日本語を、肩ひじ張らず自由にする
石黒圭さんは、日本語の文章・読解・作文などを研究分野とされ、一橋大学の国際教育センター・言語社会研究科教授として教鞭をとられる傍ら、『よくわかる文章表現の技術』(全5巻)『文章は接続詞で決まる』など、一般向けの言語技術に関する著書も多数あります。読書の体験、日本語への思いや、電子書籍に対する考察もお伺いしました。
日本語を教えるこの仕事が、面白い
――近況をお伺いします。
石黒圭氏: 私は一橋大学の国際教育センターというところに勤務しています。国際教育センターは、海外から留学生を受け入れるという仕事と、日本の学生を留学生として海外に送り出すという仕事の二つを行う機関です。
私は、日本に来た留学生たちに日本語を教育する日本語教育部門の部門長をしています。日本語を学びたい留学生たちに日本語を教えるのが、私の仕事の中心です。また、日本人の学部学生に対して講義をすることもありますし、将来日本語教育の指導者になる大学院生を育てる仕事にも携わっています。
大学院生は専門的な研究をするので、一人の学生を担当するだけでも大変なのですが、私のゼミには常時10名以上の大学院生が所属しています。中国人がもっとも多く、続いて日本人、あとは韓国、台湾、ウクライナ、フランスという感じで国籍も様々です。
たとえば、小著のネタとして使ったCLAMP『カードキャプターさくら』のケロちゃんは、原作では大阪弁だが、フランスではマルセイユ弁だ。マルセイユはフランス第二の都市で、お笑いの土壌がある点で大阪と共通点があるから、と教えてくれたのはフランス人の大学院生です。私の知らないことをいろいろと教えてくれるので、若い院生とのお付き合いは貴重です。
――学生の方とはどのような感じでコミュニケーションされているのでしょうか?
石黒圭氏: 私自身は外国語が苦手ですし、仮に得意だったとしても、学生に日本語を使わせるのが仕事ですので、会話はすべて日本語です。今指導している大学院生は、どの学生も、おそらく普通の日本人よりもはるかに日本語ができます。日本人だから日本語ができるというのが神話に過ぎないことを日々実感しています。
もちろん、交換留学生などには、日本語がほとんどできない学生もいますが、そうした学生とも日本語でコミュニケーションを取るノウハウを私は持っています。例えば「食事」という言葉では通じなくても、「ごはん、食べる」と言い変えてみたり、「いただきます!」と言ってみたりすれば通じます。難しい日本語を、学生が習ったばかりの易しい日本語に変換すれば、通じさせることは可能なのです。
私たちは海外にいるとき、限られた文型と限られた語彙で話をしなければなりません。それと同じことを日本語でも実践すればいいのです。相手の日本語がどんなにつたない日本語であっても、相手が使っている言葉を使えば、言葉はかならず通じます。そこで、相手の言うことを注意深く聞いて、相手がどういう文型と語彙を使って話しているかを素早く分析し、その分析を自分の言葉に反映させるのが、外国人と日本語で話すコツです。
生まれたところより、言語形成期を過ごした場所が重要
――大阪生まれの神奈川出身ということでいらっしゃいますが。
石黒圭氏: 大阪府高槻市生まれです。当時住んでいたのは両親が出会った茨木市ですが、父が転勤族だったので幼少期はあちこちに移動していました。幼稚園の年長の時に浦和に移り、小2のときからはずっと横浜です。プロフィールに大阪府生まれの神奈川県出身という妙なことを書くのは、言語研究者としては、生まれたところよりも自分の言語の基盤を作った言語形成期の方が重要だと思うので、わざわざ神奈川県出身ということにしているのです。
――子どもの頃はどのようなお子さんでしたか?
石黒圭氏: 本が好きな子どもでした。スポーツはからっきし駄目で、小学校の頃は少年野球チームに入り、中学校では陸上部に所属していたのですが、試合や大会には縁のない控え専門でした。高校ではハンドボール部に入り、ようやくレギュラーの座をつかみました。ただし、ボールをぶつけられるのが専門のキーパーというポジションです。ハンドボールのゴールというのは比較的小さいので、多少運動神経が鈍くても、大きな6尺(=183cm)の人間が前に立っていれば、ボールがゴールに入りにくかったのだろうと思います。とはいえ、運動部に入っていても、サボりの常習犯で、さっさと家に帰ってきて、好きな本を読んでいる困った少年でした。
――どのような本が印象に残っていますか?
石黒圭氏: 岩波少年文庫のような読みものを読んでいました。親も読書推進派でしたので、本だけはたくさん買ってもらっていたと思います。たとえば、河合雅雄さんの『少年動物誌』という本が記憶に残っています。河合雅雄さんは河合隼雄さんの弟さんで、京都大学のモンキーセンターの所長をされていた方です。自然と戯れていた子どものころの思い出話で、動物や魚が好きだった私はとくに惹かれました。コンラート・ローレンツ『ソロモンの指環―動物行動学入門』なども好きでした。
私には、9歳を筆頭に5歳と0歳の3人の娘がいるんですが、家の中には絵本が山のようにあります。活字を与えていればなんとかなるだろうという、そういう教育方針です。あとは、近くに大きな都立公園があるので、自然のなかでのびのび遊んでくれと(笑)。私は早期教育にはまったく関心がありません。自然に親しみ、本を読んでいてくれさえすれば、それでいいのかなという気がしています。
大学受験でも社会人になってからも必要とされるのは、言語という記号を扱う能力です。英語も、数学も、コンピュータも、コミュニケーションも、すべて言語能力です。スポーツの世界や料理の世界でさえも、言語能力が欠かせないと言われます。その基盤となるのは母語である日本語の能力です。そして、その日本語の能力をみがくのには読書、特に多読が一番だと私は確信しています。