じゃんけんで進路を決めるリスクを避け、文系就職をする
――卒業されてボストンコンサルティングに入社されますが、理系からコンサルティングへ行かれたきっかけはなんだったのでしょうか?
鈴木貴博氏: 理由はすごく単純で、僕のいた理系の研究室は、じゃんけんで就職先が決まっていたからなんです。要は、学科に対して「こういう会社から求人がきている」というリストがあって、SONYから2人、新日鉄から1人などといったものでした。どこに応募するのかと、25人の学生全員を教務課の人たちが集めて、希望の多いところはじゃんけんで勝った人が就職する、といった状態でした。僕は当時、SONYに行きたかったんです。周りに話を聞いてみたら、求人枠が1人のところ、25人中5人の希望者がいることが分かり、SONYに入れる確率は20パーセントでした。じゃんけんで負けた場合、必ず残りのどこかの企業に行かなきゃいけなかったんですが、そのルールから外れる唯一の方法は、文系就職することでした。銀行や、日経BPに入社する、という同じような人も同級生の中でも4人くらいいましたが、その中でも、コンサルティング会社に就職したのは僕1人でした。
――戦略的な選択だったのですね。
鈴木貴博氏: 普通の人は、じゃんけんで勝てばSONYに行けるという状況では、自分は勝てるかもしれないと思うのかもしれません。でも、冷静に考えたら8割方負ける勝負なのであって、その勝負に挑むよりも文系就職に行く、というのは僕からすると正しい。東大生がじゃんけんで自分の未来を決めていたわけなので、今考えても面白い世界だったなと思います(笑)。
――コンサルに白羽の矢を立てたのはなぜでしょう?
鈴木貴博氏: 当時、コンサルファームはあんまり知られてなかったのですが、たまたま商社を回っていた頃に「実はそういう会社があるんだけど、君に向いているかもしれないよ」と言われたり、「理系の人間も探しているんだよ」といった話を聞いたりしました。それで、マッキンゼーとボストンコンサルティングを受けに行きました。論文と面接試験で、論文のテーマは、「創造性とはなんなのか」ということだった。僕は「創造性とは実証することである」ということを書きたかったので、インスタントラーメンの作り方の話を論文に書きました。当時、即席ラーメンの上においしそうな目玉焼きがのっているコマーシャルをやっていたんですが、あれはとてもおいしそうだけど、実際に作るのは大変なんだという内容でした。いろいろ自分で試してみて、実際には同じようには作れないという原因が見つかりました。それから、色々と工夫をすると最終的には同じものが作れる、という方法にたどりついたんです。そういった事を例に挙げて、「創造性とはただの思いつきではなく、実証していく中で磨かれていくものなのだ」という論文を書きました。
人生の節目36歳で転職、新しい道へ
――BCGからネットイヤーを経て独立されましたが、独立に関しては早くから視野にいれていたのでしょうか?
鈴木貴博氏: 僕の人生設計は人生18年区切りで4クォーター、18歳、36歳、54歳、72歳で計算していて、そこから先はサッカーでいうロスタイムだという考え方でした。だから、36歳からは違った働き方をしようと前から決めていたんです。36歳までBCGにいたので、実は転職時期は自分の計算した時期とぴったりと重なっている。BCGのコンサルタントとはいえ、やっぱりサラリーマンです。サラリーマンとして社会人の基礎を学び、自分の基盤を作るということを36歳までにやり、そこから違った働き方をして、54歳からはできるだけ早くリタイアした生活ができないかなといった漠然とした計画を、20代の頃から考えていた。だから、36歳で転職したのは自分にとっては大きな意味があった。当時を振り返ると、荒波だったとは思いますが、「荒波って楽しいな」といった感じで乗り越えてきました。
独立し、コンサルタントとして雇われない人生を歩む
――いざ起業する、という時はどのようなお気持ちでしたか?
鈴木貴博氏: 人に支えられているということが分かって、感謝の気持ちがすごく大きくなってくるので、人間としての態度が変わっていったかもしれません。36歳からの人生は、「雇われない生き方」へと変わったように思います。雇われない生き方というのは、色々な意味で自由だけれど、会社は守ってくれないから、当然そのリスクもある。そういった世界で、このように荒波すら楽しくやってこられているのは、色々な人から支えられているからだということがよく分かります。
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