熊野純彦

Profile

1958年、神奈川県生まれ。1981年、東京大学文学部倫理学科卒業。現在、東京大学文学部教授。著書に、『レヴィナス入門』、『ヘーゲル』(以上、筑摩書房)、『レヴィナス』、『差異と隔たり』、『西洋哲学史』全2冊、『和辻哲郎』(以上、岩波書店)、『戦後思想の一断面』(ナカニシヤ出版)、『カント』、『メルロ=ポンティ』(以上、NHK出版)、『埴谷雄高』(講談社)など。訳書に、レヴィナス『全体性と無限』、レーヴィット『共同存在の現象学』、ハイデガー『存在と時間』(以上、岩波書店)、カント『純粋理性批判』、『実践理性批判』(以上、作品社)。『マルクス 資本論の思考』が9月にせりか書房より刊行予定。

Book Information

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人や本の働きかけが、断片的な関心を成熟させる



熊野純彦さんは、ドイツ・フランスの近現代思想のテキスト研究や、カントの批判書、ハイデガー『存在と時間』など古典的名著の新訳に取り組みながら探求を続ける哲学者・倫理学者です。また、一般向けの著作として、古代から現代までの哲学史を平易に解説する入門書が幅広い読者の支持を受けています。熊野さんのお仕事の近況、また研究のみならず日常生活においても切っても切れない読書についてのお考えを伺いました。

「固有名」での専門分野はない


――まずは熊野さんの研究者としてのご専門についてお聞かせください。


熊野純彦氏: Wikipediaを見ていると、私の仕事の評価として「レヴィナスを中心に……」と書いてありますが、全然そんなことはなくて、むしろ、私の仕事の中でレヴィナスは非常に珍しい系統です。はたから見ると、最初の方に出したのがレヴィナスで、私が書いたものでは珍しく色々なメディアで取り上げてもらったことも原因としてあると思います。
それと、この国の悪い習慣ですが、翻訳をすると専門家と目されるところがあります。哲学、倫理研究者はだいたい、そういった思想家の固有名が少なくとも1つあるのですが、私はそういうものを作ってきませんでした。学生相手の冗談では「私は日本で片手しかいないカッシーラーの専門家だ」とか「レーヴィットの専門家だ」とか言ったことはありますが、固有の専門は名乗ったことはありません。

――特定の思想家を「専門」としなかったことには理由はあるのでしょうか?


熊野純彦氏: 私の先生筋の、廣松渉さんに面白い口ぐせがあって、「相撲の解説は引退してからでもできるから、相撲をとらなきゃいけない」とおっしゃっていました。要するに自分の哲学を作れということです。そういう意味で固有名の専門を作ってきませんでした。それと、私が飽きっぽいというところもあります。ただ、いわゆる「誰々の研究」と哲学そのものがそんなに離れたものではないとも、ある時期から考えています。対象が何であれ、その中でちゃんと思考できるのが哲学であり倫理学だと思います。例えばプラトン研究でも、プラトンの3行くらいのテキストについて、50枚くらいの論文を書くんです。優れた論文は、哲学者についての論文じゃなくて、それ自体が哲学論文になっている。だから、廣松さんのように、分けては考えなくなりました。



――特定しないからこそ、幅広い研究ができるということもありますね。


熊野純彦氏: でも他方で、私は「何でもわかる」という知性は信用しません。世の中のありとあらゆる事象について解説してくれる評論家は、最も愚劣だと思います。どんな対象も等分にわかる人は、きっと何もわからない。人にはそれぞれ、色々な傾斜があります。特にこの業界では、語学の制約もあります。例えばレヴィナスは、私にとっては例外的です。それは、私が一応読めるってことになっているのはドイツ語で、フランス語は苦手だからです。だから読書範囲でいうとドイツ系のものが多いとは思います。

