医学部を志すが進路変更。一橋大学の社会学部へ
――一橋大学社会学部に進まれますが、その道を志そうと思われたのはなぜですか?
石黒圭氏: つぶしが利くと父に言われたからです(笑)。現役のとき、私は北海道大学に進学しました。憧れて入った北大でしたが、いろいろあって中退してしまいました。そして、医学部を再受験しようと思ったのですが、センター試験を受けた後、「やはり医者は自分には向かないのではないか」と思い直して、入学してから進路が考えられそうな一橋の社会学部に入りました。そのときの直感は正しかったと今では思っています。
――言語学との出会いはどのようなことがきっかけだったのでしょうか?
石黒圭氏: 高校時代に本多勝一というジャーナリストの『日本語の作文技術』を読み、感銘を受けました。その本に田中克彦という社会言語学者が出てくるのですが、その先生が社会学部にいらっしゃると分かったので、田中先生のところで勉強しようと思いました。
でも、田中先生のゼミに出て、英語の比較言語学の文献を読まされる中で、言語学というのはたくさんの外国語ができなければいけないことを痛感させられました。私自身は外国語が全然ダメで、「日本語だけでやる方法はないかな」という消極的な考えの下、日本語のゼミに進路変更をしました。
門を叩いたのは松岡弘先生のゼミで、日本語教育がご専門の先生でした。それが、留学生に日本語を教える世界との出会いになりました。松岡先生のゼミは、数年に一度学生が来ればいいほう、という超少人数制のゼミだったので、丁寧にご指導をいただき、私もその道に進もうと決心しました。
卒業論文は、読点に関するもので、留学生の添削をしながら色々考えたことをまとめました。ただし、その論文には本多勝一の『日本語の作文技術』の影響が色濃く見られ、その時に「いつか、留学生だけでなく、日本人も対象とした作文の本を書いてみたい」と思っていました。そのときの思いが、今につながっているわけです。
ロールモデルとなる先生に出会い、研究者の道へ
――大学卒業後、早稲田の大学院に進まれますね。
石黒圭氏: 一橋では日本語の研究を続けるのが難しかったので早稲田に移り、中村明先生のゼミに入りました。中村先生は、語彙、文法、文章、文体、レトリックなど、日本語のことなら何でもご存じの博識の先生です。国語の入試にもよく出題されますし、岩波書店の『日本語 語感の辞典』が最近よく売れたので、ご存じの方も多いでしょう。中村先生が早稲田で大学院生を担当されるようになったのは、50歳半ばを過ぎてからで、その頃はもう研究者としてのアイデンティティを強くはお持ちではなかったようです。君たちは研究をしなければいけないけど、僕は研究から半分足を洗った人間だから、好きなことを書くんだという感じでした。その話を聞いて、そういう生き方に憧れるようになりました。
――そういった先生方が、石黒さんの中でロールモデルになっていったのですね。
石黒圭氏: そうですね。その他にも、大学院時代は『基礎日本語辞典』という日本語の基礎語の辞典を一人で書き上げられた森田良行先生、漢語研究の第一人者で後に日本語学会の会長にもなられた野村雅昭先生にもご指導いただきました。また、松岡先生が研究会に参加し、かつ、国立国語研究所時代の中村先生の上司であった文章論の大家、林四郎先生にも80歳を過ぎてからいろいろと教えていただけたのも大きな財産です。
その時代の先生方は、どなたも、ご自身の言語観を明確にお持ちで、それが魅力です。現在は、大先生の時代ではなく、粒ぞろいの研究者がチームで何かを解明していく時代ですが、しばしば言語観の不在を感じます。言語とはいったい何なのか。そうした根本的な問いを抜きにして、重箱の隅をつつくことが言語研究だと勘違いしている若手・中堅が多いのは問題だと自戒を込めて思います。