電子書籍は、デバイスの役割が重要になってくる
――ユーザーが書籍を電子化した本を読むということに対して、書き手として何か特別な思いはございますか?
石黒圭氏: 私自身は、電子書籍を読んだことがないので分からないというのが正直なところです。もちろん研究者なので、PDF化された論文に目を通す機会は山ほどあり、その便利さは痛感しています。ですから、電子書籍に関して全く抵抗はありません。
――電子の情報で読む時に重要だと思われるのはどのようなことでしょうか?
石黒圭氏: 情報の中身より外見だと思います。たとえば、職場で使っているパソコンで自分の趣味の本を読んでも、どうも落ち着きません。反対に、プライベートでしか使わないiPadで仕事の文書を読むと気が滅入ります。電子書籍を読む場合、端末の性格が読んでいる人の読み方や気分に影響を与える面が大きいと思うのです。紙の本では、装丁や紙の質などでそうした区別が自然と行われていたのですが、電子書籍の場合、そうした区別は自分ですることになります。それが読むという行為にどんな影響を及ぼすのか、そこに私は興味を抱いています。
ベストセラーよりもロングセラーを。もっと言葉を自由にしたい。
――普段本を書かれる時は、どのような思いで取り組まれていますか?
石黒圭氏: 売れない本を書くように心がけています(笑)。正確には、爆発的に売れるような市場は狙わず、細々とではあっても長く売れる市場を狙うようにしています。
私の本は文章の書き方の類が中心ですが、残念ながら、市場で売れている文章の書き方の本はウソが書かれているものが多いのです。わかりやすい本は確かに読んでいて心地よいのですが、わかりやすく単純化して書かれた本にはどうしてもウソが紛れこんでいます。丁寧体と普通体を交ぜて書いてはいけない、文は短く書かなければならない、論文では受け身を使わないほうがよいなど、枚挙にいとまがありません。そのようなウソをできる範囲で修正し、世の中にウソが流通するのを防ぎたいのが、私自身の執筆動機です。
文章を書く作業はそんなに易しくはありません。努力を必要とする、しんどく面倒くさい作業です。それがきちんとできるようになるためには、正しい知識と十分なトレーニングが必要です。そのことが分かってくださる方に私の本が選ばれれば、それで満足です。つまり、メッセージを伝えるために書いているので、ベストセラーよりも細く長く読み継がれるロングセラーを目指す、というのが私の基本的なスタンスです。
――国語教育に対しては、どのような思いがありますか?
石黒圭氏: 暗記物として言葉が教えられているというのが、もっとも大きな問題でしょう。「未然―連用―終止―連体―仮定―命令、はい、憶えましょう!」では、言葉の持つ面白さ、不思議さが伝わりません。言葉の面白いところは、変化をする過程で、自然と時代にあった合理的な形が選択されるところにあります。それなのに、その結果だけを取り出して「はい、憶えましょう!」ではもったいなさ過ぎます。それに、英語であれば、英語が使えるようになるために暗記は必要でしょうが、日本語はすでに使えるのですから暗記は不要です。
また、教科書に載っている文章が文学作品を中心とした定番のものである点も問題です。私たちがふだん話したり聞いたりしているものこそが言葉です。アニメにだって、ゲームにだって、J-POPの歌詞にだって、生きた言葉はあふれています。それを自分なりの見方で分析し、考えるような授業ができたらどんなによいでしょうか。意識の高い国語の先生は、そうした自由がなかなか許されない状況にあるので、気の毒だと思います。
さらに、国語という授業ではなく、言語という授業になればさらによいと思います。言語の授業のなかに、日本語、英語、数学が並ぶのです。そこに、英語以外の外国語や、コンピュータの言語、手話や方言などのバラエティがあるともっとよいでしょう。言語というと、すぐに「コミュニケーションの道具」という発想が出てきます。それは一面の真理ですが、もう一つ、「考える道具」という、忘れてはいけない面があります。私たちの思考の基盤は言語によってできあがっているのです。そうした言語は私たちの頭に複数ありますので、それを連関させて考えることで、言語的思考がより強固なものになると私は思います。
――そこまで進むのは難しいと思いますが、当面できることはどんなことでしょうか。
石黒圭氏: 国語教育はどうしても試験と結びつきやすいので、あれをやっては駄目、これをやっては駄目という方向に話が進みやすいようです。また、漢字の書き取りでも作文の添削でも先生が間違ったところに朱を入れるという「常識」がまかり通っています。しかし、言葉というものは、本当にそのようながんじがらめのルールで縛られているものでしょうか。言葉は変化するものであり、年配の人が眉をひそめるような用法が定着するところにその本質があります。
ですから、あれも駄目、これも駄目と揚げ足を取るではなく、「あなたが使っている言葉でいいんだよ」というメッセージをもっと子どもたちに届けてあげてほしいと思います。私自身の読者対象は成人ですが、それでも、言葉につきまとう「正しさ」の呪縛から解き放たれて、自分の思うままにもっと自由に書いてほしいという気持ちを込めて本を書いています。読んでいる人にさえ、書いている人の意図が伝われば、どのような書き方をしてもよい。答えは幾通りもあるし、自分なりの別解を編み出すことができるというのが、文章を書くことの魅力です。