研究対象は外的な偶然で決まる


――最近の著作についてお聞かせください。


熊野純彦氏: 今年は翻訳を5冊、書き下ろしを1冊書いています。翻訳は、ずっと読み続けているものを翻訳していて、ここ何年かで何度も何度も読んでいるのは、カントの三批判書です。今現在は『判断力批判』を、毎日嫌だ嫌だと思いながら日本語にしてます。もう1つはハイデガーの『存在と時間』。それから、おそらく確実に書き上がると思うので言いますが、書き下ろしは、題名を言うと『マルクス 資本論の思考』というのを書いています。これはおそらくかなり奇妙だと思われると思います。というのは、カントの三批判書を訳す人間が、同時にマルクスについて書くことは、歴史的にはない。それに、仮に哲学屋がマルクスに手を出すとしたら、初期哲学だったらあるかもしれないけど、『資本論』プロパーで出すということは少ないでしょう。だからこの2年位、『資本論』を繰り返し読んでいますが、これがまた長い(笑)。

――現在はカントとマルクスを同時に読み込んでいるわけですね。


熊野純彦氏: マルクスは漠然とずっと考えていた仕事で、ハイデガーを訳している時に資本論絡み、それから経済原論絡みの研究書の類をかなり読んでいます。それと、私は飽きっぽいと言いましたけど、翻訳をやっている時は、趣味の読書は別のものを読むんです。『純粋理性批判』をやっている時は、日本の古典ばかり読んでいました。
これには2つ理由があります。1つはもともと、高校の時から古文がとても好きだったからです。ただ古文は読まないとどんどん読めなくなってしまう。もう1つは、東大の倫理学研究室は、和辻哲郎先生以来の伝統で、西洋と日本の2本立てでやってきたので、学生時代も含めて日本の文学思想、古典の文学思想になじみがあったからです。もちろんそれは、純然たる趣味の読書ですが。

――さまざまな興味から、研究の的を絞る時はどういった過程があるのでしょうか?


熊野純彦氏: 自分のイメージだと、普段の興味はバラバラと広がっているのですけど、うっすらと拡散した興味プラスその場での「泥縄」でだいたい仕事をしています。本当に偉い研究者はちゃんと一生の仕事があって、例えば立派な博士論文を本にすれば、それで立派な仕事になる。今は学生さんが博士号を取りますけれど、昔、文学部は定年になって教授会に論文を出して博士になって仕事が終わるというのが普通のパターンでした。私は博士号を持っていませんし、これからも取る予定はない。率直に言って仕事のほとんどは外的な偶然です。しかも、ご存じの通り、今は出版不況ですから、仮に主体的に研究をして本を出したいといっても世の中は許してくれないということもある。自分が意識していないようなある関心が、外的な偶然で成熟するところで仕事をしているのだと思います。

シンクロニシティが生み出す作品



熊野純彦氏: 典型的な泥縄は『西洋哲学史』で、旧知の編集者が、全集部門から新書部門に移った時に、岩波新書のカタログを渡されて「欠けているものを言ってほしい」と聞かれたので、「宗教関係の書目が弱い」とか、「全体を見渡すような書目が少ない」とか、いくつか言ったんです。そうしたらその編集者が「ということは、哲学では哲学史でしょうか」って言うから「まあそうでしょうね」って言って、気がついたら自分が書かなきゃいけなくなっていた。哲学史を書くとなると、ある程度の深度がなくてはならない。それまでほとんどなじみのなかった哲学者だって、当然いるわけです。

――通史的なものを書くとなると、文献を集めるのも大変ですね。


熊野純彦氏: 大量の資料を使うのは哲学史を書く時と、翻訳でマニアックな訳注をつける時ですが、私はもともと調べ物が苦手で、図書館もあまり使わずに、だいたい手持ちの本で書いてしまいます。例えばカントに特化している人だったら、カントにまつわる二次文献だけで書斎がいっぱいになると思うのですが、私はそういう形ではやってこなかったからバラバラと持っています。
本自体は好きだから、例えばある全集が欲しいと思うと、全部読むことはないのですけれど、やっぱり買ってしまいます。それがたまたま何かの仕事で引き受けた時に「ああ、そういえば持っていた」って言って役に立つということはあります。研究者としては多い方だとは思いませんけれど、広く持っている方でしょう。どうしても手に入らない本は、大学院生に頼んで探してもらったりしています。
あと、私はユングなんて1行も信じないけど、本を探していると、ユングでいう「共時性」のような偶然が重なります。例えば、どうしてもこの哲学者についてうまく書かなきゃいけなきゃいけないという時に、東大の正門前の古本屋に必要な本が置いてあったという偶然が3、4回はあります。

