辞書も使いませんけれど、電子辞書と本の辞書の違いは、要するに前後を読むかってことです。それはもちろん、テキストを読む時もそうです。これからの人は絶対使うでしょうし、使うなとはもちろん学生には言いませんが、人文系の学問では、完全に取って代わるのは不可能だろうと思います。
それと個人的な話では、やっぱり私は古典的な媒体自体に愛着がある。作品社の高木有さんが、本は工芸品なのだと言っていて、私も、日本最高の装丁家を動員して非常にきれいな本を作ってもらった。日本の装丁技術はやっぱり高いわけです。ところが、使わないと人がいなくなってしまうので、美しい本は作り続けなければいけないと思います。

――検索の効率が上がることで、発展する人文系の研究もあるのではないでしょうか?


熊野純彦氏: ある種のテキスト研究で、用例のすべてを洗い出すといった研究ですね。それはもちろん立派な研究なのですが、私はそういったスタイルの研究はしてこなかったし、これから先は、なおさらしないだろうと思います。ただ、これは痛恨のことなのですけど、細かな訳注をつける仕事で、1つだけ学生にデジタルで調べてもらいました。引用が気になって気になってしょうがなくて、学生にちょっと調べてって頼んで、そいつも紙媒体でずっと調べていたけど、どうしても見つからない。それをCD-ROMで引いたら簡単に見つかりました。
それと、自分の原稿については書いたことを忘れるから、データで携帯するんです。検索したら過去書いたものに一発で戻れるから、あんなに便利なものはないのですけれど、それは自分の原稿だけで、人さまが書いた本についてはしないです。私はかつて自分の記憶力に過度な自信があって、全くノートを取ったことがなかった。過去に読んだものを探せばだいたい見つかる自信があった。でも今はだめで、全部ひっくり返しても見つからない。カード法とかもはやった時代でもあるんですが、ものぐさと自信過剰でカードもノートも作らなかった。だから、あと数年しか学者生活はもたないだろうと思っています(笑)。
今はカントを訳していますが、単語の記憶もぼろぼろと落ちていますから、必然的に辞書を引くのですが、だんだん辞書の字がつらくなってきている。カントは幸い、項目的な訳注をつけない方針でやっているのですけれども、別のもので、訳注をつけたいという時に、ちょっと自信がないです。翻訳は体力仕事なのです。座り仕事だから、腰にもお尻にも悪いですしね。

「脅かしっこ」の文化の消滅


――活字離れなどと言われますが、読書をとりまく状況はどのように感じられていますか?


熊野純彦氏: 学生すら本を読まなくなっています。お恥ずかしい話ですが、ここの文学部の学生で、これまで読んだ本は教科書と参考書以外ないとか、ハウツーもの以外ないとか、本らしい本を読まず、しかもそれを全く恥だと思わないっていう学生がついに出てきています。
私の時代が良かったとも全く思わないけど、1970年代でも、まだはっきりした形で小生意気な少年達の間で「脅かしっこ」の文化がありました。「え、読んでないの?信じられない」という文化です。一番悪質なやつは、手前でも読んでない本を挙げる(笑)。哲学、倫理学でも、大物の基本的なテキストは、実際は読んでない人がいっぱいいると思うけど、「何となく知っています」って顔はするわけです。そういう文化は、今の学生のよく勉強する子に聞くと、絶滅したそうです。例えば、東大の教養学部でも、本の話はしない、映画の話もしない。なるべく私は学生の悪口は言いたくないんだけど、でも事実としてありますね。

――学生が本を読まなくなったのは何が原因なのでしょうか?


熊野純彦氏: わからないですね。ただ読書が特権的な、あるいは唯一の時間の消費の仕方ではなくなったことははっきりしています。かつ、読書人とか知識人とか教養人とかっていうのが、ずいぶん前からいなくなっているんじゃないでしょうか。私も書き手の1人ですから、「読むべき本を出さないからでしょう」と言われたらぐうの音も出ないですが。

――出版業界の状況も変化はあるのでしょうか?


熊野純彦氏: 工夫が足りない編集者もいるのではないかと感じます。どうしてこの人の本ばかりが立て続けに出るんだろうと、首をひねりたくなるような人が何人かいますよね。その手の読み捨てられるしかない本が平積みにして空間を占拠しているわけです。これだけ本が出なくなっているのに、要らない本が出続けているというところがある。

著書一覧『 熊野純彦

この著者のタグ: 『大学教授』 『哲学』 『考え方』 『研究』 『研究者』 『趣味』

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