村上春樹の魅力は「メタ的」に文章を書いていること。
――文章がうまくなりたいという人にはどのようなメッセージを送りたいですか。
石黒圭氏: 良い書き手になるには、良い読み手になることが必要です。よい読み手が自分の頭の中にいて自分の書いた文章をチェックしてくれれば、文章の質は自然と上がります。そのためには、「メタ的な思考」が重要になります。
自分が書いた文章はなかなか客観的には見られないものです。だからこそ、自分からは突き放して外側から客観的にとらえることが必要です。自分は普段どのような言葉遣いをしているんだろうか、自分はどのようなスタイルで文章を書いているんだろうか、それをどういう風に構造化しているんだろうか、それを読者がどう思っているんだろうかという風に、常に言語を客観視することが必要になってきます。そういうメタ的な視点が、その人の文章力向上の支えになってくれると私は考えています。
――良い書き手になるためには、メタ的な思考、センスが必要ということなのですね。
石黒圭氏: その通りです。読みやすい文章を書く人はおしなべてこのメタ的な思考、センスを持っています。たとえば、内田樹さん。読み手の知識や理解を考えて、論理をできるだけ飛躍させないように順を追って書くように心がけていることがわかります。ですから、読み手は書き手の敷いたレールに乗って理解できるようになっています。
別の見方で言うと、村上春樹さん。留学生に聞くと、アメリカ人であろうと、中国人であろうと、英語や中国語に訳された作品はもちろん、日本語で書かれた作品でも圧倒的に読みやすい部類に入ると言います。内容やストーリーの展開の面白さはもちろんでしょうが、村上さんは明らかに翻訳されることを前提に、つまり日本語を外国語として書いていることにも、世界的に受け入れられている要因があるのでしょう。大学入試の英作文で日本語としてこなれた文章を英訳する場合、一度それを訳しやすい日本語に直してから英語にするというテクニックがあります。村上さんの作品はまさにその訳しやすい日本語に直されている印象があるのです。
もちろん、日本語は文脈依存性が高い、すなわち閉じた言語であり、例えば俳句や短歌などに関しては、多様な読み込みを可能にするその曖昧性が作品世界の豊かさにつながっており、それを否定することはできないと思います。ただ、人に文章で言葉を伝えようとする場合、文脈に依存しないで書くというのはとても重要なことだと思います。
編集者はパートナーでもあり、よきライバル
――石黒さんにとって、編集者はどのような存在でしょうか?
石黒圭氏: パートナーであり、最初の読者であるとよく言われ、私もその通りだと思っています。と同時に、ライバルだという風にも感じています。敵対関係にあるという意味ではなく、好敵手。「この人に、面白いねと言わせたい!」という存在です。
――出版社や編集者の役割については、どうお考えですか?
石黒圭氏: 本の商品価値を保証するものです。現在、多くの文章をインターネット上でただで読むことができますが、インターネット上の文章は玉石混淆です。しかも、割合から言うと、そのかなりの部分は「玉」ではなく「石」です。そのことに気づきにくいのは、勘のよい多くの読者は、自然と「石」を遠ざけ、「玉」を選りすぐって読むようにしているからです。
しかし、出版される本は「玉」の確率が高いと言えるでしょう。編集者というプロの目をくぐることで内容面でも精査されますし、表現面でも伝わりやすい言葉に修正されています。また、出版社が商業的に見合うと判断して出す本は、社会的に一定の価値を持つ確率が高いからです。
本の付加価値やブランド力を支えるのは出版社であり編集者なので、電子書籍時代になっても引き続き重要な役割を担っていくと思います。