――外的な要因というお話がありましたが、新しいお仕事の依頼があった時に、引き受けたり断ったりする基準はあるのでしょうか?


熊野純彦氏: 自分の関心が下から何となく熟成するのと、上から降ってくるものが合うかどうかです。あまりにもとんでもない方向からの依頼は断ります。それと、中には首をひねりたくなるような編集者もいて、私の本を読んでくれているのは非常に光栄ですし、ありがたいことなのですけど、「似たような本を書いてください」という依頼はすぐに断ります。
それから、いわゆるアクチュアルな事象についての発言。例えば3.11について、複数の取材依頼や原稿依頼がありましたけど、全部断りました。色々な人が発言しますけど、8割9割はあぶくのように消えていく言葉です。私は語る言葉を準備していないことについては書かないし言いません。最も醜いのは、そのような時に自分の仕事を宣伝しているとしか思えないような発言をすることです。そういう場合、たいてい、当事者ではない者に発言を求めるわけです。3.11だったら本当の当事者は発言すらできません。当事者の近くであたかも寄り添うように何かを語るのは、自分に対して許せないので断ります。

本を読み続けるために研究者になった


――幼少期からの読書体験などについてお聞きしていきます。熊野さんは横須賀のお生まれですね。


熊野純彦氏: 横須賀で生まれて6年程いて、それから鎌倉市の大船に高1までいました。その後、親が家を買って相模原にしばらくいました。だいたい神奈川県内ですね。幼少期は本当につまらないことしかなくて、私の年代のごく普通の子どもの環境だったと思います。
1958年の生まれで、戦争が終わって13年しか経ってない、高度成長期の直前です。そのころ、全集物ブームがあって、ある程度の余裕がある家庭では、インテリアに日本文学全集だ世界文学全集だ、百科事典とそろえていくような時代で、そういうものが身近にありました。今でもよく覚えているのは小学校の時にかなり長い百科事典が月に1冊ずつ配本されていて、それを全部読んだ記憶です。端から端までというより、新聞のようにぱらぱらとめくる感じで読みました。小学校の5、6年のころはクイズ番組に出たらきっと強かったろうなという気がします(笑)。それが自覚している最初のころの活字との接し方です。

――哲学に関する本を読むことはいつごろ始められたのでしょうか?


熊野純彦氏: 中学に入ってすぐ、文庫、新書を買い始めて、親のお仕着せとかではないものを読み始めて、小説が多かったのですが、比較的早い時期に哲学書に近いものにも親しんだとは思います。ある種の経験則なのですけども、子どもに絵本とか、子ども用の本を与えても、そのこと自体は本好きの子どもを作らない。分かれ目は、中学で少し小遣いが増えた時に、自分のお金で本を買い始めるかどうかだと思います。乏しい小遣いをやりくりして買った本は大切です。ただ、全くの無駄話ですけど、私が昔買った本は、飼っていた猫におしっこをかけられて、全部捨てざるを得なかった。猫のおしっこはどうしても取れないですね(笑)。

――研究者になろうと思われたきっかけはどういったことでしたか?


