電子でも紙でもこだわらない。
大切なのは活動を「知ってもらう」こと。
小暮真久さんは日本の社会起業家であり、NPO法人TABLE FOR TWO Internationalの活動を通じて、先進国と開発途上国間における食料不均衡問題の同時解決を目指しています。社会起業に関する著作もあり、『「20円」で世界をつなぐ仕事』『20代からはじめる社会貢献: 400社が支援した「社会起業」とは』『社会をよくしてお金も稼げるしくみのつくりかた』などの書籍を通じて、社会貢献、社会起業に関する情報も発信されています。小暮さんに、NPO法人を設立するきっかけや活動、読書や幼少期に関することなどをお伺いしました。
TABLE FOR TWO自体の活動プラス、社会貢献の仕組みを背負った商品を開発中。
――早速、TABLE FOR TWO(TFT) の活動も含めて、お話をお伺いしたいと思います。
小暮真久氏: 今ここで飲んでいただいているこのお水もOisixという会社から出している商品で、TABLE FOR TWO専用に作ってもらったものです。この水も、買っていただくと、支援している子どもたちの学校給食につながるという仕組みが組み込まれている商品の1つです。最初は社員食堂から始まったTFTプログラムですが、こういう商品や仕組みが少しずつ増えてきています。
TABLE FOR TWOの使命は、地球上の「食のねじれ」を解消すること。
――TABLE FOR TWOの取り組みの内容を、詳しく教えていただけますか?
小暮真久氏: 最終的に目指すゴールは、地球上で「食のねじれ」と言いますか、食の不均衡によって起きている飢餓と肥満を同時に解決することです。なぜ同時かと言うと、世界中で食料の不平等、配分の不平等が起きてしまっていて、貧困に苦しむ人々は10億人にものぼります。一方で、肥満や生活習慣病に悩む人々も10億人います。TABLE FOR TWOは、先進国では少し食べる量を抑え、その余剰分を食料が足りない国へと回るようにするという活動です。でも、理念を唱えているだけでは、問題は解決しないので、まずは普段の僕らの食事に関して、運動をしていこうと考えました
――具体的にはどのような運動を開始されたのですか?
小暮真久氏: 最初は社員食堂の食事を、腹八分目ぐらいのご飯の量にして、その少し抑えた分との差額を20円でアフリカの子どもたちに栄養豊富な給食が届くようなシステムにしました。先進国の人とアフリカの子どもが、2人で食事をしているようなイメージから、「2人の食卓(TABLE FOR TWO)」 という名前をつけて活動しています。食堂でそのプログラムをやっていただくことを中心に、560もの団体が参加しています。この運動は日本で始まりましたが、今や10カ国で活動が展開されています。
真久という名前には「世界の平和に貢献できるように」という願いが込められた。
――ご自身でこのお仕事を天職と仰っていたと思いますが、今日はその天職に至るまでの歩みを、読書と絡めまして幼少期の頃からさかのぼってお伺いできればと思います。
小暮真久氏: 子どもの頃から「社会貢献をしたい」という正義心があったわけではありませんが、僕の「真久」という名前の由来は、「世界の平和に貢献できるように」という想いからだったと聞いています。子どもの頃は普通に遊んでいる子で、読書も小学校の頃は週刊少年ジャンプや、あらゆる漫画を読んでいました。漫画以外の本といえば、『日本の歴史』などは読んでいましたが、読書少年だったかというと、決してそうではなかったと思います。
――早稲田大学理工学部に進まれていますが、選ばれた理由はどのようなものでしたか?
小暮真久氏: 大学の学問の中で、自分が勉強したい学問があまりなかったのです。僕はどちらかというと理数系の方が好きで得意だったので、なんとなく工学部に行こうと思いました。大学の最初の1年ぐらいは何をしていいのかよく分からず、海外へバックパックの旅をし始めたんです。そうしたら、旅にすごくはまって、色々な国を旅行して、同じようなバックパッカーの人たちと泊まったりするのが面白くなりました。スロバキアで2ヶ月半ぐらい、色々な国から来ている人たちと一緒に寮生活をしたこともありました。その頃から卒業したら海外で学びたいと思うようになって、選んだテーマというのが人工心臓というユニバーサルなテーマだった。それで担当教授にお願いして、オーストラリア留学への道が開けたという感じです。
旅をするうちに、自分の好きなことが見えてきた。
――最初の旅はどのようなところに行かれましたか?
小暮真久氏: 韓国、東南アジア、シンガポールやマレーシアなどアジア中心の旅で、その後はドイツや東欧です。アメリカにも2、3回行きました。
――東欧を選ばれたのはなぜでしょうか?
小暮真久氏: たまたま応募していたプログラムで僕が補欠で、誰かが辞退すれば行けるという状況でした。当時は東欧の情勢が悪く、主席合格の人が危ないという理由で辞退したのです。「どうします?」と聞かれましたが、僕は別に気にならなかったし、当時していた服装などを考えると、「襲われることもないだろう」と思っていました(笑)。
――怖くはありませんでしたか?
小暮真久氏: 夜に酒場へ行くと、アジア人を初めて見たという人から、ちょっかいを出されたりしたこともあります。町を歩いていても、確かにアジア人は自分しかいないという状況でした。
著書一覧『 小暮真久 』