熊野純彦氏: 私の時代では、東京大学は、文学部に入ってくる半数前後は、とりあえず大学院志望だったと思います。最近では大学院志望は10パーセントを切るんです。私なんかの感覚だと、東大文学部に来て、特に研究者になりたくもないっていうのが、よくわからない。私は、何の領域であれ研究者になりたいという気持ちがありました。必要以上に金もうけをしようとも思わなかったし、はっきり言えば世の中の役に立とうとも全く思わなかった。だいたい文学部の教授はそうですけど、本に囲まれて、本と一緒に暮らす一生を送りたいと思ったのが、研究者を漠然と志望したきっかけです。20歳前から廣松渉先生に相談して、逃げ場がなくなったところもありました。先生は私が就職するって言ったら多分怒ったでしょうね。
学生って、サラリーマンってどういうものか誰もわかってないと思います。大月隆寛さんの言葉だけれど、「いつか行かなきゃいけない憂うつなところ」みたいなイメージしかない。よくわからないサラリーマンに皆よくなるなっていうところがあって、「私には無理だ」と思った。朝も起きられないし、本を読む時間が少なくなるのは耐えられない。思いつく選択肢は大学に残ることでした。

「趣味の読書」に一抹の不安


――熊野さんは、普段どのような時に本を読んでいますか?


熊野純彦氏: 家にいる時は必ず何かの本を手にしています。ただ、同時に必ずテレビもついている。本当にちゃんとした仕事の時は自分の勉強部屋に行きます。夜もテレビもつけながら何かの本は読んでいます。今は藤沢に住んでいて、東海道線に50分乗るので、それは良い読書の時間ですね。ありふれた話だけれど、私は10分電車に乗る時も、活字を持ってないとだめです。基本、常に活字は携えています。

――まさに「本と一緒に暮らす」生活をされているのですね。


熊野純彦氏: 私は研究者としての店じまいした後に楽しみを残しています。大学の教師が終わりとなったら、専門の本なんて読みません。非常に愛着のある哲学書の古典はありますが、義務として読むような研究書なんて読んでたまるかと思います。
源氏物語』とプルーストの原文を繰り返し読みたいとか、色々計画しています。源氏は古典集成の簡単なものを1回読んで非常に感動しまして、プルーストは翻訳で読んで、部分的にフランス語のテキストで読んだけど、繰り返し原文で読みたいと思っています。それから、うんと若い時、ロシア文学全集を古本屋で買ったことがあって、それは老後に読むために手をつけていません。ただ、私は今年55歳で、保険の組合からパンフレットが来て、そこに「楽しい老後を過ごすためには趣味を作りましょう」なんてばかなことが書いてあるのですが、「ただし目を使う趣味はだめです」と書いてある。いずれ目はだめになりますから、目を使う以外の趣味を作りましょうと。だから、計画がガラガラと崩れてしまう。
老後の趣味として、本当の意味での読書を予定していたんですけど、もともと目は悪いのでどうなるかわかりません。私は自分の仕事ではおそらく今後もデジタル化した本を一切使わないと思っていますが、目が悪くなった時に、いくらでも文字が拡大できるから、良いツールかなとも思い始めました。

電子は紙の代わりにはならない


――現在利用していない理由も含め、電子書籍についてのお考えをお聞かせください。


熊野純彦氏: 私はまず何であれ、新しいテクノロジーがあったとして、それのお先棒は担ぎたくない。かといって、それに立ちはだかりたくもないというのが基本的なスタンスです。前者は軽薄だし、後者は愚劣だからです。ただ、付き合いのある本屋さんで私の本をデジタル化したいという申し出があったのですが、某書店なんかは誰も買わないような笑っちゃう定価をつけています。紙媒体の方がずっと安い。無理だと思いますが、理想的には、余裕のある本屋が持ち出し覚悟で、定着するまで安い値段をつけるべきだと思います。単純な原価計算をしていると、すごく高くなるから、全然根付いていないのだと思います。
仕事で使う外国の哲学者の全集なんかもデジタル化されていますが、私は一切使いません。理由は、私にとっては必要ないからです。私は電子辞書も使いませんけれど、電子辞書と本の辞書の違いは、要するに前後を読むかってことです。それはもちろん、テキストを読む時もそうです。これからの人は絶対使うでしょうし、使うなとはもちろん学生には言いませんが、人文系の学問では、完全に取って代わるのは不可能だろうと思います。
それと個人的な話では、やっぱり私は古典的な媒体自体に愛着がある。作品社の高木有さんが、本は工芸品なのだと言っていて、私も、日本最高の装丁家を動員して非常にきれいな本を作ってもらった。日本の装丁技術はやっぱり高いわけです。ところが、使わないと人がいなくなってしまうので、美しい本は作り続けなければいけないと思います。

――検索の効率が上がることで、発展する人文系の研究もあるのではないでしょうか?


熊野純彦氏: ある種のテキスト研究で、用例のすべてを洗い出すといった研究ですね。それはもちろん立派な研究なのですが、私はそういったスタイルの研究はしてこなかったし、これから先は、なおさらしないだろうと思います。ただ、これは痛恨のことなのですけど、細かな訳注をつける仕事で、1つだけ学生にデジタルで調べてもらいました。引用が気になって気になってしょうがなくて、学生にちょっと調べてって頼んで、そいつも紙媒体でずっと調べていたけど、どうしても見つからない。それをCD-ROMで引いたら簡単に見つかりました。
それと、自分の原稿については書いたことを忘れるから、データで携帯するんです。検索したら過去書いたものに一発で戻れるから、あんなに便利なものはないのですけれど、それは自分の原稿だけで、人さまが書いた本についてはしないです。私はかつて自分の記憶力に過度な自信があって、全くノートを取ったことがなかった。過去に読んだものを探せばだいたい見つかる自信があった。でも今はだめで、全部ひっくり返しても見つからない。カード法とかもはやった時代でもあるんですが、ものぐさと自信過剰でカードもノートも作らなかった。だから、あと数年しか学者生活はもたないだろうと思っています(笑)。
今はカントを訳していますが、単語の記憶もぼろぼろと落ちていますから、必然的に辞書を引くのですが、だんだん辞書の字がつらくなってきている。カントは幸い、項目的な訳注をつけない方針でやっているのですけれども、別のもので、訳注をつけたいという時に、ちょっと自信がないです。翻訳は体力仕事なのです。座り仕事だから、腰にもお尻にも悪いですしね。

「脅かしっこ」の文化の消滅


――活字離れなどと言われますが、読書をとりまく状況はどのように感じられていますか?


熊野純彦氏: 学生すら本を読まなくなっています。お恥ずかしい話ですが、ここの文学部の学生で、これまで読んだ本は教科書と参考書以外ないとか、ハウツーもの以外ないとか、本らしい本を読まず、しかもそれを全く恥だと思わないっていう学生がついに出てきています。
私の時代が良かったとも全く思わないけど、1970年代でも、まだはっきりした形で小生意気な少年達の間で「脅かしっこ」の文化がありました。「え、読んでないの?信じられない」という文化です。一番悪質なやつは、手前でも読んでない本を挙げる(笑)。哲学、倫理学でも、大物の基本的なテキストは、実際は読んでない人がいっぱいいると思うけど、「何となく知っています」って顔はするわけです。そういう文化は、今の学生のよく勉強する子に聞くと、絶滅したそうです。例えば、東大の教養学部でも、本の話はしない、映画の話もしない。なるべく私は学生の悪口は言いたくないんだけど、でも事実としてありますね。

――学生が本を読まなくなったのは何が原因なのでしょうか?


熊野純彦氏: わからないですね。ただ読書が特権的な、あるいは唯一の時間の消費の仕方ではなくなったことははっきりしています。かつ、読書人とか知識人とか教養人とかっていうのが、ずいぶん前からいなくなっているんじゃないでしょうか。私も書き手の1人ですから、「読むべき本を出さないからでしょう」と言われたらぐうの音も出ないですが。

――出版業界の状況も変化はあるのでしょうか?


熊野純彦氏: 工夫が足りない編集者もいるのではないかと感じます。どうしてこの人の本ばかりが立て続けに出るんだろうと、首をひねりたくなるような人が何人かいますよね。その手の読み捨てられるしかない本が平積みにして空間を占拠しているわけです。これだけ本が出なくなっているのに、要らない本が出続けているというところがある。

書き手に「ほれる」才能を


――編集者の役割はどういったところにあるのでしょうか?


熊野純彦氏: 私は、その人からの仕事は無理してでも引き受けようと思う編集者が数人います。理想の編集者は、絶対当人に向かっては言いませんが、私にほれてくれている人です。最近、ちょっと悲しいなと思うのが、メールで依頼されることが多くなっていることです。
私が初めて本を出してもらったところでは、手書きの長文の手紙が来ました。それで、「そこまでおっしゃっていただけるんでしたら」というのがあった。仕事を続けている何人かの編集者は、最初の出会いからして違います。もちろん全部要望に応えられたわけではなくて、若い時を含めて不義理ばかり重ねたという後悔もあります。初めての本を出す時は、皆無名なわけですよね。優れた学術論文を出している人も、本がなければ世間的にはゼロだと思うんです。無名な文献が、本としてデビューする時に、目配りを利かせて、書き手にほれてくれる編集者がすごく大事だと思います。
編集者は、色々な本をお作りになるから、すべてについて専門家であるわけはなくて、限られた分野であれば書き手の方が専門家です。だから、内容で有意義な仕事だと認めてくださることもちろんうれしいですが、「文章が良い」、「熊野さんの文章を読みたい」って言ってくれるのが一番うれしいです。編集者さんに限らず、一般読者の方からも、中身をほめられるよりうれしいかもしれません。私の文章が読みにくいという人も多いし、大嫌いっていう人もいるでしょうから、編集者であれば、大変高慢ですけど、私の文章が好きな人と仕事をしたいですね。



――編集者からの示唆で内容が磨き上げられるということもありますか?


熊野純彦氏: 書き手は、ある種のナルシシズムがないと書けないので、ほめてほしいっていうのもありますが、ちゃんとだめ出ししてくれることも必要です。自分の文章は、何度見ても直らないところがあります。何度もゲラで読んでいるのに気がつかないこともある。そういう時にちゃんとチェックしてくれるというのは必要です。今はそれができない編集者もおそらくいると思います。それと、私は「その企画だったらあっという間に書ける」というような依頼はうれしくありません。外的なきっかけから、泥縄で勉強してものを書くので、背伸びをさせてくれないと仕事にならないところがある。だから、書き手の能力の少し上位で向こうから提案してくれる編集者はすごく貴重だと思います。

目の前の仕事の完成を目指す


――最後に、先ほどお聞きした新著についても含めて、今後の展望をお聞かせください。


熊野純彦氏: 長期はもちろん、中期的な展望すら持てないんです。目の前のことでいっぱいです。翻訳は毎日やらないとできないタイプですので、ほぼ毎日やってますけど、カントは『判断力批判』を来年までに仕上げたら、基本終わりだと思っています。翻訳をあと1つやるのだったら、したいことはあるんですけれど、体力的な条件とか、本屋さんのラインナップの問題とかで無理だろうなと思っています。
『マルクス 資本論の思考』について付け加えると、私の友達には「最後の活動家」みたいな人がいっぱいいるんですけど、皆、『資本論』は第1巻しか読んでないんです。もっとひどいやつは『共産党宣言』と『賃労働と資本』だけを読んで党派に入る人もいたんです。私もかなり長い間、まじめに読んだのは第1巻だけでしたが、全3巻を読むという企画です。しかも、第1巻、第2巻、第3巻を、ほぼ原文の分量に応じたプロポーションで、最後まで手を抜かず書きました。「10分でわかる」というような本は、うそに決まっているわけです。だから「きちんと資本論を読むんだ」という本にします。これが、私が今まで出した本の中で、翻訳を除けば最も大著になりまして、700ページを超えます。だから、今はほとんどそれで頭がいっぱいです。

(聞き手:沖中幸太郎)

著書一覧『 熊野純彦

この著者のタグ: 『大学教授』 『哲学』 『考え方』 『研究』 『研究者』 『趣味』

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